魔法より、君に恋をする。

第三十四章 私の名前

翌日の昼休み、リリアは食堂のいつもの席でスープを飲みながら、昨夜ほとんど眠れなかった原因である六人を順番に眺めていた。

 ノアはパンを食べながらセシルと何か話している。アレンはその会話に時々口を挟み、カイルはうるさそうな顔をしながらも席を離れない。レオンハルトはそんな四人を楽しそうに眺め、ルシアンは本を読みながら器用に食事をしていた。

 いつの間にか、七人で昼食を取ることが当たり前になっている。

「リリア、さっきから静かだけど眠い?」

 ノアに声をかけられ、リリアはスープから顔を上げた。

「眠い」

「やっぱり」

「でもノアのせいでもある」

「僕?」

「昨日、考えてた」

「何を?」

「休日」

 ノアが固まった。

 隣でアレンが眉を寄せる。

「休日?」

「ノアと出かける」

「は?」

「二人で」

「聞いてねえぞ!」

「言ってないから」

「何で言わねえんだよ!」

「言う必要ある?」

「……ねえけど!」

「じゃあいいじゃん」

「よくねえ!」

「どっち?」

「アレン先輩、面倒くさいね」

 セシルがさらりと言う。

「アルヴェイン、お前最近俺に厳しくねえか!?」

「普通です」

「絶対嘘だろ!」

 アレンが騒ぎ始める横で、リリアはレオンハルトが笑っていることに気づいた。

「レオン先輩」

「うん?」

「レオン先輩とも散歩する」

「覚えててくれたんだ」

「約束したから」

「それなら楽しみにしてる」

「……おい」

 アレンの声が低くなる。

「何?」

「俺とは?」

「昨日ご飯食べた」

「そういう話じゃねえ!」

 今度はノアが笑い始めた。

「アレン、分かりやすいなあ」

「うるせえ!」

 リリアは首を傾げた。昨日から、みんな妙だった。正確には、自分も妙だった。誰かと話すたびに胸が変になって、その理由を考え始めると別の誰かの顔が浮かぶ。結局ほとんど眠れなかった。

