光のはじまり ― 王子が困るまで ―

第37話 帰ってほしくない

扉が閉まると、綾瀬美月の身体から力が抜けた。

理久は、とっさに彼女を抱きとめた。

腕の中で、まだ震えている。


いつもなら、もっと上手くできた。

相手が気まずくならない言葉も、安心させるための距離も、きれいに逃がす言葉も。

いくらでも選べたはずだった。

けれど、今は何一つ思いつかない。


帰ってほしくない。


さっき、ようやく分かった自分の本音が、まだ胸の奥に残っていた。

このまま離したくない。

離したら、彼女はまた自分を整えてしまう。

大丈夫です、と言って。

何もなかった顔で、元の場所へ帰ってしまう。

だから、理由がほしかった。

この腕をほどくためではなく、ほどかないための理由が。


……困ったな。


綾瀬美月は、泣いている。

帰れるはずなのに、帰れなくなっている。

その意味を、期待してしまう自分がいた。


けれど、彼女は何も言わない。

理久は、腕の中にいる美月へ視線を落とした。

「なんで泣いてるのか、理由を教えて」

美月は小さく首を振った。

「……泣いてません」


……いやいや。


「泣いてるよ」

思わず、少しだけ顔を近づけた。

「俺が見てる」

美月の頬を、また涙が伝った。

否定しようとした唇が、かすかに震えている。

しばらくして、ようやく声が聞こえた。

「……分からないんです」

「何が?」

「どうして、泣いてるのか」

理久は何も言わず、続きを待った。

「帰れるんです」

美月は、途切れがちな声で続けた。

「部屋も直ってて、住めるって言われて、何も問題ないんです」

「うん」

「だから、帰ればいいだけなんです」

「うん」

「なのに……」

そこで言葉が止まった。


理久は、彼女を支える腕をわずかに緩めた。

苦しくないように。

それでも、美月が離れようとする気配はなかった。

「何もなかったみたいに戻るのが……」

声が震えた。

「少し、苦しかったんです」


……何もなかったみたいに?


理久は、思わず腕に力を込めた。

ほんの少し。

「何もなかったみたいに?」

「はい」

美月が頷く。

「ここにいたことも、先生に助けてもらったことも、朝に顔を合わせたことも、病院では何も変わらなかったことも……」

言葉を探すように、美月が続ける。

「全部、ちゃんと終わらせなきゃいけないと思ってました」

「うん」

「でも、終わったことにするのが、苦しかったんです」

また、涙が落ちた。

理久は、何も言えなかった。


終わらせる。


そうだ。

彼女は、この部屋を出ていくつもりだった。

自分も、それが正しいと思っていた。

何もなかった顔で送り出そうとした。


けれど、目の前の彼女は泣いている。

この部屋で過ごした時間を、終わったことにするのが苦しいと言っている。


……それって。

期待するなという方が、無理だろ。


けれど、彼女はまだ肝心なことを言わない。

好きだとは言わない。

縋らない。

欲しいものを、そのまま欲しいとは言わない。

こんなに近くにいるのに、肝心なところだけは触れさせてくれない。


……ずるい。


こっちは、ずっと線を引いてきたんだけど。

その線を守るために、何もなかった顔までしてきた。

それなのに、こんなふうに泣かれたら。


……勘弁してよ。


そう思ってから、自分も同じだと気づいた。


聞きたい。

彼女の口から、確かな言葉がほしい。

それを聞けたら、自分も何か言える気がする。

そんな順番を考えている。


……まったく。


理久は、ゆっくりと腕をほどいた。

突き放すためではない。

彼女の顔を見るためだった。

一歩、下がる。

涙はまだ残っている。

指先を伸ばせば、拭える距離だった。


けれど、触れなかった。

抱きしめたまま、答えを求めるわけにはいかない。

「綾瀬さん」

「はい」

理久は、彼女を見つめた。

「聞いていい?」

美月は答えなかった。

それでも、こちらを見ている。

理久は、少しだけ息をついた。

「俺のこと、どう思ってるの?」

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