その傷口に、愛を注ぐ

その夜。

「悪い。急な出張入った」

ネクタイを締めながら、雅也は言った。

栞はダイニングテーブルの向こうから夫を見る。

「……今から?」

「ああ」

「どこ?」

一瞬。

雅也の指が止まった。

本当に、ほんの一瞬だった。

けれど今の栞には、それで充分だった。

「大阪」

「そう」

「明日の夜には戻る」

「分かった」

それ以上、何も聞かなかった。

以前なら。

着替えは?

新幹線の時間は?

明日のシャツは?

そうやって世話を焼いていた。

今日は、何もしない。

雅也は少し怪訝そうな顔をしたものの、すぐに興味を失ったらしい。

「じゃ、行ってくる」

「……いってらっしゃい」

玄関の扉が閉まる。

カチャリ。

鍵の音。

栞は動かなかった。

一分。

二分。

誰もいない部屋で、時計の秒針だけが響いている。

「大阪……」

小さく呟いた。

そして。

笑った。

乾いた笑いだった。

(嘘つき)

スマートフォンが震えたのは、その直後だった。

心臓が跳ねる。

画面を見る。

『律』

名前を見ただけで、指先が熱くなった。

メッセージは一行だけ。

『マンションの前にいます。降りてきてください』

「…………」

栞は息を止めた。

どうして。

どうして、今?

雅也が出ていった直後に。

偶然にしては、出来すぎている。

怖い。

そう思った。

なのに。

気づけば栞はコートを手に取っていた。
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