「……恋って面倒」

 思わず呟くと、六人が一斉に止まった。

「え?」

 リリアが顔を上げる。

 ノアは口元を押さえている。アレンは露骨に視線を逸らし、カイルは眉間を押さえた。レオンハルトは驚いた顔のあとで笑い、ルシアンは眼鏡の奥からじっとこちらを見ている。

 セシルだけが、少し嬉しそうだった。

「やっとそこまで来たんだね」

「どこ?」

「そこ」

「分からない」

「それでいいよ。急がなくて」

「みんなそれ言う」

「だって、急がせたくないから」

 セシルの言葉に、今度は誰も茶化さなかった。

 リリアはスプーンを置いた。六人が自分に何かを待っている。それくらいは、もう分かっている。

 でも、それが怖いとは思わなかった。

 ただ、まだ分からない。

 誰といる時の胸の音を、恋と呼べばいいのか。

     *

 午後の授業が終わった頃、リリアの机に一枚の紙が届いた。

《放課後、生徒会室へ。見つかった。――ルシアン》

 短い。

 けれど、その最後の一言を見た瞬間、リリアには何のことか分かった。

「セシル」

「うん?」

「今日、生徒会室行ってくる」

「ルシアン先輩?」

「うん」

 セシルは紙を見なかった。ただ、リリアの顔を見て頷いた。

「分かった。先に寮へ戻ってるね」

「聞かないの?」

「聞いてほしい?」

「……今はまだ」

「じゃあ聞かない」

 その答えが嬉しくて、リリアは笑った。

「あとで話す」

「うん。待ってる」

     *

 生徒会室へ行くと、ルシアンは一人だった。

「来たね」

「見つかった?」

「うん」

 机の上には、見覚えのある古い記録が置かれている。

 リリアは向かいの椅子へ座った。

「名前?」

「名前」

「私の?」

「おそらく」

「おそらく?」

「この記録を全面的に信用するなら、という意味だよ」

「じゃあ見せて」

 ルシアンはすぐには本を開かなかった。

「その前に、一つだけ確認したい」

「何?」

「知ったあとでも、今の名前を使い続けていい。新しい名前を選んでもいい。両方使ってもいいし、どちらも選ばなくてもいい」

「うん」

「記録に書かれているからといって、それに従う必要はない」

 リリアは少し笑った。

「ルシアン先輩、心配しすぎ」

「そうかな」

「私が記録に人生決めさせると思う?」

 ルシアンも笑った。

「思わないね」

「なら見せて」

 今度こそ、古い本が開かれた。

 何枚か頁を捲った先。

 リリアは文字を見る。

《独立個体識別名――ELICIA》

「……エリシア」

 声に出した。

 不思議な響きだった。

 知らない名前のはずなのに、完全に知らないものには思えない。

「エリシア」

 もう一度。

 自分の名前かもしれないものを、自分で呼んでみる。

「どう?」

 ルシアンが聞く。

「変」

「嫌?」

「嫌じゃない」

 リリアは文字を指でなぞらず、ただ眺めた。

「綺麗」

「うん」

「私っぽい?」

「それを僕に聞く?」

「聞いてる」

 ルシアンは少し考えた。

「似合うと思うよ」

「そっか」

 それだけで、少し嬉しかった。

「でも」

「うん」

「リリアも好き」

「そう言うと思った」

「十五年使ってるから」

「君が生きてきた十五年は、記録が何を書いていても消えないよ」

 リリアは頷いた。

 第一のリリアとは違う。十二回繰り返された誰かとも違う。けれど、だからといって今日までの自分まで別人になるわけではない。

「じゃあ、私はリリア・アステルで、エリシアでもある?」

「欲張りだね」

「前にも言われた」

「僕が言った」

「そうだっけ」

「酷いな」

「でも、それがいい」

 リリアはもう一度、《ELICIA》を見る。

「今すぐ名前を変えるとかじゃなくて、これも私の名前として持ってたい」

「うん」

「誰かに決めてもらったからじゃなくて、私がそうしたいから」

「それが一番いい」

 ルシアンは頁を捲った。

「それから、もう一つある」

「何?」

 そこには、さらにいくつかの記録が浮かんでいた。

《第一個体との魂魄連続性――なし》

《再構築個体との魂魄連続性――なし》

 リリアはゆっくり読んだ。

「本当に、別なんだ」

「ああ」

「最初のリリアとも?」

「魂そのものは別だ」

「十二回のリリアとも?」

「少なくとも、この記録はそう示している」

 胸の中で、何かが静かにほどけていった。

 悲しいわけではない。

 嬉しいとも少し違う。

 ただ、ずっと自分の背後に立っていた知らない誰かが、ようやく少し離れてくれたような気がした。

「じゃあ、みんなが好きだった人は私じゃない」

 ルシアンの目が僅かに揺れる。

「過去に関して言えば、そうだね」

「ルシアン先輩が愛してた人も」

「ああ」

 今度は胸が痛まなかった。

 ほんの少しだけ、もやっとはした。

 それが何なのかは、もう薄々分かっている。

「でも」

 リリアはルシアンを見る。

「今の私といる時に笑ったり、怒ったり、楽しいって思ったりするのは?」

「今の君とのものだよ」

「そっか」

 それならいい。

 そう思った自分に、リリアは少し驚いた。

「もう一個」

「まだあるよ」

 最後の頁。

《存在目的――未定義》

「……未定義?」

「君には、最初から与えられた存在目的がない」

「普通じゃない?」

「普通の人間ならね。でも、この記録がわざわざそれを残していることに意味がある」

「最初のリリアにはあった?」

「世界を存続させること」

「十二回の人たちも?」

「再構築の目的から逃れることはできなかった」

「じゃあ私は?」

「何もない」

 ルシアンは静かに言った。

「世界を救うために生まれたわけでもない。誰かを愛するためでもない。誰かに愛されるためでもない」

「……自由?」

「僕はそう解釈してる」

 リリアは頁を見つめた。

 存在目的、未定義。

 何をするか決まっていない。

 誰と生きるかも決まっていない。

 それは、少し怖い。

 でも。

「いいね」

 自然と笑った。

「そう?」

「うん。私、命令されるの嫌い」

「知ってる」

「世界にされるのも嫌」

「それも君らしい」

「じゃあ、全部自分で決めていいんだ」

「最初からね」

「……そっか」

 リリアは本を閉じた。

「私、エリシアって名前も好き」

「うん」

「でも今はリリアでいたい」

「うん」

「いつか変えたくなったら変える」

「それでいい」

「あと」

 リリアは少し考えた。

「誰を好きになるかも、自分で決める」

 ルシアンは一瞬だけ目を見開いたあと、穏やかに笑った。

「それは、僕には少し怖い宣言だね」

「なんで?」

「僕が選ばれる保証がないから」

「……」

 あまりにも普通に言われて、リリアの頬が熱くなる。

「ルシアン先輩も入ってるの?」

「何に?」

「……候補」

「入れてくれてなかったの?」

「分かんない」

「それは傷つくな」

「嘘」

「半分くらいは本当」

「ずるい」

「君に言われたくないよ」

 リリアは笑った。

 ルシアンも笑った。

 それでよかった。

 昔のリリアが彼を愛していたからではなく、今の自分が彼と話して笑っている。

 それだけで、今は十分だった。

     *

 生徒会室を出ると、外は夕暮れだった。

 廊下を歩きながら、リリアは六人のことを考えた。

 ノアといると、楽しい。軽口を叩いているのに、時々ひどく真剣な目で見つめられると落ち着かなくなる。彼が自分のために死ぬことを当然だと思っていたと知った時は怖かったし、もうそんなことをしてほしくないと思った。

