光のはじまり ― 王子が困るまで ―
朝食を終えると、綾瀬美月は自分の服に着替えた。

戻ってきた彼女は、また律儀に頭を下げる。服を乾かしてもらったこと、朝食まで出されたことを、ひとつずつ礼を言おうとするものだから、つい軽く返してしまった。

どうやら、それも気に入らなかったらしい。

「普通は言います」

「じゃあ、言わない」


また睨まれた。


理久は思わず笑った。

やっぱり、こっちの方が彼女らしい。

やがて綾瀬美月はバッグを持ち、玄関へ向かった。

「では、失礼します」

「うん」

理久も玄関まで見送った。

ここを出れば、彼女は10Aの看護師に戻る。自分も、いつもの外科医に戻る。

昨夜のことは、病棟では知らないふりをする。

その方がいい。


……そのはずだった。


ところが、玄関先でつい余計な冗談を言ってしまった。病棟に知られたら大変だ、と。

案の定、彼女は本気で警戒し始めた。

理久は笑いながらも、誰にも話さないことだけはきちんと伝えた。彼女が困るようなことを、わざわざ言いふらすつもりはない。

それは最初から決めていた。

少し落ち着いた彼女を見て、理久は口を開いた。

「今度、ちゃんとお礼して」

綾瀬美月が顔を上げた。


……あ。


今のは、言い方が悪かったか。

案の定、弱みを握ったうえでの要求ではないかと疑われた。

「じゃあ、言い方を変える」

理久は少しだけ真面目な顔になり、彼女を見た。

「昨日のことは言わない。これは絶対。それとは別で、俺は綾瀬さんと食事に行きたい」

言ってから、少しだけ間が空いた。


……ずいぶん、はっきり言ったな。


けれど、訂正する気にはならなかった。

綾瀬美月は黙っている。理久も、それ以上は何も言わずに返事を待った。

やがて、彼女が深く息を吐いた。

「……分かりました。食事で」

「いいの?」

思わず聞き返していた。

彼女がこちらを見る。

「お礼です。あくまで」

「うん。お礼ね」

「強調しないでください」

「してない」

「しています」

理久は笑った。


誘ったのは自分なのに、どうして聞き返したのだろう。

思っていたより、あっさり承諾されたからか。

いや、あっさりではなかった。かなり疑われたし、怒られもした。

それでも、断られなかった。


理久はそれ以上考えるのをやめ、話を進めた。

「じゃあ、店はこっちで取る」

すると、彼女はすぐに条件を出してきた。

普通の店。高くなくて、静かすぎず、変に雰囲気が良すぎないところ。

理久は少し笑った。

「条件多いな」

「安全管理です」

「またそれ」

「重要です」

「分かった。考えておく」

どうやら、その返事も信用できないらしい。彼女の表情に苦笑しながら、理久はスマホを取り出した。

「連絡先、教えて」

途端に、綾瀬美月が固まった。

店の場所と時間を伝えるためだと説明すると、彼女は渋々スマホを取り出した。

「業務外連絡は必要最低限でお願いします」

「了解。必要最低限ね」

店と時間だけ。それ以外は不要だと、念を押される。

服装について確認すると、彼女は少し考えた末に、それは必要だと認めた。

「じゃあ、必要最低限に入れておく」

理久は笑いながら、連絡先を登録した。


綾瀬美月。


画面に表示された名前を確認する。

病院では何度も顔を合わせている。けれど、こうして個人的に連絡先を交換するのは初めてだった。


当たり前か。


今まで、そんな関係ではなかったのだから。

綾瀬美月は最後まで、お礼だと強調していた。理久はそれ以上からかわず、玄関の扉を開けた。

「じゃあ、また」

彼女が外へ出る。

扉を閉めようとして、理久はもう一度声をかけた。

「綾瀬さん」

彼女が振り向く。

「昨日、助けられてよかったと思っておけばいいよ」

少しだけ、間があった。

「……そこだけは、認めます」

理久は微笑んだ。

「うん」

扉が閉まった。

静かな廊下に、彼女の足音が遠ざかっていく。

理久はしばらく玄関に立っていたが、やがて小さく笑った。


……認めるんだ。


昨夜は、雨宿りだけだった。

約束は守ったし、本当に何もしなかった。

それなのに、今朝は連絡先を交換し、次に会う約束までしてしまった。

しかも、誘った自分が「いいの?」なんて聞き返している。

理久はリビングへ戻り、テーブルの上に置いたスマホを手に取った。


新しく登録された連絡先。

綾瀬美月。

業務外連絡は必要最低限。


その言葉を思い出しながら、画面に表示された名前をしばらく眺めた。

それから、スマホを伏せた。


窓の外では、雨上がりの街が朝の光を受けていた。
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