光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第35話 普段どおりのはず

目を覚ますと、窓の向こうには晴れ渡った空が広がっていた。

昨夜の雷が嘘のような朝だった。

理久はベッドから出て、着替えを始める。

ワイシャツに袖を通し、ボタンを留めていた手が、ふと止まった。

昨夜、綾瀬美月が握っていた手。

指先に、まだあの感触が残っている気がする。


……意識するな、なんて無理だろ。


理久は自分の手を見下ろした。

肩にもたれて眠っていた寝顔。手を離そうとした彼女を、思わず引き止めたこと。そして、バランスを崩して自分の膝に倒れ込んできた姿。


……事故。


膝に倒れ込んできたのは、確かに事故だった。

ただ、手を握り返したのは――。

「……」

そこから先は考えないことにした。


理久はボタンを留め終え、洗面所へ向かった。

鏡に映った自分の顔を見る。


……まったく。


昨夜から、言い訳ばかり考えている気がする。

理久は蛇口をひねり、顔を洗った。


仮住まい。

紳士的。

線引き。


一つずつ頭の中で確認する。

彼女は困って、この家に来ている。それを忘れてはいけない。

昨日のことは、雷の夜に起きた、少しばかり予想外の出来事だった。

それ以上でも、それ以下でもない。


……よし。


そう結論づけた時だった。

ドアノブが回る音がした。

鍵はかけてある。

「綾瀬さん?」

外で、小さく息を呑む気配がした。

「すみません。使っているとは思わなくて」


……ああ。


起きてきたんだ。

理久は水を止めた。

「待ってて」

タオルで顔を拭きながら、ふと思う。


……どんな顔してるんだろ。


綾瀬美月のことだ。

昨夜の出来事を思い出して、きっと気まずくなっている。

雷が怖かったとはいえ、あそこまで距離が近くなったのは、彼女にとって不本意だったに違いない。

ならば、ここは年上の大人の男として。

何もなかった顔をしてあげよう。

それが一番、彼女も安心するだろう。


……彼女のために。


理久は鍵を外して扉を開けた。

「おはよう。使う?」

目の前の綾瀬美月は、どこかぎこちなかった。

「……おはようございます。使います」


……ほら。

思ったとおり。


理久は何でもない顔で一歩脇に寄った。

「どうぞ。俺、もう終わったから」

彼女が小さく礼を言って、洗面所へ入っていく。

理久はそれ以上、昨夜のことには触れなかった。

手を繋いだことも、膝の上に倒れ込んできたことも。

もちろん、「綺麗」と言ってしまったことも。

今、それを持ち出したところで、彼女が困るだけだ。

理久はいつもどおりの笑顔を残して、リビングへ向かった。


これでいい。


少なくとも、彼女が気まずい思いをせずに済むなら。

それが正しい判断だと、理久は思っていた。
< 67 / 82 >

この作品をシェア

pagetop