魔法より、君に恋をする。
ノアルート 第44章 選ばないという選択
目を閉じたままのリリアを腕に抱き、ノアは黒い月を見上げていた。
『十二の世界を忘れろ。それならば、今のリリアを返してやる』
声は穏やかだった。脅しているというより、むしろ慈悲深い提案をしているようにさえ聞こえる。それが余計に腹立たしかった。
腕の中のリリアは眠っているように静かで、呼吸もある。頬に触れれば温かい。それなのに何度名前を呼んでも目を開けない。
「……記憶を消せば、本当に返すの?」
「ノア」
ルシアンが制止するように名前を呼んだが、ノアは黒い月から目を逸らさなかった。
『無論』
「僕が忘れるのは、どこからどこまで?」
『十二の再構築世界に関する全てだ。そこで得た記憶も、感情も、後悔も、お前が愛したリリアも』
「今のリリアのことは?」
『残る。これは十三番目に属する記憶だからな』
それなら、と考えてしまった。
ほんの一瞬だった。
過去を全部差し出せば、今の彼女が戻ってくる。十二回の記憶が消えたところで、今のリリアを好きになった事実は残る。彼女と初めて街へ出た日も、自分からではなく彼女の方から手を握ってくれた朝も、怪我をした自分に本気で怒った顔も、恋人になった日の言葉も消えない。
それなら、いいのではないか。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが強く軋んだ。
忘れていいはずがない。
十二の世界で出会った彼女たちは、今のリリアではない。それでも、存在しなかったことにはならない。笑った日も、喧嘩した日も、届かなかった言葉も、守れなかった命も、全部確かにあった。
「……ずるいな」
『何?』
「僕が今まで一番やりたかったことを、交換条件にするんだね」
忘れたいと思ったことは何度もある。目の前で死んでいく彼女を見なくて済むなら、何も知らなかった頃へ戻りたいと願った夜もあった。今のリリアと出会ってからでさえ、過去を知らなければもっと普通に彼女を好きになれたのではないかと思ったことがある。
けれど、それを自分以外の何かに奪われるのは違う。
「断る」
黒い月が僅かに揺れた。
『今のリリアを失っても?』
「失わない」
『選択肢は二つだ』
「それを決めるのはお前じゃない」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「過去を捨てて今を取るか、過去を抱えて今を失うか。そんな二択を、僕はもう選ばない」
『選ばなければ、その器は戻らない』
「器じゃない。リリアだ」
ノアは腕の中の少女を抱き直した。
「それに、僕一人で決めたら怒られる」
つい先日、怪我をした時に言われたことを思い出す。どうしてノアが決めるの、と。私よりノアが怪我する方がいいって、なんで勝手に決めるの、と。
あの時、自分はようやく知ったのだ。
彼女を愛することと、彼女の代わりに決めることは違う。
「今のリリアを助けるために僕の過去を差し出すかどうかは、僕だけの問題じゃない。少なくとも、あの子なら勝手に決めるなって言うよ」
『ならば目覚めさせてみろ』
「そのつもり」
『できるものなら』
声に初めて苛立ちが混じった。
その瞬間、ルシアンが顔を上げた。
「ノア、そのまま話を続けろ」
「え?」
「今、接続が揺れた」
机いっぱいに広げられた術式の一部が淡く光っている。ルシアンは高速で式を書き換えながら、アレンとカイルへ指示を飛ばした。
「アレン、北側の魔力線を切れ。カイルは僕の術式へ魔力を流してくれ。レオンはリリアの身体を中心に結界を張る」
「俺は?」
セシルが問う。
「ノアを殴る準備を」
「なんで僕!?」
「変な自己犠牲に走った時の保険だ」
「それなら任せて」
「セシルまで!?」
思わず声を上げたノアに、セシルは薄く笑った。
「リリアに頼まれてはいないけど、たぶん喜ぶよ」
こんな状況なのに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
ノアは腕の中のリリアを見る。
「……聞こえてるなら、早く帰ってきてよ」
返事はない。
それでも、今度は待つだけではなかった。
*
白い空間で、リリアは第一リリアの記録と向かい合っていた。
同じ銀白色の髪。同じ紫色の瞳。それなのに、しばらく話しているうちに、もう自分と似ているとはあまり思わなくなっていた。
表情の作り方が違う。声の柔らかさも、笑う時に少しだけ目を伏せる癖も、自分にはないものだった。
「ねえ」
『なに?』
「ルシアン先輩に告白したんだよね」
少女が少し困ったように笑った。
『したよ』
「振られた?」
『振られた』
「悲しかった?」
『すごく』
「それでも好きだった?」
『うん』
即答だった。
リリアは少し考える。
「ノアとは?」
今度は返事が遅かった。
『世界によって違う』
