光のはじまり ― 王子が困るまで ―
キッチンでコーヒーを淹れる。

いつもと同じ朝。

いつもと同じ香り。

ところが、カップを持ってリビングへ向かうと、ソファが視界に入った。


……あ。


昨夜、綾瀬美月が座っていた場所。

その隣に座り、手を貸した。

気づけば、肩にもたれて眠っていた。


……まったく。


普段どおりに振る舞ったところで、いちいち思い出してしまう。

以前なら、女性と朝を迎えたからといって、こんなふうに昨日のことを反芻したりしなかった。

それなのに。

綾瀬美月とは、何もなかった。


……いや。

何もなかったはずなのに。


「皮肉なものだよな」

小さく呟いて、コーヒーをひと口飲んだ。

熱さと苦味で、ようやく思考が現在に戻ってくる。

ダイニングテーブルには、朝のうちに理久が用意しておいた水と、簡単に食べられるものが並んでいた。

その横には、短いメモも添えてある。

『無理しないで』

昨夜から、彼女は色々なことに気を張っている。

せめて朝くらいは、余計なことを考えずに過ごしてほしかった。


しばらくすると、支度を終えた綾瀬美月がリビングへやってきた。

理久はカップを置いた。

彼女はテーブルの上に目を向け、メモを手に取った。

ほんの少し、その動きが止まる。

けれど、何かを尋ねることはなかった。


……うん。

それでいい。


理久はコーヒーを飲みながら、彼女が出勤の準備を整える様子を眺めた。

「鍵、持った?」

「はい」

「何か困ったら連絡して」

「ありがとうございます」

「今日は日勤だよね」

「はい」

短い会話。

まるで、昨夜の出来事などなかったかのようだった。

彼女もそれを望んでいるのだろう。

理久は、あえて話を広げなかった。

やがて美月はバッグを肩にかけ、玄関へ向かった。

その後ろ姿を見送ろうとして、ふと思う。

彼女は今日も、この家に帰ってくる。

仕事を終えて、あの玄関を開ける。

昨夜のことを話題にしないのと、今ここに彼女がいることまでなかったことにするのは、少し違う気がした。


美月がドアノブに手をかける。

「いってらっしゃい」

自然に声が出た。

彼女の動きが、わずかに止まる。

少し間があって。

「……行ってきます」

そう返ってきた。

理久は、ほんの少し目を細めた。

「うん」

それだけ答えた。

美月が玄関を出ていく。

扉が閉まっても、理久はしばらくそちらを見ていた。


……そっか。

行ってきます、か。


思っていたより、普通の返事だった。

いや、普通なのだろう。

同じ家から仕事へ向かう人間同士なのだから。

理久は小さく笑い、リビングへ戻った。

病院では、医師と看護師として今までどおりに接する。

家では、彼女が気兼ねなく過ごせるようにする。

それでいい。

昨夜のことも、必要以上に意識しなければいいだけだ。

理久は残っていたコーヒーを飲み干した。


さて。

自分も出勤しよう。

今日も、いつもどおりに。


……できるかどうかは、別として。
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