光のはじまり ― 王子が困るまで ―
理久に手を引かれたまま廊下を進み、美月は寝室の前でようやく足を止めた。


……ちょっと待って。


さっきの「こっち、来て」は、そういう意味だったのか。

「ちょっと待ってください」

理久が振り返る。

「待ってるよ」

何でもないような顔で答えられ、美月は思わず眉を寄せた。

「待ってないです」

「ちゃんと聞いてるけど?」

「聞いてるだけでしょう!」

理久が笑った。


完全に面白がっている。


結婚してからというもの、こういう遠慮のなさがますます増えた気がする。


いや、もともと遠慮のない人だった。


ただ、以前は最後の一線を越えないように、彼なりに距離を取っていただけなのだろう。

今はその必要がない。

その違いを、美月は思い知らされている。


理久が寝室に入り、ベッドの方へ歩いていく。

美月も後を追い、ベッドの縁に腰を下ろした。


言いたいことはいろいろある。

けれど、まずは確認しておかなければならない。

「言ったから終わりですよね?」

理久は心底不思議そうな顔をした。

「終わると思ったの?」

「思いました」

即答すると、理久は美月の隣に腰を下ろした。

「じゃあ、終わったことにする」

「はい」

よかった。

ようやく話が通じた。

そう思ったのも束の間だった。

「でも、あんな可愛いことを言われたら、終わってもまた始まるよね」


……はい?


美月は思わず理久を見つめた。

その顔には、悪びれた様子など微塵もない。むしろ、こちらがどう反応するのか、楽しみにしているようにさえ見える。

「……何ですか、その理屈」

「俺の理屈」

「通りません」

「通したい」

「強引すぎます」

美月が抗議しても、理久は穏やかに笑っているだけだった。

こういうところは、昔から少しも変わっていない。

人当たりのいい顔をして、こちらの反応をすべて見透かしている。

そして、いつの間にか自分のペースに巻き込んでしまうのだ。


けれど、そんなことを考えているうちに、理久の指先が美月の頬に触れた。

それまで楽しそうだった表情が、少しだけ柔らかくなる。

「……嫌?」

さっきまでの冗談めいた声とは違っていた。

その問いかけに、美月は一瞬だけ黙った。

嫌なら、ここまで来ていない。

それが分かっているから、余計に悔しい。

「……ずるいです」

美月が呟くと、理久の目元が緩んだ。

「前にも言ったよね」

「何をですか」

「俺は男だって」

その瞬間、美月の頭の中で、いくつもの記憶が一気に蘇った。

恋人同士になり、キスをした。

でも、その後あまりに手を出されないものだから、自分が勝手に抱いてしまった、かなり失礼な疑惑の数々。


……まずい。


これは非常にまずい話題だ。

美月が慌てて視線を逸らすと、理久は何かを察したように目を細めた。

「あ、何か思い出してる」

「い、いえ」

「美月、俺にいろいろな疑惑持ってたからねぇ」

「……あー」

やっぱり覚えている。

忘れていてほしいことに限って、この人の記憶力は恐ろしくいい。

しかも、思い出したくない過去をわざわざ掘り返す時の理久は、決まって楽しそうなのだ。

美月は唇を引き結んだ。

このままでは、一方的にやられっぱなしになる。


何か。

何か、形勢を逆転できる話題はないだろうか。


そう考えたところで、ふと、先ほどの居酒屋での出来事が蘇った。

桐谷先生が口にした、あの妙な言葉。

「そういえば」

「ん?」

美月は理久の顔を見上げた。

「呪い」

頬に触れていた理久の指先が、ぴたりと止まった。


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