光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第26話 仮説と検証

その日の外科医局には、珍しく穏やかな時間が流れていた。

午前の処置がひと段落し、及川は机に広げていた資料を片づけながら、スマホを確認していた。

花奈からメッセージが届いている。

大学時代から付き合っている恋人で、現在は弁護士として働いている。小柄で明るく、何事にも物怖じしない女性だった。

今度の食事についても、花奈から店の候補が送られてきていた。

及川は画面を開き、思わず眉を上げる。


……ここ?


名前は聞いたことがある。予約が取りにくいことでも知られる、有名なレストランだった。

「及川」

中川が椅子ごと近づいてきた。

「最近、花奈ちゃんと会えてる?」

「会えてるよ。今度、食事に行く」

「へえ、どこ?」

「名前は……何だっけ。でも、ここ」

及川がスマホを向けると、中川の表情が変わった。

「え、ここ?」

「うん」

「ちょっと待て。相澤、佐伯、これ見て」

呼ばれた二人が画面を覗き込む。

「有名な3つ星レストランじゃん」

「しかも、このロケーション」

「すごいな、及川。プロポーズするの?」

及川は苦笑した。

「いや、花奈指定だから」

その言葉に、三人が顔を見合わせた。

「……逆プロポーズ?」

「違うって」

及川が否定しても、中川たちはすっかり面白がっていた。夜景の写真を拡大しては、こんな場所でただの食事はないだろうと好き勝手に言っている。

「だから、花奈が行きたいって言っただけだよ」

及川はそう繰り返しながらも、画面を覗き込む三人を止めるのは諦めた。

◇

医局の前まで来た理久は、中から聞こえてきた賑やかな声に、少しだけ足を緩めた。

「何、このロケーション。これで堕ちない女はいないって」

「女?!」

「女は誰でも王子様に憧れて惚れるだろ。このレストランは強い」


……何の話?


理久は、コンビニで買ったサンドイッチとコーヒーを持ち直し、医局の扉を開けた。

「お疲れ様」

集まっていた面々が、こちらに気づいて挨拶を返す。先ほどまでの騒ぎは収まり、それぞれが何事もなかったように自分の席へ戻っていった。

理久も軽く会釈し、デスクに腰を下ろした。

誰の話をしていたのかは分からない。レストランの名前も聞こえなかった。

ただ、最後の言葉だけが耳に残った。

王子様に憧れて惚れる。


……そういうものかな。


理久はサンドイッチの包装を開けた。

病院で自分が王子と呼ばれていることは知っている。周囲の期待に合わせて振る舞えば、仕事も人間関係も円滑に進む。それが便利だと理解しているし、今さら呼び名を否定するつもりもなかった。

けれど、あの人には通用しない。


綾瀬美月。


今朝も朝食を用意しただけで、ひどく警戒された。親切にすれば恐縮され、軽口を叩けば睨まれる。こちらが感じよく笑っても、簡単には安心してくれない。

思い出すと、少しおかしかった。

それでも彼女は、帰り際に食事の誘いを受けてくれた。

お礼ですから、と何度も念を押していたけれど。


理久はコーヒーを飲み、パソコンを開いた。

そういえば、まだ店を決めていなかった。

◇

昼食を終え、理久はレストランを探し始めた。

綾瀬美月が希望していたのは、普通の店だった。

高くなくて、静かすぎず、妙に雰囲気の良すぎないところ。

条件が具体的なのだから、選ぶのは難しくない。候補をいくつか開いてみると、気軽に入れそうな店が見つかった。

ここなら、彼女も文句は言わないだろう。

そう思ったところで、先ほどの医局の会話が浮かんだ。


王子様。

レストラン。

女は誰でも惚れる。


理久は検索画面に戻った。

王子扱いをしない綾瀬美月に、いかにも王子らしい店を選んだら、どうなるのだろう。

いつものように呆れるのか。それとも、少しは違う反応をするのか。

何となく、気になった。

夜景の見えるレストランを検索してみる。いくつかの候補から目に留まった店を開くと、大きな窓に沿ってテーブルが並んでいた。料理もサービスも評価が高く、落ち着いて食事をするには申し分なさそうだった。

もっとも、綾瀬美月の条件とは正反対だ。


……絶対に怒るだろうな。


理久は画面を眺めた。

普通の店を選んで、普通に食事をすればいい。今朝、彼女はそうしてほしいと言っていた。

それは分かっている。

分かっているのに、どうしても反応を見てみたくなった。

彼女は昨夜、自分の部屋で眠ってしまった。今朝は朝食を食べ、食事の約束までして帰った。洗面所にはピアスが残されている。

あれから、どうも調子が狂っている。

いつもなら、忘れ物を見つけた時点で連絡して終わりだったはずだ。今頃になっても、まだ伝えていない。

自分ばかり、こんな些細なことで引っかかっている。


……だったら、少しくらい。


理久は予約画面を開いた。

空いていた席を確認し、手続きを進める。


これで綾瀬美月が怒ったら、別の店を探せばいい。

そう考えて、予約を確定した。

◇

夕方。

必要な仕事を終えた理久は、静かになった医局でスマホを取り出した。

新しく登録した連絡先を開く。


綾瀬美月。


今朝、連絡先を交換する時に、業務外の連絡は必要最低限にしてほしいと言われた。

店と日時を伝えるのは、当然その範囲に入る。

理久は予約した店の情報を開き、メッセージを入力した。

その途中で、ピアスのことを思い出す。

忘れ物についても連絡しなければならない。むしろ、そちらを先に伝えるべきなのだろう。

けれど、店の名前と日時を入力し終えたところで、理久は送信ボタンを押した。

ピアスのことは、書かなかった。


送ったメッセージが、画面に表示された。

これで、店の連絡は済んだ。

あとは彼女がどうするか。

理久はスマホをデスクに置き、椅子の背にもたれた。


仮説は立てた。


王子らしい店を選んだところで、綾瀬美月は簡単には喜ばないだろう。

むしろ、抗議してくる可能性の方が高い。


それでも。

彼女がどんな顔をするのか、見てみたいと思ってしまった。


理久は小さく笑い、パソコンを閉じた。
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