魔法より、君に恋をする。
研究塔は、学院の北側にあった。
生徒会室より静かで、人の気配も少ない。
「ここ、三年生しか入れないんじゃないですか?」
「基本はね」
「私は?」
「特別許可」
「誰の?」
「僕の」
「会長って便利」
「もっと敬ってくれてもいいよ」
「敬ってます。ノクス先輩」
「急に距離を取られた気がする」
「会長」
「戻った」
ルシアンが笑う。
研究室へ入る。
机の上には本が積まれていた。
黒い石はない。
「今日は石ないんですね」
「君がいるからね」
「私がいると駄目?」
「反応する可能性があるものを、わざわざ近づける必要はない」
「クロフォード先輩みたい」
「それは褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「過保護」
「手厳しいなあ」
ルシアンは椅子を引いた。
「座って」
リリアが座る。
ルシアンは向かいではなく、その隣へ座った。
「近い」
「本を一緒に見るから」
「なるほど」
机の上に一冊の古い本を開く。
描かれているのは魔法陣だった。
中央に一つ。
そこから、十二本。
「またこれ」
「うん」
「十二」
「そう」
リリアは指で線を追う。
「この前の本と似てる」
「同じ系統の術式だと思う」
「召喚じゃない」
「なぜ?」
「……分からない」
「また?」
「でも違う」
「じゃあ何だと思う?」
リリアはしばらく図を見る。
「繋いでる」
ルシアンの表情が変わった。
「何を?」
「分からない。でも、呼ぶためじゃなくて……離れないようにしてる感じ」
「……」
「違う?」
「続けて」
リリアは眉を寄せる。
「中央が一番大事に見えるけど、十二本の方が……」
指が止まる。
「十二個あるんじゃない」
「何が?」
「同じものが十二個じゃなくて」
胸の奥がざわついた。
けれど、痛みではない。
何かを思い出す感覚でもない。
ただ、魔法を読む時の感覚だった。
「十二回」
ルシアンが息を止めた。
リリアは顔を上げる。
「……何?」
「いや」
「今、顔変わった」
「君は本当に容赦ないな」
「当たってる?」
ルシアンは答えなかった。
「ルシアン先輩」
初めて、自然にそう呼んだ。
会長でも、ノクス先輩でもなく。
名前。
ルシアンの目がわずかに見開かれる。
「……もう一回」
「何を?」
「今の」
「ルシアン先輩?」
「……うん」
「何?」
「いや。思ったより嬉しかっただけ」
「名前で呼ばれるの?」
「君にね」
リリアは少し黙った。
「みんなそれ言う」
「みんな?」
「名前」
「へえ」
ルシアンの笑顔が少し薄くなる。
「誰?」
「アレン」
「……ああ」
「二人の時だけですけど」
「そう」
「レオン先輩も短くしたし」
「なるほど」
「ノアとセシルは最初から名前」
「同級生だからね」
「クロフォード先輩だけ長い」
ルシアンは吹き出した。
「そこ?」
「長くない?」
「確かに」
「でも本人何も言わないから」
「言えないんじゃないかな」
「なんで?」
「さあ」
「また知ってる顔」
「どんな顔?」
「私が知らないこと知ってる顔」
ルシアンは笑うのをやめた。
「嫌い?」
「前は嫌だった」
「今は?」
「まだちょっと嫌」
「ちょっとになったんだ」
「前より話してくれるから」
「……そう」
ルシアンは開いた本へ視線を落とした。
「じゃあ、一つだけ教えようか」
「何?」
「この術式についてじゃない。僕について」
リリアが瞬く。
「ルシアン先輩について?」
「君は僕を、何でも知ってる人だと思ってるだろう?」
「違うんですか?」
「違うよ」
即答だった。
「知らないことの方が多い」
「例えば?」
「今の君が明日何を食べたいと思うか」
「苺」
「それは知ってた」
「じゃあ他」
「君が誰を好きになるのか」
リリアは黙った。
「それも知ってると思ってた」
「どうして?」
「何でも知ってそうだから」
「それだけは知らない」
ルシアンは静かに言った。
「知りたくても、知れない」
「……そうなんだ」
「うん」
「じゃあ普通ですね」
「僕が?」
「恋愛のこと分からないなら」
「随分な基準だな」
「私も分からないから」
リリアは本を閉じた。
「セシルが、急がなくていいって言ってました」
「アルヴェインが?」
「うん。誰かに好きって言われたからでも、昔からそうだったからでもなくて、私が好きだって思った時に分かればいいって」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、その言葉をゆっくり受け止めるように目を伏せた。
