その傷口に、愛を注ぐ
青年は傷ついた深紅のバラを、栞の手にそっと載せた。
「これは?」
「あなたに」
「でも……」
「売り物にならないので」
少しだけ笑う。
「もらってください」
栞はバラを見る。
傷ついた花弁。
それでも、息を呑むほど美しい赤。
胸の奥が、また痛んだ。
「悲しまなくていいですよ」
青年の手が重なる。
栞の手を包み込むように。
その瞬間。
違和感が走った。
優しい。
なのに。
逃げられない。
そう思った。
青年の指は、栞の手を思った以上に強く握っていた。
「あなたを傷つけた男のことは」
青年が微笑む。
「僕が一緒に壊してあげますから」
「……え?」
栞は息を止めた。
聞き間違いかと思った。
けれど、青年は笑っている。
穏やかに。
あまりにも綺麗に。
だからこそ、怖かった。
「何を……」
栞が手を引こうとする。
だが青年は離さなかった。
「大丈夫」
「離して……」
「怖がらないでください」
声は優しい。
それなのに。
握る指だけが、少し強くなる。
背筋を甘い悪寒が駆け上がった。
逃げなければ。
頭ではそう思っている。
なのに、彼の瞳から目を逸らせない。
悲しみも。
怒りも。
惨めさも。
自分ですら見ないふりをしていたものまで、すべて見つけられてしまったような気がした。
青年が、ゆっくり口を開く。
「初めまして」
そして。
「栞さん」
世界から、音が消えた。
「…………え?」
今。
何と呼んだ?
栞は青年を見つめた。
私は、名乗っていない。
一度も。
青年の微笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「僕は律といいます」
「どうして……」
声が震える。
「どうして、私の名前……」
律は答えなかった。
ただ栞の手を包んだまま、その瞳を細めた。
そこにあったのは、初対面の女性へ向ける好奇心ではなかった。
もっと深い。
もっと重い。
ずっと昔から知っているものを、ようやく手に入れたような――。
そんな眼差しだった。
「……ずっと」
律の親指が、栞の手の甲をゆっくりとなぞる。
「あなたに会いたかった」
ぞくり。
身体が震えた。
怖い。
そのはずなのに。
手を振りほどけなかった。
家に帰れば、雅也がいる。
七年間信じていた夫。
そして目の前には、自分の名前を知っている見知らぬ男。
どちらが安全なのか。
そんなこと、考えるまでもないはずだった。
それなのに――。
今夜初めて。
自分の傷を見つけてくれたのは。
夫ではなく。
この男だった。
「栞さん」
律がもう一度、名前を呼ぶ。
優しく。
大切なものに触れるように。
そして、逃がさないように。
栞の手の中で、傷ついた深紅のバラが微かに揺れた。
夫の裏切りによって崩れた世界の、その先に。
もっと危険で。
もっと甘く。
決して触れてはいけない扉が開いている。
栞はまだ知らなかった。
あの夜、この花屋へ辿り着いたことさえ。
偶然ではなかったことを。