「どういうこと?」
『私の記録は、一人分だけじゃないから』
少女が自分の胸へ手を置いた。
『第一の私を元にして作られた十二のリリア。その記録も、ここには混ざっている。ノアを愛した私もいる。レオンを選んだ私も、アレンを選んだ私も、カイルを選んだ私もいる。ルシアンを追い続けた私もいる』
「……セシルは?」
『いない』
「そっか」
『寂しい?』
「ちょっと。でも、なんか嬉しい」
『どうして?』
「セシルと私のことは、本当に今しかないんだなって」
少女は目を細めた。
『あなたは、本当に変わってる』
「よく言われる」
『褒めてるよ』
「ならありがとう」
二人で少し笑った。
やがてリリアは、ずっと気になっていたことを口にした。
「あなたは、誰になりたいの?」
『え?』
「第一リリア? 十二回の誰か? それとも全部?」
『私は記録だよ』
「それ、さっきも聞いた」
『事実だから』
「でも私の身体を欲しくないって言った」
少女が黙る。
「それって、記録に書いてあった答え?」
『……分からない』
「じゃあ自分で考えたんじゃない?」
『私に自分なんてない』
「あるかもしれない」
『ないよ』
「なんで決めるの?」
少女が初めて強い目でリリアを見た。
『私はあなたを消すために作られた偽物なの』
「だから?」
『だから……』
「作られた目的どおりに生きなきゃ駄目なの?」
その言葉を口にした瞬間、リリア自身が少し驚いた。
自分も同じだった。
存在目的――未定義。
誰かを救うためでも、誰かを愛するためでも、世界を維持するためでもない。
目的がないことを、自由だと思った。
「私も、何のために生まれたか分からなかったよ」
少女がリリアを見る。
「でも今は、それでよかったと思ってる。ノアを好きになったのも、学院に来たのも、セシルと友達になったのも、全部あとから決めたから」
『私は違う』
「同じじゃなくていいよ」
リリアは一歩近づいた。
「あなたも決めれば?」
『何を?』
「どうしたいか」
少女の顔が歪んだ。
『そんなことをしたら、私は……』
声が震える。
『私は、何になるの?』
「知らない」
『……』
「自分で決めたら?」
しばらく、何も聞こえなかった。
白い空間の中で、少女は俯いている。
やがて、小さな声が落ちた。
『……消えたくない』
リリアは目を見開いた。
『あなたを消したくない。でも、私も消えたくない』
それは第一リリアの言葉ではない。
十二のリリアの誰かの言葉でもない。
今ここにいる、この存在自身の言葉だった。
「じゃあ」
リリアは手を差し出した。
「一緒に考えよ」
少女が顔を上げる。
『……私も?』
「うん」
『あなたの身体を奪うために作られたのに?』
「奪わないんでしょ?」
『……うん』
「じゃあいい」
『そんな簡単に……』
「難しくした方がいい?」
少女は呆然として、それから初めて声を上げて笑った。
『あなた、本当に変』
「だからよく言われるって」
差し出した手。
少女は長い間それを見つめてから、恐る恐る手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、白い世界に亀裂が走った。
*
「反応した!」
ルシアンの声が響いた。
リリアの胸元から銀色の光が溢れ、十三本目の線が一気に伸びていく。
「何が起きてる!?」
アレンが叫ぶ。
「分からない。ただ、リリアが中で何かを選んだ!」
ノアは息を呑んだ。
「リリア」
呼ぶ。
瞼は閉じたまま。
けれど、さっきまで冷たかった指先が僅かに動いた。
「……聞こえる?」
もう一度呼ぶ。
「リリア」
指が、ノアの制服を掴んだ。
「……ノア」
掠れた声。
「リリア!」
青紫の瞳がゆっくり開く。
「うるさい」
「ごめん」
「近い」
「ごめん」
「……でも、そのままでいい」
ノアは息を吐いた。胸の奥に詰まっていたものが、一気にほどけていく。
「おかえり」
「ただいま」
それだけだった。
それだけなのに、ノアはしばらく何も言えなかった。
リリアは周囲を見回す。
「みんないる」
「いるよ」
レオンハルトが微笑む。
「よかった」
「何があった?」
カイルが聞く。
「第一リリアに会った」
空気が変わった。
「本物ではないです。記録から作られた人」
ルシアンが息を呑む。
「彼女は?」
「私の身体いらないって」
「……自我を持ったのか?」
「たぶん」
リリアは少し考えてから付け足す。
「消えたくないって言ってました」
ルシアンの顔から血の気が引いた。
「それはまずい」
「なんで?」
「偽神が作った再現体が、偽神の命令から外れた」
「いいことじゃないの?」
「僕たちにとってはね」
ルシアンが窓を見る。
「向こうにとっては、二度目の反逆だ」
第一リリアは器として作られ、自我を持った。
そして今。
第一リリアの記録から作られた再現体まで、自分で生きたいと願った。