「……彼女は強いね」
「剣?」
「そっちじゃない」
「?」
「いいことを言うなと思って」
「私もそう思った」
「リリア」
「はい」
「その言葉、忘れないで」
「忘れません」
「誰かが君に、昔はこうだったとか、運命だからとか、そういうことを言っても?」
リリアは首を傾げた。
なぜそんなことを聞くのだろう。
けれど答えは簡単だった。
「関係ないです」
「……」
「昔の私が誰を好きだったとしても、今の私が好きじゃなかったら意味ないでしょ?」
ルシアンは黙った。
「違う?」
「いや」
彼は笑った。
いつもの、何かを知っている笑い方ではなかった。
少しだけ寂しくて。
それでも、どこか安心したような笑顔だった。
「正しいよ」
「ならよかった」
「……本当に、君は」
「何?」
「いや」
「また途中でやめる」
「これは秘密じゃないよ」
「じゃあ言って」
ルシアンは少し考えた。
「君を知るのは、思っていたより楽しい」
リリアが瞬く。
「今さら?」
「今さらなんだ」
「変なの」
「そうだね」
「私もルシアン先輩のこと知りたいですよ」
「……僕を?」
「だって私ばっかり知られてるの、ずるい」
「理由が君らしいな」
「好きな食べ物は?」
「いきなりそこ?」
「クロフォード先輩にも聞いた」
「また彼か」
「肉だって」
「想像通りすぎる」
「ルシアン先輩は?」
「珈琲」
「食べ物じゃない」
「じゃあ、甘くないもの」
「広い」
「君みたいに苺一択じゃないんだよ」
「苺以外も食べます」
「知ってる」
「また知ってる」
「あ」
ルシアンが笑う。
「癖だね」
「直してください」
「努力するよ」
「じゃあ今度、一緒に何か食べましょう」
「……僕と?」
「知りたいから」
「好きな食べ物を?」
「それも」
ルシアンはしばらくリリアを見ていた。
「いいよ」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「今度は僕が君を連れていく」
「迷わないところにして」
「僕と一緒なら迷ってもいいだろう?」
「よくない」
「即答だね」
「帰れなくなる」
「ちゃんと連れて帰るよ」
「ならいいです」
「いいんだ」
「はい」
ルシアンは小さく笑った。
彼女は知らない。
自分がどれほど長い時間を背負っているのかも。
彼女によく似た誰かを、かつてどんな目で見ていたのかも。
それでも今、リリアは目の前の自分を知りたいと言った。
過去ではなく。
役割でもなく。
ただ、ルシアンという人間を。
「リリア」
「何ですか?」
「次に会う時も、今みたいに呼んで」
「ルシアン先輩?」
「ああ」
「いいですよ」
あっさりした返事だった。
けれど、それでいい。
「じゃあ帰ろうか」
「送ってくれる?」
「もちろん」
「よかった。ここから一人だと帰れない」
「やっぱり?」
「研究塔、遠い」
「距離の問題かな」
「たぶん」
「絶対違うと思うけど」
ルシアンが立ち上がる。
リリアもその隣へ並んだ。
机の上には、十二本の線を持つ魔法陣が残っている。
十二回。
リリアが何気なく口にした言葉。
その意味を、彼女はまだ知らない。
今は、それでいい。
過去が彼女を追いかけてくるのなら、いつか向き合わなければならない日は来る。
けれど。
彼女の未来まで、過去に決めさせる必要はない。
「ルシアン先輩」
「何?」
「明日も研究します?」
「嫌?」
「嫌じゃない。でも普通のこともしたい」
「普通?」
「ご飯食べたり」
「さっきの約束?」
「うん」
「……じゃあ明日は研究を休もうか」
「いいの?」
「たまにはね」
「じゃあ一緒に食べる?」
「いいよ」
リリアは満足そうに頷いた。
「約束」
「ああ。約束だ」
二人で研究室を出る。
背後で扉が閉まった。
十二本の線も、黒い石も、まだそこにある。
けれど今のリリアが知りたいものは、それだけではなかった。
セシルの好きなもの。
ノアが笑顔の奥で何を考えているのか。
レオン先輩が王子ではない時にどんな顔をするのか。
アレンがどうして時々、ずっと待っていたようなことを言うのか。
クロフォード先輩が猫以外に何を好きなのか。
そして、ルシアン先輩が何を知らないのか。
知りたいと思う相手が、増えている。
その気持ちが友情なのか、好奇心なのか、それともいつか別の名前になるのか。
今はまだ、決めなくていい。
リリアはそう思いながら、ルシアンの隣を歩いた。
