光のはじまり ― 王子が困るまで ―
……あれ?


美月は理久の顔をまじまじと見つめた。

今、明らかに反応した。

さっきまであれほど余裕のある顔をしていたのに、突然、何かを警戒するような表情になっている。


これは、もしかして。


「そういえば、呪いって何ですか?」

美月が改めて尋ねると、理久は何でもないように視線を逸らした。

「……いや、別に」

「はぐらかしてる」

「何のこと?」

「桐谷先生が言ってた呪いです」

「……ああ」

思い当たったらしい。

けれど、それ以上は説明しようとしない。

そもそも、桐谷先生が「呪い、解けたな」と言った時から気になっていたのだ。


何の呪いなのか。

誰にかけられたのか。

そして、なぜ今になって解けたのか。


理久の過去には、自分の知らないことがまだたくさんあるのだろう。

だからといって、すべてを知る必要があるとは思わない。

でも、目の前であんな意味深なことを言われたら、気にならない方がおかしい。

「何の呪いをかけられたんです?」

「なんで俺の立場が危うくなってるの」

理久が苦笑する。

美月は、少しだけ得意になった。

どうやら、今度はこちらが攻める番らしい。

「気になりました」

「今?」

「今です」

「この状況で?」

「この状況だからです」

理久はしばらく美月を見つめていた。


やがて、困ったように笑う。

「美月」

「はい」

「俺に勝とうだなんて、百年早い」

「えっ?」

美月が口を開きかけたところで、理久の顔が近づいた。

その表情を見た瞬間、何を言おうとしていたのか分からなくなる。

唇が重なる。

そのまま理久の腕が背中に回り、そっと支えられた。

美月は彼の肩に手を添え、ゆっくりと身体を倒す。柔らかなベッドに背中が沈むと、理久がすぐ近くから顔を覗き込んできた。

理久の指先が美月の髪を撫で、頬に触れる。

もう一度唇が重なると、先ほどまでの勢いはどこかへ消えてしまった。

「り……りく……」

ようやく漏れた声は、抗議にも問いにもならなかった。


呪いのことを聞きたいのに。

この人が、どんな呪いをかけられていたのか知りたいのに。


こうして近くにいると、どうしても他のことが考えられなくなる。

理久は美月の額に軽く口づけると、少しだけ笑った。

「今度、話す」

「本当ですか」

「たぶん」

「たぶんは信用できません」

「じゃあ、いつか」

「もっと信用できません」

「厳しいな」

「当然です」

理久は楽しそうに笑い、美月の髪をそっと耳にかけた。


まったく反省していない。


けれど、こんなやり取りさえ、今ではすっかり二人の日常になっている。

以前は、理久の一言一言に振り回され、その真意を探るだけで精一杯だった。

今だって、相変わらず翻弄されている。

でも、あの頃とは違う。

言い返すこともできるし、甘えることもできる。

そして何より、理久が自分に向ける気持ちを、もう疑わなくていい。

美月は掴んでいたシャツを少し緩め、小さく息を吐いた。

結局、呪いの正体は分からないままだ。

けれど、こうしていると、今度は自分が呪いにかけられてしまったような気がしてくる。


――この人には、かなわない。


美月は思わず小さく笑った。

でも、それは案外、悪い気分ではなかった。

そして、たぶん。

理久にかけられていた呪いの方は、もう解けているのだろう。

桐谷先生がそう言った時、理久は否定しなかった。

何のことなのかは分からない。

それでも、美月には一つだけ確かなことがあった。


理久はもう、一人で何もかも完結させようとする人ではない。

誰かに甘えたいと思うことも、自分の気持ちを言葉にすることも、以前よりずっと自然になった。


そして今夜は、何度も自分の味方なのかと聞いてきた。

答えなど、最初から分かっているくせに。

美月はそっと理久の首に腕を回した。

「りく」

「ん?」

「私、ちゃんと味方ですから」

理久の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。

それから、嬉しそうに目元が緩む。

「うん」

その声は、さっきよりずっと素直だった。

「知ってる」

「なら、聞かないでください」

「聞きたいんだよ」

「面倒な人」

「美月限定でね」

「限定されても困ります」

「諦めて」

あまりに当然のように言うものだから、美月は呆れて笑ってしまった。

理久はその笑顔をしばらく眺めてから、ゆっくりと顔を近づけてきた。

美月も目を閉じる。

今度は、どちらからともなく唇が重なった。


窓の向こうには、遠く街の灯りが広がっている。

かつて、一時的に身を寄せることになったこの部屋。

最初は落ち着かなくて、何度も帰ろうと思った場所だった。

それなのに今では、ここに帰ってくることが当たり前になっている。

そして、隣には理久がいる。

王子じゃない。

本当に、どこが王子なんだか。


美月は心の中で、そっと笑った。

でも、その王子じゃない人が、どうしようもなく愛おしかった。


◇


美月は知らない。

昔、一人の女性が理久に残した言葉を。


『誰かがいなくなって、本当に困ればいいのに』


あの時、理久は聞いた。


『呪い?』


彼女は答えた。


『違う。願い』


あの頃は、その意味が分からなかった。

誰かがいなくなっても、生活は続く。

仕事もできるし、一人で生きていくことに不自由はない。

恋人と別れて寂しいと思ったことがなかったわけではない。


けれど、その不在によって、自分の日常が変わってしまうほど誰かを必要としたことはなかった。

だから、あの言葉を理解できなかった。


でも、今は違う。

理久は腕の中の美月を見つめた。


先ほどまで散々文句を言っていたくせに、今は穏やかな顔でこちらを見上げている。

その頬に触れると、美月が少しだけ微笑んだ。

そんな何でもない仕草が、どうしようもなく愛おしい。


明日も、その先も、この人と一緒にいたい。

仕事を終えたら、顔が見たい。

くだらない話をして、時には言い合いになって、それでも最後には同じ場所へ帰ってくる。

以前の自分なら、そんな日常を誰かと分かち合うことに、これほどの幸せを感じるとは思わなかっただろう。


理久は美月の髪にそっと唇を寄せた。

かつての自分には、理解できなかった感情。

あの時、呪いだと思った言葉は、きっと本当に願いだったのだ。


……ああ。

ようやく分かった。

家なら、ずっと前からあった。


でも。


帰る理由は、ここにいる。


Fin.
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