光のはじまり ― 王子が困るまで ―
帰り支度を始めたものの、俺たちはなかなか店を出られずにいた。
桐谷先生が、上着を着た藤崎先生を眺めながら言った。
「でも、藤崎も変わったよな」
綾瀬が首を傾げる。
「変わった、ですか?」
「昔は、もっと尖ってた」
「あ、それ分かります」
俺は思わず口を挟んだ。
「俺、研修医の時に挨拶したことあるんですけど、驚くぐらいバッサリ切られました」
綾瀬がこちらを見る。
「そうなの?」
「そうだよ。興味持たれてないんだなって、一瞬で分かったし」
桐谷先生が笑う。
「実際、興味なかったんだろうな」
「ですよね!」
「当時の藤崎なら普通に言う」
俺は頷いた。
あの頃の藤崎先生は、今よりずっと言葉がそのままだった。
聞かれたら答える。
間違っていたら指摘する。
必要ないと思えば、余計なことは言わない。
冷たいというより、無駄がない。
でも、その無駄のなさが普通に人を刺す。
「でも、俺がレジデントで戻ってきた時は違ったんですよ」
俺は言った。
「患者さんにも看護師にも柔らかくて、外科の藤崎先生って、こういう感じなんだって思いました」
桐谷先生が面白そうに言った。
「その間に、王子の皮を被ったんだろうな」
「王子の皮、ですか」
「中身は昔から、そんなに王子じゃないよ」
綾瀬が、藤崎先生を見た。
少しだけ考えるような顔をする。
「……私も、出会った頃から王子だとは思っていませんでした」
俺と桐谷先生は、同時に綾瀬を見た。
「え?」
思わず声が重なった。
綾瀬は不思議そうに俺たちを見る。
「そんなに驚くことですか?」
「いや、驚くだろ」
桐谷先生が笑う。
「院内の王子だぞ」
「そう呼ばれていたのは知っています」
綾瀬は淡々と答えた。
「でも、私に対しては、最初からあまり王子ではなかったです」
藤崎先生が、壁に寄りかかったまま小さく眉を動かした。
聞いている。
酔っているくせに、こういう話はちゃんと聞いている。
「俺、そんなに王子じゃなかった?」
藤崎先生が低い声で言った。
綾瀬は即答した。
「はい」
「即答だね」
「事実なので」
「ひどいな」
「りくの方がひどかったです」
俺は思わず藤崎先生を見た。
綾瀬がここまで言うのは珍しい。
しかも、責めているわけではない。
少し呆れていて。
少しだけ、懐かしそうで。
その声には、不思議とトゲがなかった。
桐谷先生が、楽しそうに目を細める。
「具体的には?」
綾瀬は一瞬だけ黙った。
たぶん、言わないことを選別している顔だった。
そして、静かに言った。
「いつもどこか強引で、逃げ道を用意しているような顔をして、結局こちらが自分で選ぶしかないところに連れていく人でした」
俺は思わず頷いた。
「……分かる気がする」
「でしょう?」
「うん」
「それなのに、最後は私が自分で選んだみたいな形にするんです」
桐谷先生が笑った。
「最悪だな」
綾瀬も、少しだけ笑った。
「はい。かなり」
でも、その声はやっぱり優しかった。
俺はその顔を見て思った。
ああ、綾瀬はちゃんと知っているんだな。
藤崎先生が王子ではないことも。
強引なくせに、最後の一線だけは相手に選ばせようとすることも。
たぶん、俺が知らない顔も。
桐谷先生は、二人を交互に見た。
「いいな」
「何がですか」
俺が聞くと、桐谷先生は少しだけ笑った。
「ちゃんと王子じゃないところを見られてる感じが」
藤崎先生は黙った。
綾瀬も、少しだけ黙った。
さっきまでの軽口が、一瞬だけ止まる。
その沈黙に、俺は妙な重さを感じた。
ーー王子ではないところ。
たぶん、それは藤崎先生にとって、思っているより大事なことなのだ。
「でも」
綾瀬が静かに言った。
「病棟での藤崎先生は、やっぱりすごいと思っていました」
藤崎先生が、綾瀬を見る。
「そう?」
「はい」
綾瀬は頷いた。
「患者さんの前では、ちゃんと安心できる言葉を選ぶ。ご家族にも、怖がらせないように説明する。でも、必要なことは曖昧にしない」
藤崎先生は何も言わない。
「看護師にも、強く言いすぎない。でも、確認すべきところは流さない」
綾瀬は少しだけ視線を落とした。
「そういうところは、本当にすごいと思っていました」
それは、たぶん本音だった。
恋人としてではなく。
同じ病院で働いていた看護師として。
綾瀬美月が見ていた藤崎理久。
俺は、その言葉に少しだけ納得した。
綾瀬は、王子扱いをしていなかった。
でも、仕事を軽く見ていたわけでもない。
むしろ、ちゃんと見ていた。
外科医としての藤崎先生も、王子とは少し違う、その素顔も。
「美月」
藤崎先生が呼んだ。
さっきより、少しだけ声が低い。
「何ですか」
「褒めてる?」
「褒めています」
「分かりにくい」
「りくほどではありません」
桐谷先生が吹き出した。
俺も少し笑ってしまった。
藤崎先生は、不満そうな顔をした。
けれど、その目元は少しだけ緩んでいる。
嬉しいのだと思った。
分かりやすい。
いや、分かりやすくなった。
「藤崎」
桐谷先生が呼んだ。
「何」
「よかったな」
「何が」
「王子じゃないところまで見てもらえて」
藤崎先生はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を伏せる。
それから、小さく言った。
「……そうだね」