今度は、迷わなかった。
生徒会室より静かで、人の気配も少ない。
「ここ、三年生しか入れないんじゃないですか?」
「基本はね」
「私は?」
「特別許可」
「誰の?」
「僕の」
「会長って便利」
「もっと敬ってくれてもいいよ」
「敬ってます。ノクス先輩」
「急に距離を取られた気がする」
「会長」
「戻った」
ルシアンが笑う。
研究室へ入る。
机の上には本が積まれていた。
黒い石はない。
「今日は石ないんですね」
「君がいるからね」
「私がいると駄目?」
「反応する可能性があるものを、わざわざ近づける必要はない」
「クロフォード先輩みたい」
「それは褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「過保護」
「手厳しいなあ」
ルシアンは椅子を引いた。
「座って」
リリアが座る。
ルシアンは向かいではなく、その隣へ座った。
「近い」
「本を一緒に見るから」
「なるほど」
机の上に一冊の古い本を開く。
描かれているのは魔法陣だった。
中央に一つ。
そこから、十二本。
「またこれ」
「うん」
「十二」
「そう」
リリアは指で線を追う。
「この前の本と似てる」
「同じ系統の術式だと思う」
「召喚じゃない」
「なぜ?」
「……分からない」
「また?」
「でも違う」
「じゃあ何だと思う?」
リリアはしばらく図を見る。
「繋いでる」
ルシアンの表情が変わった。
「何を?」
「分からない。でも、呼ぶためじゃなくて……離れないようにしてる感じ」
「……」
「違う?」
「続けて」
リリアは眉を寄せる。
「中央が一番大事に見えるけど、十二本の方が……」
指が止まる。
「十二個あるんじゃない」
「何が?」
「同じものが十二個じゃなくて」
胸の奥がざわついた。
けれど、痛みではない。
何かを思い出す感覚でもない。
ただ、魔法を読む時の感覚だった。
「十二回」
ルシアンが息を止めた。
リリアは顔を上げる。
「……何?」
「いや」
「今、顔変わった」
「君は本当に容赦ないな」
「当たってる?」
ルシアンは答えなかった。
「ルシアン先輩」
初めて、自然にそう呼んだ。
会長でも、ノクス先輩でもなく。
名前。
ルシアンの目がわずかに見開かれる。
「……もう一回」
「何を?」
「今の」
「ルシアン先輩?」
「……うん」
「何?」
「いや。思ったより嬉しかっただけ」
「名前で呼ばれるの?」
「君にね」
リリアは少し黙った。
「みんなそれ言う」
「みんな?」
「名前」
「へえ」
ルシアンの笑顔が少し薄くなる。
「誰?」
「アレン」
「……ああ」
「二人の時だけですけど」
「そう」
「レオン先輩も短くしたし」
「なるほど」
「ノアとセシルは最初から名前」
「同級生だからね」
「クロフォード先輩だけ長い」
ルシアンは吹き出した。
「そこ?」
「長くない?」
「確かに」
「でも本人何も言わないから」
「言えないんじゃないかな」
「なんで?」
「さあ」
「また知ってる顔」
「どんな顔?」
「私が知らないこと知ってる顔」
ルシアンは笑うのをやめた。
「嫌い?」
「前は嫌だった」
「今は?」
「まだちょっと嫌」
「ちょっとになったんだ」
「前より話してくれるから」
「……そう」
ルシアンは開いた本へ視線を落とした。
「じゃあ、一つだけ教えようか」
「何?」
「この術式についてじゃない。僕について」
リリアが瞬く。
「ルシアン先輩について?」
「君は僕を、何でも知ってる人だと思ってるだろう?」
「違うんですか?」
「違うよ」
即答だった。
「知らないことの方が多い」
「例えば?」
「今の君が明日何を食べたいと思うか」
「苺」
「それは知ってた」
「じゃあ他」
「君が誰を好きになるのか」
リリアは黙った。
「それも知ってると思ってた」
「どうして?」
「何でも知ってそうだから」
「それだけは知らない」
ルシアンは静かに言った。
「知りたくても、知れない」
「……そうなんだ」
「うん」
「じゃあ普通ですね」
「僕が?」
「恋愛のこと分からないなら」
「随分な基準だな」
「私も分からないから」
リリアは本を閉じた。
「セシルが、急がなくていいって言ってました」
「アルヴェインが?」
「うん。誰かに好きって言われたからでも、昔からそうだったからでもなくて、私が好きだって思った時に分かればいいって」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、その言葉をゆっくり受け止めるように目を伏せた。