「偽神って、人作るの下手?」
リリアが聞く。
アレンが吹き出した。
「お前それ本人に言ってやれ」
「次来たら言う」
「やめろ。絶対怒る」
「もう怒ってるんじゃない?」
「それもそうだな」
けれどルシアンだけは笑わなかった。
「おそらく、次は会話では済まない」
部屋の空気が再び引き締まる。
「十三本目は?」
セシルが聞く。
リリアが胸元を確認する。
線は大きく伸びていた。
しかし。
「まだ足りない」
ルシアンが呟く。
「何が?」
「最後の部分だけが繋がっていない」
十三本目の先にある新しい円。
あと僅か。
ほんの僅かな空白。
「最後の選択が必要なんだ」
「何を選べばいいんですか?」
「それが分からない」
リリアは溜息をついた。
「またそこ」
「すまないね」
「ルシアン先輩、肝心なところいつも分からない」
「世界の説明書を僕が書いたわけじゃないんだ」
「管理者なのに」
「元管理者だ」
「便利な言葉」
「君にだけは言われたくない」
いつものやり取りに戻る。
けれどノアは笑えなかった。
リリアが目を覚ます直前、黒い月の声が最後に残した言葉があった。
他の誰にも聞こえていなかったらしい。
『次は、お前の命で選ばせる』
ノアはその言葉を、まだ誰にも言っていなかった。
*
夜。
ノアはリリアを女子寮まで送った。
いつもなら門の前で別れる。今日はそこまで来ても、ノアはなかなか手を離さなかった。
「ノア」
「うん」
「今日、変」
「そう?」
「うん」
リリアは繋いだ手を見る。
「ずっと強い」
「……ごめん」
力を緩める。
「離さなくていい」
「うん」
「何かあった?」
「何も」
「嘘」
即答だった。
ノアは苦笑する。
「分かるようになった?」
「ちょっと」
「恋人だから?」
「たぶん」
リリアはノアの顔を見上げた。
「言いたくない?」
「……怖がらせたくない」
「じゃあ怖いことなんだ」
「リリア」
「私に関係ある?」
黙ってしまった。
それだけで答えになった。
「言って」
「……黒い月が言ったんだ」
ノアは観念した。
「次は僕の命で、君に選ばせるって」
リリアの表情が消えた。
「どういう意味?」
「分からない。でも、たぶん次は僕を使う」
「人質?」
「かもしれない」
「ノアを殺す?」
「可能性はある」
リリアの手が強くなる。
「嫌」
「うん」
「絶対嫌」
「うん」
「だったらなんで黙ってたの?」
「怖がると思ったから」
「今も怖いよ」
「……ごめん」
「でも知らない方が嫌」
リリアは俯き、しばらく繋いだ手を見ていた。
「ノア」
「うん」
「もし私かノア、どっちかしか助からないって言われたらどうする?」
答えは。
身体の中に染みついている。
リリアを選ぶ。
自分を捨てる。
考えるまでもない。
でも。
それを言ったら。
彼女は怒る。
「……分からない」
「本当?」
「前なら即答できた」
「私?」
「うん」
ノアは正直に答えた。
「君を生かすためなら、自分が死ぬのなんて何とも思わなかった」
「今は?」
「死にたくない」
口にしてみると。
思った以上に怖かった。
「……僕、死にたくないよ」
十二回。
何度も。
彼女のためなら死ねると思った。
それを愛だと思っていた。
今は違う。
「君と卒業したいし、またデートしたい。来年も君の誕生日を祝いたいし、卒業したあと君がどこに行くのかも知りたい。もっと先も……見たい」
リリアは黙って聞いていた。
「だから死にたくない。でも、君が死ぬのも嫌だ」
「うん」
「どっちかなんて選べない」
「じゃあ選ばなくていい」
迷いのない声だった。
「また?」
「また」
「偽神、同じことばっかりするね」
「選ばせるの好きなんじゃない?」
「趣味悪い」
「うん」
リリアが一歩近づく。
肩に額が触れた。
抱きしめるわけでも、キスをするわけでもない。ただそこに寄りかかる。
「ノア」
「うん」
「死にたくないって言ってくれてよかった」
「……そう?」
「うん」
リリアの声は小さい。
「私のためなら死んでもいいって言われるより、ずっと嬉しい」
ノアは目を閉じた。
昔の自分なら理解できなかっただろう。
命を差し出すことこそ、最大の愛情だと思っていたから。
「リリア」
「何?」
「僕、生きたい」
「うん」
「君と」
少し間があって。
「私も」
返ってきた。
ノアは繋いだ手を握り直した。
今度は、失わないためではない。
一緒に歩くために。
*
深夜。
学院地下。
誰もいないはずの封印区画で、黒い石が一斉に光った。
一つ。
二つ。
三つ。
十二。
十二個の石が円を描く。
その中央。
何もなかった場所へ。
十三個目の黒い石が現れた。
表面に刻まれているのは、これまでと違う文字だった。
《最終選択》
そしてその下に。
二つの名前。
《LILIA》
《NOAH》
黒い月が、空に現れる。
今度は。
学院だけではなかった。
王都全域から。
その姿が見えていた。