光のはじまり ― 王子が困るまで ―
昼休み。

医局の隅で、及川、中川、相澤、佐伯の四人は弁当や売店の袋を広げていた。

「王子、すごいな」

中川が唐揚げを口に入れながら言った。

「今日、病棟で見た。看護師さん、完全にときめいてた」

「完全に?」

佐伯が面白そうに聞く。

「完全に。報告ありがとうございます、であれだぞ」

「それは強いな」

相澤が静かに言った。

「俺も見た」

「何を?」

及川が聞くと、相澤は箸を置いた。

「患者さんに、王子先生って呼ばれてた」

三人が一斉に相澤を見る。

「本当に?」

「本当に。高齢の女性患者さん。説明を終えて出ようとしたら、『王子先生、ありがとうございました』って」

「それで?」

佐伯が食いつく。

「藤崎先生、一瞬も乱れずに微笑んで、『こちらこそ。何かあれば、すぐ声をかけてください』って」

中川が机に突っ伏した。

「強い」

「否定しないんだ」

及川が呟くと、相澤が頷いた。

「患者さん、嬉しそうだったからね」

なるほど。

あそこでわざわざ否定する方が、かえって野暮なのかもしれない。

「俺、事務さんからアプローチされてるところも見た」

中川が顔を上げた。

「今度の医局の飲み会に来ますかって、聞かれてたんだけどさ」

「普通じゃない?」

及川が言う。

「普通じゃない空気だったんだよ。声がちょっと高かった」

「細かいな」

「観察してるんだよ、こっちは」

佐伯が笑った。

「それで、王子は?」

中川は急に姿勢を正した。

藤崎先生の真似をするつもりらしい。

「『予定が合えば』」

声を落として言う。

及川はすぐに顔をしかめた。

「似てない」

「最後まで聞け」

中川は続けた。

「事務さんが『ぜひ来てくださいね』って言ったら、『ありがとうございます。出欠は医局メールで返しますね』って」

佐伯が吹き出した。

「業務連絡に変換した」

「そう。誰も傷つけず、何も始まらない」

中川は感心したように頷いた。

「王子、逃げ方まで綺麗だな」

「飲み会でもすごかったよな」

佐伯が言った。

全員、あの光景は覚えていた。

病棟合同の飲み会で、藤崎先生は途中から女性陣に囲まれていた。

話を振られれば穏やかに答え、誰か一人の隣に落ち着くことはない。

近くにいるのに、妙に距離がある。

そして、いつの間にか姿が消えていた。

「俺、退散するところ見たんだよ」

佐伯が少し得意そうに言った。

「女性陣に引き止められてたんだけど、『明日、朝から確認する症例があるので、先に失礼します。今日はありがとうございました。また病棟でお願いします』って」

「それで?」

「綺麗に頭を下げて、そのまま帰った」

「引き止められなかったの?」

及川が聞く。

「引き止められてた。でも、笑顔でかわしてたよ」

佐伯は箸を置き、満足げに頷いた。

「あれは逃げたんじゃない。退散したんだよ」

「王子退散」

中川が言った。

及川は思わず笑った。

「何だよ、それ」

「でも、分かるだろ?」

「……分かる」

悔しいけれど、分かってしまう。


及川は、初期研修の頃の藤崎先生を思い出した。

あの頃も、画像の前で詰まったことがある。

答えを教えてくれる人ではなかった。

違うものは違うと言う。

見えていないものは、見えるまで待つ。

正しい。

けれど、逃げ場がなかった。


今の藤崎先生は、声も言葉もずいぶん柔らかい。

ーー本当に、同じ人なのだろうか。

及川は唐揚げを箸でつつきながら、小さく首を捻った。
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