光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第2話 同じ部屋にいるのに
病院を出たのは、午後11時を少し過ぎた頃だった。
春とはいえ、夜の空気はまだ冷たい。
理久は歩きながらスマホを確認した。
メッセージが一件。
『今日来る?』
一時間ほど前に届いていた。
理久は立ち止まらずに返信した。
『今終わった』
すぐに既読がつく。
『遅いね』
『無理なら、今日は自分の部屋に帰ってもいいよ』
理久は少し考えた。
自分の部屋へ帰ってもいい。
彼女の部屋へ行ってもいい。
どちらでもよかった。
だから、行く方を選んだ。
『行く』
短く送ると、すぐに返事が来た。
『ワインないよ』
『買ってく』
『白』
『はいはい』
理久は駅前の店へ寄り、白ワインを一本選んだ。
彼女の好きな銘柄は覚えている。
六歳年上の放射線科医。
関連病院にいた一年の間に知り合い、付き合い始めて一年と少しになる。
彼女のマンションに着き、合鍵でドアを開けた。
「ただいま」
口にしてから、ほんの少し違和感があった。
ここは自分の部屋ではない。
けれど、今さら訂正するのもおかしい。
理久は靴を脱いだ。
「おかえり」
リビングから声がした。
彼女はソファに座っていた。
眼鏡に部屋着。
膝の上には医学雑誌。
テーブルには、すでにグラスが一つ置かれている。
「ワイン」
理久は袋を持ち上げた。
「ありがとう」
「ご飯は?」
「食べた」
「俺は食べてない」
「冷蔵庫」
理久は冷蔵庫を開けた。
「何かある?」
「見れば?」
「冷たいね」
「藤崎くん、自分で冷蔵庫開けられるでしょ」
「開けられるけど」
「じゃあ問題ないよね」
藤崎くん。
彼女は、付き合い始めてからも理久をそう呼んでいた。
名前で呼ばれたことがないわけではない。
けれど、普段はずっと藤崎くん。
理久は、その距離を心地よく感じていた。
冷蔵庫には、保存容器がいくつか並んでいる。
理久はスープを取り出した。
「これ食べていい?」
彼女がようやく医学雑誌から顔を上げた。
「いちいち聞かなくていいよ」
「勝手に食べると怒る人もいるから」
「過去の女の話?」
「一般論」
彼女が理久を見る。
「感じ悪いね」
「何で」
「そういうところ」
そう言って、また医学雑誌へ戻った。
理久は保存容器を電子レンジに入れた。
低い作動音が響く。
その間も、彼女はページをめくっている。
理久は、この部屋の静けさが好きだった。
遅くなった理由も、今日の手術のことも、いちいち説明しなくていい。
彼女も医者だ。
予定どおりに帰れない日があることも、疲れて何も話したくない夜があることも知っている。
理久がスマホを見ていても、彼女は雑誌を読む。
彼女がワインを飲んでいても、理久はスープを温める。
互いに、自分の時間を過ごせる。
同じ部屋にいるのに。
それが、理久には心地よかった。
電子レンジが鳴った。
理久はスープを取り出す。
「明日は?」
彼女が聞いた。
「7時」
「じゃあ私、先に寝る」
「うん」
「寝る時、電気だけ消しておいて」
「分かった」
彼女が立ち上がり、理久の横を通る。
理久はその手を取った。
「何」
「別に」
軽く引くと、彼女の身体が近づいた。
理久は唇を重ねた。
短いキスだった。
彼女は拒まなかった。
身体を離す。
「何?」
「別に」
「二回目」
「何が」
「別に、って」
理久はスープをひと口飲んだ。
少し薄い。
彼女がこちらを見ていた。
「藤崎くんって、可愛くないよね」
理久は顔を上げた。
「今日二人目」
「何が?」
「可愛くないって言われた」
「でしょうね」
「即答?」
「自覚ないの?」
「ない」
彼女は笑った。
「そこだよ」
「何が」
「もういい」
彼女は寝室へ向かった。
「おやすみ」
「おやすみ」
扉が閉まる。
理久は一人でスープを飲んだ。
静かな部屋。
冷蔵庫には、まだ彼女が作った料理がある。
合鍵も持っている。
会いたい時には会えるし、忙しい時には無理をしなくていい。
彼女は理久に、必要以上の説明を求めない。
理久も、それでいいと思っていた。
会いたければ会う。
忙しければ会わない。
触れたければ触れる。
眠ければ眠る。
互いの生活を乱さず、一緒にいられる。
理想的な関係だと思っていた。
何の問題もない。
本気で、そう思っていた。