光のはじまり ― 王子が困るまで ―
……ちょっと待って。


これは事故。

彼女が望んで近づいたわけじゃない。

自分が手を離さなかったせいで、こうなった。

それくらい、分かってる。

理久は、余計な動きをしないようにした。

「今、何か言った?」

ようやく頭がはっきりしてきたところで、さっきの声を思い出した。

「……言ってません」

即答。


……へえ。


「そう」

少し間を置いた。

「綺麗、って聞こえた気がした」

彼女の顔が、さらに赤くなる。

「聞き間違いです」

「そう?」

「寝ぼけていたんだと思います」

「俺が?」

「はい」


……俺のせいにするんだ。


思わず、笑ってしまった。

「じゃあ、そういうことにしておく」

それ以上は追及しなかった。

綾瀬美月は、必死にいつもの顔に戻ろうとしている。

何もなかったことにしたいのだろう。

それなら、こちらも普段どおりに振る舞えばいい。

できるはずだ。

病院では、いつもそうしている。

「降ります」

彼女が小さく言った。

「うん」

理久は繋いでいた手を緩め、彼女が体勢を整えられるように支えた。

美月はソファへ戻ると、クッションを抱えて距離を取った。

「……すみませんでした」

「俺もごめん。起きた時、びっくりしたでしょ」

「びっくりしました」

「手、離せばよかった」

その言葉を口にして、理久はふと自分の手を見た。


確かに、離せばよかった。

彼女が起きた時に手を離していれば、あんな体勢になることもなかったのだから。

「……いえ」

美月が小さく答えた。

「ん?」

「雷が、怖かったので。その……助かりました」

理久は少しだけ表情を和らげた。

「よかった」

「でも、もう大丈夫です」

「うん」

「雷、止んでますし」

「うん」

「なので、もう……」

理久は少し笑った。

「手、いらない?」

美月は黙った。

そして、少し間を置いて答えた。

「……今は、いりません」

「分かった」

今は。

わざわざ、そう付けるんだ。


けれど、そこをからかうのはやめておいた。

理久はようやく、自分が帰宅した時の白いシャツのままでいることに気づいた。

「俺、着替えてない」

「……そうですね」

「寝落ちした」

「私もです」

「お互い様?」

「同じにしないでください」

「厳しいな」

いつもの調子で返すと、美月も少しだけ落ち着いたようだった。

それでも、時折こちらへ向ける視線は、すぐに逸らされる。

「……ありがとうございました。おやすみなさい」

美月は立ち上がり、ほとんど逃げるようにゲストルームへ戻っていった。

ドアが閉まる。

リビングに、静けさが戻った。

◇

理久は、しばらくソファから動かなかった。

さっきまで美月がいた場所を見つめる。

もう、そこには誰もいない。

それでも、繋いでいた手の感触が残っていた。


頬に触れた指先。

「綺麗」と漏れた声。

膝の上に落ちてきた重み。


思い出すだけで、どうにも落ち着かない。


……まったく。


こんなことで、ここまで動揺するとは思わなかった。

理久は片手で髪をかき上げた。

もちろん、彼女に何かをするつもりはない。

ここは、彼女が安心して過ごせる場所でなければならない。

その考えは、今も変わっていなかった。

ただ、さっきから気になっているのは、彼女の無防備さだけではなかった。

繋いでいた手が離れそうになった時。

自分は、握り返した。

あの時、何かを考える余裕なんてなかった。

気づいた時には、もう指が動いていた。


理久は、手のひらに視線を落とした。

以前の恋人は、最後に尋ねた。

自分がいなくなったら困るのか、と。

あの時は、答えられなかった。

そして今も、誰かがいなくなったらどうなるのかなんて、考えたくはなかった。

けれど。

綾瀬美月が離れようとした時、手を握り返したのは自分だった。

それだけは、何度考えても変わらない。


理久は小さく息を吐いた。

やがてテレビを消し、テーブルのマグカップを片づける。

リビングの照明を落として、廊下へ出た。

ゲストルームの扉は静かに閉まっている。

理久はその前を通り、自分の部屋へ向かった。


明日になれば、いつもどおり病院へ行く。

彼女とも、何もなかった顔で接すればいい。

それくらい、できる。


……できるはずなんだけど。


理久は、もう一度だけ自分の手を見た。

あの時、離そうとしたのは彼女だった。

それなのに。


引き止めたのは、俺の方だった。
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