光のはじまり ― 王子が困るまで ―
綾瀬美月はスーツケースの持ち手を握り、玄関へ向かった。
理久は、その少し後ろを歩いた。
送ることもできる。
荷物を持つこともできる。
けれど、どちらも言わなかった。
彼女が断ったことを、もう一度持ち出す必要はない。
……必要は、ない。
綾瀬美月が靴を履く。
スーツケースのキャスターが、小さく床を鳴らした。
扉に手がかかる。
この扉を出たら、彼女は自分の部屋へ戻る。
明日からは、また一人だ。
何もおかしくない。
仕事はできる。
食事もできる。
眠る場所だってある。
そもそも、ずっと一人で暮らしてきた。
何が困るというのだろう。
……困らない。
そう結論づけた時だった。
『私がいなくなったら、困る?』
不意に、昔の声が蘇った。
六つ年上の、かつての恋人。
別れを告げられた時、彼女にそう尋ねられた。
あの時の理久には、質問の意味が分からなかった。
彼女がいなくなっても、生活に支障はない。
もちろん、会えなくなるのは残念だった。
けれど、自分の生活を続けることはできる。
実際、別れた翌日も仕事へ行き、食事をして、眠った。
何も困らなかった。
だから、最後まで答えられなかった。
……今も、同じはずだ。
綾瀬美月がいなくなっても、生活は変わらない。
変わらないはずなのに。
論文が読めなかった。
合鍵を置く場所すら決められなかった。
今も、彼女が扉に手をかけているのを見ているだけで、落ち着かない。
……何なんだよ、これ。
『あなたが、自分から帰りたいと思う場所を見つければいいなって思ってる』
あの時の言葉まで、思い出した。
帰りたい場所。
部屋ならあると答えた。
彼女は笑っていた。
『最後まで藤崎くんだね』
理久は、今までその言葉を深く考えたことがなかった。
けれど。
綾瀬美月も、今、笑っている。
きちんと礼を言って。
何もなかったように。
理久は彼女の背中を見た。
もう、扉が開こうとしている。
自分は、このまま見送るつもりだった。
帰る場所が戻った人を引き止めるなんて、正しくない。
その判断は、今も変わらない。
変わらないのに。
……待って。
扉が開いた。
廊下の空気が、玄関へ流れ込んでくる。
「綾瀬さん」
気づけば、声が出ていた。
彼女は振り向かなかった。
その背中を見た瞬間、理久は思った。
このまま行かせたら。
明日も、仕事はできる。
食事もできる。
きっと、眠れる。
……でも。
帰ってきても、彼女はいない。
「綾瀬さん、待って」
手を伸ばした。
彼女の腕に触れる。
思わず振り向いた綾瀬美月を見て、理久は息を止めた。
……え。
笑っていた。
最後まで、いつもの顔で。
けれど、その頬に涙が流れていた。
泣いている。
笑っているのに。
……なんで。
理久は、彼女の顔を見つめた。
さっきまで、何もなかったように笑っていた。
帰れることを、よかったと答えた。
手伝いも断った。
きちんと礼を言って、出ていこうとしていた。
だから、自分も何も言わなかった。
それが彼女の望むことだと思った。
……本当に?
ふと、かつての恋人が最後に見せた笑顔を思い出した。
あの時も、何も困らないと思っていた。
それだけで、相手の気持ちまで分かっていたつもりだったのだろうか。
今さら確かめようもない。
けれど、目の前の綾瀬美月は。
泣いている。
理久は、ようやく自分の手が彼女の腕に触れたままだと気づいた。
あの雷の夜。
離れかけた手を、眠ったまま握り返した。
あの時は、自分でも理由が分からなかった。
今は起きている。
自分で声をかけた。
自分で手を伸ばした。
……行ってほしくなかった。
それだけは、もう誤魔化せなかった。
困る。
生活じゃない。
何かができなくなるからでもない。
綾瀬美月がいなくなる。
それが。
……俺が、困る。
理久は、息を吸った。
「なんで……」
声が、思ったより低く揺れた。
「なんで泣いてるの?」
綾瀬美月の表情が変わった。
自分が泣いていることに、今気づいたような顔だった。
彼女は頬に触れようとして、指先を止める。
その指先が、濡れていた。
「すみません……」
声が、頼りなく落ちる。
「泣くつもりじゃ、なかったんです」
……違う。
謝ってほしいわけじゃない。
泣くつもりがあったかどうかを聞きたいわけでもない。
「そんな言葉が聞きたいんじゃないよ」
自分でも、余裕のない声だと思った。
綾瀬美月が何かを言いかける。
「本当に、泣くつもりは……」
その声が、途中で崩れた。
彼女の視線が揺れる。
足元まで、少し不安定になった。
理久は、彼女の腕をそっと引いた。
強くではない。
けれど、廊下に出たままにはしておけなかった。
