光のはじまり ― 王子が困るまで ―
その日の夕方。

医局で、及川は食道癌の画像を見ていた。

上部班にいる以上、食道の症例は避けて通れない。

けれど、画像の読み方は思っていたよりずっと難しかった。


病変の範囲。

気管との距離。

大動脈との位置関係。

リンパ節の腫大。

周囲脂肪織の変化。


見ているつもりでも、どこまでを意味のある所見として拾えばいいのか分からなくなる。

「……ここ、どう見るんだろ」

思わず独り言が漏れた。

その時だった。

「そこ、迷ってる?」

背後から声がして、及川はびくっとした。

振り返ると、藤崎先生が立っていた。

白衣のポケットに片手を入れ、もう片方の手には資料を持っている。

通りかかっただけのような顔をしているのに、画面にはしっかり視線が向いていた。

「すみません。食道癌なんですけど、リンパ節と周囲浸潤が……」

藤崎先生は椅子の横に立ち、画面を覗き込んだ。

「まず、病変の上下を追って」

「はい」

「そこで急にリンパ節に飛ばない。先に主病変」

「主病変」

「うん。どこからどこまでか。内腔狭窄はどの程度か。壁外への広がりはどう見えるか」

答えを言うわけではない。

ただ、見る場所を順番に置いていく。

及川はマウスを動かしながら、画像を戻した。

「ここから……このあたりまで、壁肥厚があります」

「うん」

「内腔狭窄あり。周囲脂肪織は……ここ、少し毛羽立って見えます」

「いいね。じゃあ気管との関係」

「このスライスだと近いですけど、前後で見ると……」

及川は画像を送る。

「明らかに連続しているようには見えない、ですかね」

「うん。断定しすぎない言い方でいい」

藤崎先生は静かに言った。

「次、リンパ節」

及川は画面を少し動かした。

「このリンパ節は腫大しています。でも、形だけでは転移とは言えない」

「どうして」

「サイズだけでは判断できないから。形状と、周囲との関係と、他の画像所見も合わせて見る」

「うん」

藤崎先生が頷く。

「なかなか筋がいいね」

及川は思わず顔を上げた。


褒められた。

藤崎先生に。

しかも、自然に。


「……凄い」

「何が」

「読めました」

及川は画面を見ながら言った。

「さっきまで、どこから手をつければいいのか分からなかったんですけど」

「順番に見れば、拾える所見は増えるよ」

藤崎先生の声は穏やかだった。

「焦って答えに飛ばない。画像は、結論より先に根拠を見る」

その言葉は、きれいに入ってきた。

及川は、少しだけ感動していた。


分かりやすい。

すごく分かりやすい。

しかも、嫌味がない。

答えを押しつけられた感じもしない。


自分で読めた気がする。

それがまた、妙に悔しい。

「ありがとうございます」

及川が言うと、藤崎先生はほんの少しだけ笑った。

「どういたしまして」

その微笑みが、また無駄に王子だった。

及川は、うっかり思った。

こんな人を持ち上げる人だったっけ。

「……どうかした?」

藤崎先生が聞く。

及川は口を開いてしまった。

「んー……先生、丸くなりました?」

一瞬、空気が止まった。

藤崎先生が怪訝そうに及川を見る。

その顔を見た瞬間、及川は少し後悔した。

言い方を間違えた気がする。


数秒の沈黙のあと、藤崎先生が軽く鼻で笑った。

「それは俺が太ったって言いたいのかな?」

「あー、全然違います」

及川は慌てて首を振った。

「体型の丸くではなく……人柄の丸くの方で」

「人柄」

「はい」

「俺の人柄が丸い」

「いや、丸いというか、前より柔らかいというか、言い方が優しいというか」

言えば言うほど、変な方向へ行く。

中川たちが見ていたら、絶対に笑われる。

藤崎先生はしばらく及川を見ていた。

怒っているようには見えない。

けれど、笑っているとも言い切れない。

静かな顔だった。


それから、及川の前にある画面へ視線を戻した。

無言でマウスを動かす。

画像が切り替わった。

「及川先生がそう思うなら、そうなのかもしれないね」

声は穏やかだった。

王子の声だった。

及川は少しだけほっとした。

その次の瞬間。

「じゃあ、次はこの画像を読んで、十五分以内に俺にメールして」

「……え?」

藤崎先生は資料を持ち直した。

「今と同じ順番で見ればいいよ」

「いや、あの」

「主病変、周囲臓器との関係、リンパ節。所見と根拠を分けて」

「藤崎先生」

「十五分」

きれいに微笑んだ。

「楽しみにしてる」

そう言って、医局から出ていった。


及川はしばらく、藤崎先生が出ていった扉を見ていた。

「……え?」

もう一度、声が漏れた。

画面に目を戻す。

さっきとは別の食道癌の画像。

しかも、明らかにさっきより難しい。

「メール?」

及川は呟いた。

「十五分以内?」

課題が勝手に増えた。


及川はスマートフォンで十五分のタイマーを入れた。

画面の中の食道癌が、妙に重く見える。

「……王子、やっぱり怖い」

誰もいない医局の隅で、及川は小さくそう呟いた。

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