光のはじまり ― 王子が困るまで ―
第36話 返された鍵
綾瀬美月がこの部屋を出ていくことは、数日前から決まっていた。
管理会社から、火事で住めなくなった部屋の修繕が終わったという連絡が来たらしい。
その報告を受けた時、理久は「よかったね」と返した。
それが正しいと思った。
実際、正しい。
火事で帰れなくなった部屋に、もう一度帰れるようになった。
よかったことに決まっている。
室内の確認は、管理会社の立ち会いで行うという。荷物を戻す話になった時、理久は手伝いを申し出た。
「手伝うよ」
けれど、彼女は首を振った。
「大丈夫です。最初に持ってきた分だけですから」
遠慮しなくていいと伝えても、返事は変わらなかった。
「本当に大丈夫です」
二回言った。
綾瀬美月が大丈夫を繰り返す時は、だいたい大丈夫ではない。
いつもなら、そこを拾う。
けれど、その時は拾わなかった。
……拾って、どうする。
手伝う理由を作れば、もう少し一緒にいられる。
そんなことを考えた自分に気づいて、理久は口を閉じた。
彼女には、帰る家がある。
戻れるようになったのに、自分の都合で引き止める理由なんてない。
「分かった」
そう答えた。
それで終わらせた。
終わらせた、つもりだった。
◇
そして、その日が来た。
仕事を終えた綾瀬美月は、管理会社の立ち会いで自室を確認してから、理久のマンションへ戻ってきた。
修繕は問題なく終わり、もう通常どおり住めるという。
「お疲れさま」
そう迎えた理久に、美月もいつもどおり挨拶を返した。
自分の部屋のことを尋ねると、彼女はきちんと答えた。
もう帰れる。
その言葉を聞いて、理久は頷いた。
彼女がゲストルームへ荷物をまとめに行くのを見送り、リビングで論文を開いた。
……読めていない。
スーツケースのファスナーの音。
紙袋が擦れる音。
引き出しが閉まる音。
小さな音がするたびに、意識がそちらへ向く。
数週間前まで、この部屋に綾瀬美月のものは何もなかった。
洗面所にも、冷蔵庫にも、ゲストルームにも。
今、彼女は自分のものを持って帰ろうとしている。
それだけだ。
元に戻るだけ。
理久は論文に視線を戻した。
……。
同じ行を、もう三回読んでいる。
「……何やってるんだろ」
小さく呟いて、画面を閉じた。
やがて、綾瀬美月がリビングへ戻ってきた。
手には、洗濯された部屋着の入った紙袋があった。
「これ、部屋着です。洗濯してあります」
「ありがとう」
理久はそれを受け取った。
それから、彼女はバッグの中から封筒を取り出した。
「あと、これも」
白い封筒。
中身は、言われなくても分かった。
合鍵だ。
理久は、すぐには手を出せなかった。
ほんの少しだけ、間が空く。
「合鍵です」
綾瀬美月が言った。
「お借りして、ありがとうございました」
「……うん」
理久は、ゆっくりと封筒を受け取った。
「分かった」
それだけだった。
受け取った封筒を、どこかに置こうとした。
テーブル。
いや、そこに置くものでもないか。
引き出しにしまえばいい。
そう思ったのに、手が動かなかった。
……ただの鍵だろ。
出入りに必要だから渡した。
必要がなくなったから、返される。
何もおかしくない。
なのに。
封筒を持ったまま、理久は立っていた。
「本当に、お世話になりました」
綾瀬美月が、きちんと頭を下げる。
理久は顔を上げた。
いつものように笑う。
「大げさだよ」
「大げさじゃないです。先生がいなかったら、かなり困っていたと思います」
「困ってたなら、役に立ててよかった」
自然に返せた。
そういう言葉なら、いくらでも出てくる。
困っていた人を助けた。
部屋を貸した。
修繕が終わったから、彼女は帰る。
それでいい。
……それで、いいはずなんだけど。
綾瀬美月がここへ帰ってくるようになってから、冷蔵庫には彼女の食べるものが増えた。
帰宅すれば、ゲストルームに明かりがついている日もあった。
朝、洗面所を譲った。
玄関で「いってらっしゃい」と言えば、「行ってきます」と返ってきた。
そんなやり取りが、いつの間にか当たり前になっていた。
明日からは、どれもなくなる。
……なくなるだけだ。
以前の生活に戻る。
理久は封筒を持ち直した。
「ありがとうございました」
彼女が、もう一度笑った。
きちんとした笑顔だった。
