光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第25話 置き土産

朝食の皿を片づけ、理久はキッチンを整えた。

ソファにはブランケットが残っている。昨夜、綾瀬美月が眠っていた場所だ。

それを畳んで元の場所に戻し、洗面所へ向かった。

彼女が使ったタオルが、きちんと畳まれて置いてある。


……律儀だな。


あれだけ恐縮していたのだから、当然かもしれない。

タオルを手に取ろうとした時、洗面台の端に小さな光が見えた。

ピアスだった。

小ぶりで、控えめなデザイン。綾瀬美月がつけていたものだと、すぐに分かった。

理久はそれを指先でつまみ上げた。


忘れ物。


昨夜は雨に濡れ、慌ただしくシャワーを浴びて、そのまま寝落ちした。朝も随分と動揺していたのだから、ピアスの一つくらい忘れても不思議ではない。


……ないんだけど。


理久は手のひらのピアスを眺めた。

わざと置いていった、という可能性が一瞬頭をよぎる。


いや。

あの人が、そんなことをするだろうか。


むしろ、自分がここにいた痕跡を、全部きれいに片づけて帰りそうな人だ。

実際、ブランケットもタオルも、律儀に畳んであった。

それでも、綾瀬美月がどういう人なのか、理久はまだほとんど知らなかった。

仕事中の顔は知っている。こちらを警戒する顔も、遠慮なく刺してくる言葉も。

昨夜から今朝にかけて、少しだけ違う顔も見た。

けれど、それだけだ。

理久はもう一度、手のひらのピアスを見た。

「……とんでもない置き土産だな」

小さく呟いて、苦笑した。


連絡した方がいい。

それは分かっている。

忘れ物を見つけたと伝えて、次の食事の時に渡せばいい。それだけの話だ。


理久はスマホを手に取った。

新しく登録された連絡先。

綾瀬美月。

『業務外連絡は必要最低限でお願いします』

今朝の声を思い出す。

忘れ物の連絡なら、必要最低限に入るだろう。

そう思いながら、ふと手が止まった。


……いや。

ピアスがないことに気づいたなら、綾瀬さんの方から連絡してきてもよくない?


理久は画面を見つめた。

もっとも、まだ気づいていない可能性もある。あれだけ慌ただしい朝だったのだから。

それなら、こちらから知らせればいいだけだ。


分かっている。

分かっているのに、なぜかすぐには送る気になれなかった。

「……まあ、後でもいいか」

理久はスマホを置いた。

ピアスを小さなケースに収め、デスクの上に置く。

なくさないようにしておけば、それでいい。

次の食事の時に渡せばいいのだから。

そう思ったところで、ふと気づく。


食事の時。

つまり、また会う時。


理久はケースを見下ろした。

「……いや、忘れ物だからね」

誰に言うでもなく呟いて、デスクを離れた。

◇

出勤してからも、少しだけ眠かった。

外科医局で資料を開きながら、理久は小さくあくびを噛み殺した。

その瞬間、中川が目ざとくこちらを見た。

「……寝不足ですか?」

「中川」

相澤がすぐに制した。

理久は顔を上げた。


寝不足にもなるよ。

あの綾瀬美月が、自分の部屋にいたんだからね。


……とは、絶対に言えない。


理久はいつものように微笑み、手元の論文へ視線を戻した。

「論文を読んでいたら、つい面白くなってね」

中川は感心したような顔をした。

「飲み会に参加してくれて、本当にありがとうございました。それでいて、論文もしっかり読んでるなんて、俺も見習わないとですね」

理久は中川を見た。


どうやら、本気でそう思っているらしい。

昨夜は論文どころではなかった。

シャワーを浴びて戻ってみれば、あれだけ警戒していた綾瀬美月が、ソファですっかり眠っていたのだ。

ブランケットをかけて、少し離れたチェアに座り、そのまま朝を迎えた。

その話をしたら、中川はどんな顔をするだろう。


……いや、やめておこう。


理久は微笑んだまま、軽く頷いた。

「ほどほどにね」

「はい!」

中川は素直に返事をして、自分の席へ戻っていった。

その背中を見送り、理久は小さく息を吐いた。

いつもどおり。


中川は何も知らない。

昨夜、誰が自分の部屋にいたのかも、朝食を二人分作ったことも。

今朝、食事の約束をしたことも。

そして、自宅のデスクに小さなケースが置いてあることも。


理久は論文のページをめくった。

仕事に戻れば、いつもどおりだった。

ただ、自宅のデスクに置いた小さなケースのことだけは、どうにも頭から離れなかった。
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