 レオンハルトといると、安心する。王子なのに、二人の時には普通の少年みたいに笑うところが好きだった。彼が過去を覚えていないことに、どこかほっとしている自分もいる。今の自分だけを見てもらえるような気がするから。

 アレンといると、騒がしい。でも楽しい。喧嘩みたいな会話ばかりなのに、一緒にいると妙に気が楽だった。二人の時だけ「アレン」と呼ぶと嬉しそうにする顔を、また見たいと思ってしまう。

 カイルといると、少し緊張する。怖そうなのに猫には優しくて、たまに笑うともっと見たくなる。手首を掴まれた時の熱を思い出しただけで、今もそこが妙に意識された。

 ルシアンといると、知りたくなる。彼の知っている世界も、彼自身のことも。最初のリリアを愛していたと聞いた時に感じた嫌な気持ちが嫉妬だったのだと、今なら少しくらい認めてもいい気がした。

 セシルといると、自然だった。一番近くにいることが当たり前で、だからこそ、その距離が変わることを想像すると胸が騒ぐ。髪に触れられた時の指先も、「親友だけでいたいわけじゃない」と言われた声も、まだはっきり覚えている。

 六人とも大切だった。

 でも。

「……同じじゃない」

 リリアは足を止めた。

 ようやく分かった。

 六人とも大切。でも、同じ意味で大切なんじゃないことだけは、もう分かってる。

 なら。

 その違いを、これから知ればいい。

     *

 女子寮へ戻ると、入口でセシルが待っていた。

「おかえり」

「ただいま」

「分かった?」

「うん」

「話せる?」

「話したい」

 二人で部屋へ向かいながら、リリアは今日知ったことを話した。

 エリシアという名前。

 第一のリリアとは別の魂であること。

 自分には、世界から与えられた目的がないこと。

 セシルは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。

「エリシア」

 話し終えると、セシルがその名前を呼んだ。

 リリアは思わず足を止めた。

「……変」

「嫌だった?」

「違う。初めて人に呼ばれた」

「そっか」

 セシルは少し笑った。

「綺麗な名前だね」

「ルシアン先輩も言ってた」

「……それ今言う?」

「なんで?」

「何でもない」

「今日、何でもない禁止」

「まだ続いてたの?」

「うん」

 セシルは困ったように笑った。

「じゃあ、ちょっと悔しい」

「何が?」

「最初に言いたかった」

「セシルが初めて呼んだよ」

「え?」

「ルシアン先輩は『似合う』って言っただけ。エリシアって私に向かって呼んだのは、セシルが初めて」

 灰青の瞳が大きくなる。

 それから、セシルは本当に嬉しそうに笑った。

「じゃあ、それは私のものにしていい?」

「何を?」

「初めてあなたをエリシアって呼んだ人」

「……いいよ」

「ありがとう」

 また胸が鳴った。

 最近、本当に忙しい。

     *

 夜。

 ベッドへ入ったリリアは、枕元に一枚の紙を置いた。

 六人の名前。

 選ぶために書いたわけではない。

 順位をつけるつもりもなかった。

 ただ、書いてみたかった。

 ノア・フェルディナンド。

 レオンハルト・エル・グランツ。

 アレン・ヴァーミリオン。

 カイル・クロフォード。

 ルシアン・ノクス。

 セシル・アルヴェイン。

 六人の名前を見ながら、リリアは考えた。

 誰が一番優しいか。

 誰が一番強いか。

 誰が一番自分を好きか。

 そんなことでは、たぶん決められない。

 恋は試験ではないから。

「……難しい」

 呟いて、紙を裏返す。

 今夜答えを出す必要はない。

 明日。

 その次の日。

 もっと話して、もっと知って、自分の胸が何を望むのかを確かめればいい。

 けれど眠る直前、リリアの頭に一つだけ問いが浮かんだ。

 もし明日、授業も約束も何もなくて。

 誰のところへ行ってもいいとしたら。

 理由なんてなくてもいいから、ただ会いたい人を一人だけ選ぶとしたら。

 ――私は、誰に会いたい?

 リリアは目を閉じた。

 答えはまだ、物語の中にはなかった。

 ここから先は。

 彼女が選んだ数だけ、未来がある。

共通ルート 終
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