理久も笑い返した。
それが、今できる一番まともな対応だと思った。
管理会社から、火事で住めなくなった部屋の修繕が終わったという連絡が来たらしい。
その報告を受けた時、理久は「よかったね」と返した。
それが正しいと思った。
実際、正しい。
火事で帰れなくなった部屋に、もう一度帰れるようになった。
よかったことに決まっている。
室内の確認は、管理会社の立ち会いで行うという。荷物を戻す話になった時、理久は手伝いを申し出た。
「手伝うよ」
けれど、彼女は首を振った。
「大丈夫です。最初に持ってきた分だけですから」
遠慮しなくていいと伝えても、返事は変わらなかった。
「本当に大丈夫です」
二回言った。
綾瀬美月が大丈夫を繰り返す時は、だいたい大丈夫ではない。
いつもなら、そこを拾う。
けれど、その時は拾わなかった。
……拾って、どうする。
手伝う理由を作れば、もう少し一緒にいられる。
そんなことを考えた自分に気づいて、理久は口を閉じた。
彼女には、帰る家がある。
戻れるようになったのに、自分の都合で引き止める理由なんてない。
「分かった」
そう答えた。
それで終わらせた。
終わらせた、つもりだった。
◇
そして、その日が来た。
仕事を終えた綾瀬美月は、管理会社の立ち会いで自室を確認してから、理久のマンションへ戻ってきた。
修繕は問題なく終わり、もう通常どおり住めるという。
「お疲れさま」
そう迎えた理久に、美月もいつもどおり挨拶を返した。
自分の部屋のことを尋ねると、彼女はきちんと答えた。
もう帰れる。
その言葉を聞いて、理久は頷いた。
彼女がゲストルームへ荷物をまとめに行くのを見送り、リビングで論文を開いた。
……読めていない。
スーツケースのファスナーの音。
紙袋が擦れる音。
引き出しが閉まる音。
小さな音がするたびに、意識がそちらへ向く。
数週間前まで、この部屋に綾瀬美月のものは何もなかった。
洗面所にも、冷蔵庫にも、ゲストルームにも。
今、彼女は自分のものを持って帰ろうとしている。
それだけだ。
元に戻るだけ。
理久は論文に視線を戻した。
……。
同じ行を、もう三回読んでいる。
「……何やってるんだろ」
小さく呟いて、画面を閉じた。
やがて、綾瀬美月がリビングへ戻ってきた。
手には、洗濯された部屋着の入った紙袋があった。
「これ、部屋着です。洗濯してあります」
「ありがとう」
理久はそれを受け取った。
それから、彼女はバッグの中から封筒を取り出した。
「あと、これも」
白い封筒。
中身は、言われなくても分かった。
合鍵だ。
理久は、すぐには手を出せなかった。
ほんの少しだけ、間が空く。
「合鍵です」
綾瀬美月が言った。
「お借りして、ありがとうございました」
「……うん」
理久は、ゆっくりと封筒を受け取った。
「分かった」
それだけだった。
受け取った封筒を、どこかに置こうとした。
テーブル。
いや、そこに置くものでもないか。
引き出しにしまえばいい。
そう思ったのに、手が動かなかった。
……ただの鍵だろ。
出入りに必要だから渡した。
必要がなくなったから、返される。
何もおかしくない。
なのに。
封筒を持ったまま、理久は立っていた。
「本当に、お世話になりました」
綾瀬美月が、きちんと頭を下げる。
理久は顔を上げた。
いつものように笑う。
「大げさだよ」
「大げさじゃないです。先生がいなかったら、かなり困っていたと思います」
「困ってたなら、役に立ててよかった」
自然に返せた。
そういう言葉なら、いくらでも出てくる。
困っていた人を助けた。
部屋を貸した。
修繕が終わったから、彼女は帰る。
それでいい。
……それで、いいはずなんだけど。
綾瀬美月がここへ帰ってくるようになってから、冷蔵庫には彼女の食べるものが増えた。
帰宅すれば、ゲストルームに明かりがついている日もあった。
朝、洗面所を譲った。
玄関で「いってらっしゃい」と言えば、「行ってきます」と返ってきた。
そんなやり取りが、いつの間にか当たり前になっていた。
明日からは、どれもなくなる。
……なくなるだけだ。
以前の生活に戻る。
理久は封筒を持ち直した。
「ありがとうございました」
彼女が、もう一度笑った。
きちんとした笑顔だった。
理久も笑い返した。
それが、今できる一番まともな対応だと思った。