光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第1話 可愛くないな

藤崎理久が大学病院へ外科レジデントとして戻ったのは、医師四年目の春だった。

二年間の初期研修を終えて外科を選び、三年目は関連病院で過ごした。

そして再び、大学病院へ戻ってきた。


外科レジデント一年目。

手術室に入れば、上級医の手は自分より速い。

術野を見る目も、判断までの時間も違う。

画像では分かったつもりになっていたものが、実際の術野では違って見えることもあった。


経験が足りない。

なら、見るしかない。

読んで、覚えて、次に生かす。


理久にとっては、それだけのことだった。


レジデントは、上部班、下部班、肝胆膵班を順に回る。

それぞれ扱う臓器も、術式も、必要な知識も違う。


足りないものが分かれば、埋めればいい。


そう思っていた。

「藤崎」

医局の奥から声が飛んだ。

理久はモニターから目を離さずに返事をした。

「はい」

「明日の胃切、見たか」

声をかけてきたのは、外科講師の相良修平だった。

手術の腕も判断の速さも、理久とはまだ比べものにならない。

言葉に遠慮がないところも、よく知っていた。

「見ました」

画面には造影 CT が映っている。

理久はマウスホイールを動かした。

「術式は」

「幽門側胃切除でいけます」

「根拠は?」

理久はモニターを切り替えた。

「腫瘍の位置と残胃の大きさ。それから、前回の内視鏡画像です」

「血管は」

「右胃動脈、右胃大網動脈を処理。左胃動脈は根部で」

「画像で説明しろ」

「はい」

理久は CT へ戻った。

血管を追いながら、昨夜確認した所見を順に説明する。

相良は途中で何度か質問を挟んだ。

理久は、その都度答えた。


数分後。

相良が小さく息を吐いた。

「お前さ」

「はい」

「可愛くないな」

理久は少し笑った。

「すみません」

「その顔で謝るな。腹立つ」

理久は一瞬、考えた。

「じゃあ、どうすればいいですか」

相良の顔がさらに険しくなった。

「そういうところだよ」

理久は黙った。


……何が。


聞かれたことには答えた。

間違っていなかった。

謝りもした。

それでも腹が立つらしい。

「それから」

相良が思い出したように言った。

「来年、肝胆膵に行くつもりがあるなら、綾瀬の論文は読んでおけ」

理久は顔を上げた。

「綾瀬?」

「関西の方にいる先生だ。肝門部胆管癌の術前評価、血管浸潤、胆管分岐。あのあたりは一度ちゃんと読んでおいた方がいい」

「分かりました」

「今の分かりましたは、読んでない顔だな」

「これから読みます」

「可愛くないな」

「読めと言われたので」

相良は呆れたように笑った。

「そういう意味じゃない」

「では、どういう意味ですか」

「今は聞くな。余計可愛くない」

相良はそのまま去っていった。

理久は背中を見送った。


……結局、どうすればよかったんだ。


答えは分からないまま、モニターへ視線を戻した。


「……怖」


小さな声がした。

理久は横を見る。

少し離れたところに、若い男が立っていた。

白衣に名札。

朝のカンファレンスにいた研修医だった。

確か名前は――。


「及川」


男が目を見開いた。

「え」

「違った?」

「いや、合ってます」

「じゃあ何」

及川は理久をまじまじと見た。

「名前、覚えてたんですね」

理久は少し眉を上げた。

「朝、自己紹介してたよね」

「しましたけど」

「聞いてたよ」

当然のことを言ったつもりだった。

及川はなぜか複雑な顔をした。

「俺、藤崎先生に完全に興味持たれてないと思ってました」

「興味はないよ」

及川が黙った。

理久も黙った。


……何か問題があった?


名前を覚えることと、その人間に興味があることは別だ。

少なくとも、理久の中では。


数秒後。

「先生」

「何」

「そういうの、普通はもう少し包みません?」

「何を?」

「言葉を」

理久は及川を見る。

「必要?」

及川はしばらく理久を見返した。

そして、小さく息を吐いた。

「……王子って聞いてたんだけどな」

「何?」

「何でもないです」

及川は去っていった。

理久はその背中を見た。



王子。

……またか。



学生の頃から、時々そう呼ばれた。

理由はだいたい分かる。

顔や家柄。

周囲が勝手に抱く印象。

わざわざ否定して回るほど、興味はなかった。


理久は再び画像を送った。

明日の症例を確認しなければならない。

相良から言われた論文もある。

やることは、まだ山ほどあった。

* * *

その夜。

理久は自分の部屋へ戻ると、相良に言われた論文を開いた。


綾瀬。


著者名には見覚えがあったが、本人に会ったことはない。

上級医が引用していた論文も、いくつか読んだことがある。

ただ、今日言われたものはまだだった。

理久はコーヒーをひと口飲み、読み始めた。

肝門部胆管癌の術前評価。

血管浸潤。

胆管分岐。

一つずつ確認していく。

しばらくすると、マウスを動かす手が止まった。


……なるほど。


切除できるかどうか。

どこまで攻めて、どこで退くか。

その判断に必要な情報が、丁寧に整理されていた。

説明の仕方も、画像の選び方も面白い。

理久は前のページへ戻った。

もう一度、図を見直す。


……悪くない。


時計を見ると、思ったより時間が過ぎていた。

理久はコーヒーを飲み干し、論文のファイルを保存した。


綾瀬。


今の理久にとっては、まだ論文の著者名でしかない。

けれど、その名前は覚えた。

明日の症例と一緒に、もう一度読み直そう。

そう決めて、理久は次の資料を開いた。
< 2 / 6 >

この作品をシェア

pagetop