その傷口に、愛を注ぐ
第2章:毒を秘めた甘い蜜
律からもらった深紅のバラは、枯れなかった。
三日経っても。
五日経っても。
花弁は瑞々しいまま、栞の部屋で鮮烈な赤を放っている。
水を替えるたび、栞は思う。
――まるで、あの人みたい。
美しいのに、どこか怖い。
触れてはいけない気がするのに、目を逸らせない。
あの夜以来。
栞の日常は、何も変わっていない。
そして――すべてが変わった。
「栞」
リビングから雅也の声がした。
「今日の晩飯、何?」
キッチンに立つ栞の手が止まる。
「……まだ決めてない」
「は?」
雅也がスマートフォンから顔を上げた。
「今日、課長昇進の祝いなんだけど」
知っている。
朝から何度も聞かされた。
「少しは豪華にしろよ。こういうときくらい」
「…………」
以前なら。
おめでとう、と笑っていた。
雅也の好きなローストビーフを作って。
少し高いワインを買って。
ケーキまで用意して。
自分のことのように喜んでいた。
でも今は。
(この人のために?)
栞は包丁を握ったまま、雅也を見た。
ソファに深く腰掛け、スマートフォンを操作している。
口元がわずかに緩んでいた。
その表情を知っている。
自分には、もうずっと見せてくれない顔。
――莉子。
そう思った瞬間。
不思議なくらい、胸は痛まなかった。
代わりに。
すうっと、冷えていった。
「何?」
視線に気づいた雅也が眉を寄せる。
「……別に」
「だったら早く作ってくれよ。腹減ってんだから」
また画面へ視線を戻す。
ありがとう、すらない。
栞は手元へ目を落とした。
包丁の銀色の刃に、自分の顔が歪んで映っている。
七年間。
この男のために料理を作った。
洗濯をした。
掃除をした。
疲れているときには愚痴を聞いた。
仕事で苛立って帰ってきた夜は、機嫌を損ねないよう言葉を選んだ。
雅也の妻として。
雅也に恥をかかせないように。
雅也が安心して帰ってこられるように。
ずっと。
ずっと。
(……馬鹿みたい)
胸の中で、何かが音もなく切れた。
私は妻だったんじゃない。
この人にとって。
私は――。
(都合のいい家政婦だったんだ)
そこまで考えて。
栞は静かに包丁を置いた。
自分でも驚くほど、手は震えていなかった。