「……彼女は強いね」
「剣?」
「そっちじゃない」
「?」
「いいことを言うなと思って」
「私もそう思った」
「リリア」
「はい」
「その言葉、忘れないで」
「忘れません」
「誰かが君に、昔はこうだったとか、運命だからとか、そういうことを言っても?」
リリアは首を傾げた。
なぜそんなことを聞くのだろう。
けれど答えは簡単だった。
「関係ないです」
「……」
「昔の私が誰を好きだったとしても、今の私が好きじゃなかったら意味ないでしょ?」
ルシアンは黙った。
「違う?」
「いや」
彼は笑った。
いつもの、何かを知っている笑い方ではなかった。
少しだけ寂しくて。
それでも、どこか安心したような笑顔だった。
「正しいよ」
「ならよかった」
「……本当に、君は」
「何?」
「いや」
「また途中でやめる」
「これは秘密じゃないよ」
「じゃあ言って」
ルシアンは少し考えた。
「君を知るのは、思っていたより楽しい」
リリアが瞬く。
「今さら?」
「今さらなんだ」
「変なの」
「そうだね」
「私もルシアン先輩のこと知りたいですよ」
「……僕を?」
「だって私ばっかり知られてるの、ずるい」
「理由が君らしいな」
「好きな食べ物は?」
「いきなりそこ?」
「クロフォード先輩にも聞いた」
「また彼か」
「肉だって」
「想像通りすぎる」
「ルシアン先輩は?」
「珈琲」
「食べ物じゃない」
「じゃあ、甘くないもの」
「広い」
「君みたいに苺一択じゃないんだよ」
「苺以外も食べます」
「知ってる」
「また知ってる」
「あ」
ルシアンが笑う。
「癖だね」
「直してください」
「努力するよ」
「じゃあ今度、一緒に何か食べましょう」
「……僕と?」
「知りたいから」
「好きな食べ物を?」
「それも」
ルシアンはしばらくリリアを見ていた。
「いいよ」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「今度は僕が君を連れていく」
「迷わないところにして」
「僕と一緒なら迷ってもいいだろう?」
「よくない」
「即答だね」
「帰れなくなる」
「ちゃんと連れて帰るよ」
「ならいいです」
「いいんだ」
「はい」
ルシアンは小さく笑った。
彼女は知らない。
自分がどれほど長い時間を背負っているのかも。
彼女によく似た誰かを、かつてどんな目で見ていたのかも。
それでも今、リリアは目の前の自分を知りたいと言った。
過去ではなく。
役割でもなく。
ただ、ルシアンという人間を。
「リリア」
「何ですか?」
「次に会う時も、今みたいに呼んで」
「ルシアン先輩?」
「ああ」
「いいですよ」
あっさりした返事だった。
けれど、それでいい。
「じゃあ帰ろうか」
「送ってくれる?」
「もちろん」
「よかった。ここから一人だと帰れない」
「やっぱり?」
「研究塔、遠い」
「距離の問題かな」
「たぶん」
「絶対違うと思うけど」
ルシアンが立ち上がる。
リリアもその隣へ並んだ。
机の上には、十二本の線を持つ魔法陣が残っている。
十二回。
リリアが何気なく口にした言葉。
その意味を、彼女はまだ知らない。
今は、それでいい。
過去が彼女を追いかけてくるのなら、いつか向き合わなければならない日は来る。
けれど。
彼女の未来まで、過去に決めさせる必要はない。
「ルシアン先輩」
「何?」
「明日も研究します?」
「嫌?」
「嫌じゃない。でも普通のこともしたい」
「普通?」
「ご飯食べたり」
「さっきの約束?」
「うん」
「……じゃあ明日は研究を休もうか」
「いいの?」
「たまにはね」
「じゃあ一緒に食べる?」
「いいよ」
リリアは満足そうに頷いた。
「約束」
「ああ。約束だ」
二人で研究室を出る。
背後で扉が閉まった。
十二本の線も、黒い石も、まだそこにある。
けれど今のリリアが知りたいものは、それだけではなかった。
セシルの好きなもの。
ノアが笑顔の奥で何を考えているのか。
レオン先輩が王子ではない時にどんな顔をするのか。
アレンがどうして時々、ずっと待っていたようなことを言うのか。
クロフォード先輩が猫以外に何を好きなのか。
そして、ルシアン先輩が何を知らないのか。
知りたいと思う相手が、増えている。
その気持ちが友情なのか、好奇心なのか、それともいつか別の名前になるのか。
今はまだ、決めなくていい。
リリアはそう思いながら、ルシアンの隣を歩いた。
今度は、迷わなかった。