綾瀬美月が玄関の内側へ戻る。
理久は背後の扉を静かに閉めた。
理久は、その少し後ろを歩いた。
送ることもできる。
荷物を持つこともできる。
けれど、どちらも言わなかった。
彼女が断ったことを、もう一度持ち出す必要はない。
……必要は、ない。
綾瀬美月が靴を履く。
スーツケースのキャスターが、小さく床を鳴らした。
扉に手がかかる。
この扉を出たら、彼女は自分の部屋へ戻る。
明日からは、また一人だ。
何もおかしくない。
仕事はできる。
食事もできる。
眠る場所だってある。
そもそも、ずっと一人で暮らしてきた。
何が困るというのだろう。
……困らない。
そう結論づけた時だった。
『私がいなくなったら、困る?』
不意に、昔の声が蘇った。
六つ年上の、かつての恋人。
別れを告げられた時、彼女にそう尋ねられた。
あの時の理久には、質問の意味が分からなかった。
彼女がいなくなっても、生活に支障はない。
もちろん、会えなくなるのは残念だった。
けれど、自分の生活を続けることはできる。
実際、別れた翌日も仕事へ行き、食事をして、眠った。
何も困らなかった。
だから、最後まで答えられなかった。
……今も、同じはずだ。
綾瀬美月がいなくなっても、生活は変わらない。
変わらないはずなのに。
論文が読めなかった。
合鍵を置く場所すら決められなかった。
今も、彼女が扉に手をかけているのを見ているだけで、落ち着かない。
……何なんだよ、これ。
『あなたが、自分から帰りたいと思う場所を見つければいいなって思ってる』
あの時の言葉まで、思い出した。
帰りたい場所。
部屋ならあると答えた。
彼女は笑っていた。
『最後まで藤崎くんだね』
理久は、今までその言葉を深く考えたことがなかった。
けれど。
綾瀬美月も、今、笑っている。
きちんと礼を言って。
何もなかったように。
理久は彼女の背中を見た。
もう、扉が開こうとしている。
自分は、このまま見送るつもりだった。
帰る場所が戻った人を引き止めるなんて、正しくない。
その判断は、今も変わらない。
変わらないのに。
……待って。
扉が開いた。
廊下の空気が、玄関へ流れ込んでくる。
「綾瀬さん」
気づけば、声が出ていた。
彼女は振り向かなかった。
その背中を見た瞬間、理久は思った。
このまま行かせたら。
明日も、仕事はできる。
食事もできる。
きっと、眠れる。
……でも。
帰ってきても、彼女はいない。
「綾瀬さん、待って」
手を伸ばした。
彼女の腕に触れる。
思わず振り向いた綾瀬美月を見て、理久は息を止めた。
……え。
笑っていた。
最後まで、いつもの顔で。
けれど、その頬に涙が流れていた。
泣いている。
笑っているのに。
……なんで。
理久は、彼女の顔を見つめた。
さっきまで、何もなかったように笑っていた。
帰れることを、よかったと答えた。
手伝いも断った。
きちんと礼を言って、出ていこうとしていた。
だから、自分も何も言わなかった。
それが彼女の望むことだと思った。
……本当に?
ふと、かつての恋人が最後に見せた笑顔を思い出した。
あの時も、何も困らないと思っていた。
それだけで、相手の気持ちまで分かっていたつもりだったのだろうか。
今さら確かめようもない。
けれど、目の前の綾瀬美月は。
泣いている。
理久は、ようやく自分の手が彼女の腕に触れたままだと気づいた。
あの雷の夜。
離れかけた手を、眠ったまま握り返した。
あの時は、自分でも理由が分からなかった。
今は起きている。
自分で声をかけた。
自分で手を伸ばした。
……行ってほしくなかった。
それだけは、もう誤魔化せなかった。
困る。
生活じゃない。
何かができなくなるからでもない。
綾瀬美月がいなくなる。
それが。
……俺が、困る。
理久は、息を吸った。
「なんで……」
声が、思ったより低く揺れた。
「なんで泣いてるの?」
綾瀬美月の表情が変わった。
自分が泣いていることに、今気づいたような顔だった。
彼女は頬に触れようとして、指先を止める。
その指先が、濡れていた。
「すみません……」
声が、頼りなく落ちる。
「泣くつもりじゃ、なかったんです」
……違う。
謝ってほしいわけじゃない。
泣くつもりがあったかどうかを聞きたいわけでもない。
「そんな言葉が聞きたいんじゃないよ」
自分でも、余裕のない声だと思った。
綾瀬美月が何かを言いかける。
「本当に、泣くつもりは……」
その声が、途中で崩れた。
彼女の視線が揺れる。
足元まで、少し不安定になった。
理久は、彼女の腕をそっと引いた。
強くではない。
けれど、廊下に出たままにはしておけなかった。
綾瀬美月が玄関の内側へ戻る。
理久は背後の扉を静かに閉めた。