光のはじまり ― 王子が困るまで ―

エピローグ 帰る理由

玄関のドアが閉まった瞬間、外の夜の音が遠ざかった。

六本木の居酒屋から帰ってきて、ようやく部屋の中に静けさが戻る。

美月は理久の上着を受け取り、ハンガーにかけながら小さく息を吐いた。

まさか、桐谷先生たちとの飲み会に呼び出されるとは思わなかった。しかも、迎えに行ってみれば、肝心の夫はすっかり眠り込んでいる。

いつもは何事もそつなくこなす人なのに、どうしてこういう時だけ妙に手がかかるのだろう。

「水、飲みますか?」

「うん。ありがとう」

返事は素直だった。けれど、その声には普段より少し甘えるような響きがある。

仕事の疲れが溜まっていたところにお酒が入って、眠ってしまったらしい。帰り道で夜風に当たったせいか、今はずいぶん目も覚めているようだった。

それでも、どこか気の緩んだ表情をしている。

美月はキッチンで水を注ぎながら、ちらりと理久を振り返った。

こういう時の理久は厄介だ。

酔っているからといって、何も考えずに甘えてくるわけではない。こちらの反応を見ながら、絶妙なところを突いてくる。

普段からそういう人なのに、今夜は遠慮というものが少し足りない。

グラスを渡すと、理久は半分ほど飲んでから、リビングのテーブルに置いた。

「美月」

「はい?」

「で、結局どっちの味方なの?」


……まだ覚えていたのか。


美月は思わず顔をしかめた。

「またその話ですか?」

「大事なことだから」

「さっきから、そればっかりですね」

「だって、答えてもらってないし」

居酒屋でも散々聞かれた質問だった。

理久と及川くん、どちらの味方なのか。

そもそも、そんなことを比べる必要がどこにあるのだろう。及川くんは桐谷先生に言われて連絡をしてきただけで、何も悪いことはしていない。

それなのに、理久はなぜか面白くなさそうな顔をしていた。

「答えなくても分かるでしょう?」

「分かるのと、聞くのは違うよ」

理久は何でもないことのように言った。

その言い方が妙に自然で、美月は返す言葉に詰まる。


確かに、理久が何を聞きたがっているのかは分かる。

分かるけれど、わざわざ口にするのは恥ずかしい。

「もう、お水も飲んだんですから、今日は早く休んでください」

話を切り上げようとした美月がキッチンへ戻ろうとすると、理久がそっと手を伸ばしてきた。

「美月」

振り向いたところで、手を取られる。

強く引っ張られたわけでもないのに、つい一歩後ろへ下がると、背中が廊下へ続く壁に触れた。

理久はそのすぐ前に立ち、片手を壁につく。


……近い。


美月が見上げると、理久は穏やかに微笑んでいた。

院内で王子と呼ばれる、あの人当たりのいい笑顔。

ただし、その奥にあるものが、病院で見せるものとはまったく違うことを、美月はよく知っている。

「りく?」

「聞かせて」

理久が少し顔を寄せると、かすかにお酒の香りがした。

「美月は、誰の味方?」

耳元に落とされた低い声に、美月は思わず肩をすくめた。

この人は、自分の声や表情が相手にどんな影響を与えるのか、絶対に分かっている。

だから厄介なのだ。

「ちょっと、色仕掛けされても困ります」

「色仕掛け?」

「今のは完全にそうです」

「美月がちゃんと言わないからじゃない?」

「……言わなくても分かってますよね?」

「うん」

あっさり認めた理久に、美月は呆れてしまった。

「でも、聞きたいんだよ」

悪びれもせずにそう言われてしまうと、こちらばかりが意識しているようで悔しくなる。

理久は美月の耳元に唇を寄せ、囁いた。

「ねえ、言って」

その声に、背中がぞくりとする。

美月は慌てて顔を背けた。

「王子キャラが崩壊してますよ」

「俺、元々王子キャラじゃないからね」

「開き直らないでください」

「事実を言っただけだよ」

くすりと笑った理久が、美月の顔を覗き込む。

目を合わせるのが恥ずかしくて、美月は視線を逸らしたまま、彼のシャツをそっと掴んだ。

すると、理久の唇が首筋に触れた。

軽く、一度だけ。

それだけなのに、シャツを掴む指先に力が入ってしまう。

「りく……」

「ん?」

理久が顔を上げた。

目が合いそうになって、美月は思わず視線を伏せる。

けれど、掴んでいたシャツを離すことはできなかった。

むしろ、もう少しだけ近くにいてほしくて、そっと引き寄せてしまう。

その小さな動きを見逃すような理久ではない。

「……美月?」

楽しそうな声がした。

何か言わなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。

代わりに、美月の指先がもう一度シャツを引いた。

理久は小さく笑うと、何も言わずに再び首筋へ唇を寄せた。

今度は、少し長く。

「んもー……」

ようやく漏れた抗議にも、理久はまったく動じない。

「ほら、言ってよ。誰の味方なのか」

「……」

「そんなに難しい?」

「難しくしてるのは、りくです」

「そう?」

理久が顔を上げる。

今度は、まともに目が合ってしまった。

酔っているはずなのに、その瞳は妙に澄んでいる。


ずるい。

本当に、こういうところがずるい。


いつも少し意地悪で、人を翻弄することばかり考えているくせに、ふとした瞬間に驚くほど無邪気な顔をする。

しかも、こちらが黙っていると、少しだけ寂しそうな目までしてみせるのだ。


それが計算なのか、本心なのか。

最近は、もうどちらでもいいような気がしてきた。

美月は降参したように息を吐いた。

「……りく」

「ん?」

「りくの味方……です」

言い終えるのと同時に、恥ずかしさが込み上げてきた。

こんなことを言わせて、いったい何が楽しいのだろう。


ところが、理久の表情を見て、美月はそれ以上文句を言えなくなってしまった。

嬉しそうだった。

本当に、嬉しそうに笑っている。

いつもの余裕のある微笑みとは違う、どこか無防備な笑顔だった。

その顔だけは、悔しいくらい王子そのものだと思う。

「美月」

名前を呼ばれ、思わず見上げる。

理久は壁から手を離すと、美月の前にそっと片手を差し出した。

「こっち、来て」

美月はその手と、理久の顔を交互に見た。

「……まだ何かあるんですか?」

「あるよ」

即答だった。

「嫌な予感しかしません」

「ひどいな」

そう言いながら、理久は楽しそうに笑っている。

美月は小さくため息をついた。


この人には、どうやら今夜も勝てそうにない。

それでも、差し出された手を取ることに、もう迷いはなかった。



< 79 / 82 >

この作品をシェア

pagetop