魔法より、君に恋をする。
レオンハルトルート 第37章 知らない記憶
その夜、レオンハルトは夢を見た。
知らない部屋だった。
豪奢な調度品が並び、大きな窓には重いカーテンが掛けられている。王宮の一室に似ている気はするが、少なくとも今の彼には見覚えがない。
窓辺に、一人の少女が立っていた。
銀白色の長い髪。振り返った瞳は、青みを帯びた紫色だった。
リリア。
そう思ったのに、名前を呼べなかった。
彼女の顔が、今のリリアとは違って見えたからだ。
『外に出たい』
少女が言った。
『今日は駄目だ』
自分の声が返す。
『昨日もそう言った』
『危険なんだ』
『明日も?』
『……分からない』
『じゃあ、いつならいいの?』
答えられない。
少女は怒らなかった。ただ悲しそうに目を伏せた。
『レオンは、私を守りたいんだよね』
『もちろんだ』
『でも私は、ここにいたくない』
その言葉に、胸が痛んだ。
それでも夢の中の自分は扉を開けなかった。
彼女を失うくらいなら、嫌われてもここに置く。
そんな感情が、自分のもののように流れ込んでくる。
『ごめん』
自分が言う。
『君を外には出せない』
少女の瞳から涙が落ちた。
そこで、レオンハルトは目を覚ました。
「……っ」
勢いよく身体を起こした瞬間、呼吸が乱れた。額に汗が滲んでいる。
部屋は暗い。見慣れた学院の宿舎だった。
夢。
そう思おうとした。
けれど、胸の奥にはあまりにも生々しい感情が残っていた。
彼女を守りたい。
失いたくない。
だから閉じ込める。
「……僕が?」
そんなことをするはずがない、と否定したかった。
けれど同時に、あれがただの夢ではないことも分かっていた。
知らないはずなのに知っている。
あの部屋も。
泣いていた少女も。
扉に鍵を掛けた自分の手も。
レオンハルトは震える手で顔を覆った。
*
翌朝、リリアはレオンハルトを見つけるまでに、昨日より少し時間がかかった。
昼休みになってもいつもの場所に来ない。
「レオン先輩、今日いないですね」
何気なく言うと、向かいにいたアレンがパンを齧りながら眉を上げた。
「朝は見たぞ」
「どこで?」
「二年の教室」
「今は?」
「知らねえよ。俺をあいつの監視役だと思ってんのか」
「同じ学年だから知ってるかと」
「お前、最近あいつのことばっか聞くな」
言われて、リリアは少し考えた。
「そうかも」
「否定しろよ」
「なんで?」
「……もういい」
アレンが疲れたように目を逸らす。その隣でノアは何も言わず、飲み物の入ったカップを弄っていた。
セシルがリリアを見る。
「探しに行く?」
「うん」
立ち上がると、カイルが口を開いた。
「図書塔の上階」
「え?」
「さっき見た」
「ありがとうございます」
リリアはそのまま歩き出した。
「迷うなよ」
背後からアレンの声が飛んでくる。
「図書塔くらい分かります」
「昨日、第二講義棟行くのに三十分かかっただろ!」
「昨日は昨日です!」
言い返してから角を曲がり、しばらく歩いたところで、リリアは足を止めた。
「……こっちだっけ」
結局、図書塔へ辿り着くまで二十分かかった。
*
最上階近くの閲覧室は静かだった。
窓際の席に、レオンハルトが一人で座っている。机には本が開かれているものの、読んでいる様子はない。
「レオン先輩」
呼びかけると、肩が僅かに揺れた。
「リリア?」
「いました」
「僕を探してたの?」
「はい」
その返事に、いつもなら少し嬉しそうに笑うはずだった。
今日は違った。
「……どうして?」
「会いたかったから」
「昨日も会ったよ」
「昨日会ったら今日は会っちゃ駄目ですか?」
「そういう意味じゃない」
レオンハルトは視線を落とした。
明らかに様子がおかしい。
リリアは向かいの椅子を引いて座った。
「何かありました?」
「何もないよ」
「嘘」
「即答だね」
「昨日までと違うから」
レオンハルトが苦笑する。
「そんなに分かりやすい?」
「私には」
言ってから、それが少し特別な言葉に聞こえた。
レオンハルトもそう感じたのか、青い瞳が一瞬こちらへ向く。
「……困ったな」
「最近よく言いますね」
「君といると困ることが増えた」
「嫌ですか?」
「逆だよ」
昨日と同じ答え。
それでも、笑顔はすぐ消えた。
リリアは少し待った。
話したくないなら無理に聞くつもりはない。ただ、今ここから帰る気にもならなかった。
「ここにいていいですか?」
「授業は?」
「次、空きです」
「僕も」
「じゃあいます」
「僕が話さなくても?」
「はい」
「どうして?」
「一緒にいたいから」
レオンハルトが黙った。
リリアは鞄から教科書を取り出した。昨日出された課題が残っている。向かいにレオンハルトがいる状態で問題を解き始めると、数分後、小さな笑い声が聞こえた。
「何ですか?」
「いや。君は本当にそのままだなと思って」
「何が?」
「僕がこんな顔をしてるのに、隣で普通に課題を始めるところ」
「話したくなったら話すかなって」
「話さなかったら?」
「課題が終わります」
「合理的だね」
「大事です」
ようやく、少しだけいつもの笑顔になった。
それからしばらくして、レオンハルトが口を開いた。
「夢を見たんだ」
リリアはペンを置いた。
「どんな?」
「君がいた」
「私?」
「たぶん、君じゃない」
その言葉だけで、何の話か分かった。
「昔のリリア?」
「そうだと思う」
レオンハルトは昨夜見た夢を話した。王宮らしい部屋。外へ出たいと言う少女。彼女を閉じ込めている自分。
最後まで聞いてから、リリアは尋ねた。
「それ、本当にあったことだと思います?」
「分からない。でも、ただの夢とは思えない」
「ルシアン先輩に聞きます?」
「まだいい」
「なんで?」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
「怖いんだ」
昨日と同じ言葉だった。
「もし本当に過去の記憶なら、僕は彼女を閉じ込めたことになる。守るためだと思っていた。でも、彼女は泣いていた」
「それで?」
「それで、僕はそんな人間だったのかと思って」
リリアは眉を寄せた。
「昔のレオン先輩が?」
「うん」
「今のレオン先輩じゃなくて?」
彼が顔を上げる。
「同じ僕かもしれない」
「でも覚えてない」
「それでも僕だ」
「難しい」
リリアは率直に言った。
「私は昔のリリアと魂が違うって分かったから、別人だって言いやすいです。でもレオン先輩は、昔の自分と今の自分がどれくらい同じなのか分からない」
「そうなんだ」
「なら、分かるまで決めなくてよくないですか?」
「何を?」
「自分が嫌な人かどうか」
レオンハルトが目を瞬いた。
「今のレオン先輩は私を閉じ込めてないです」
「今後するかもしれない」
「したら怒ります」
「……うん」
「逃げます」
「君、道分からないのに?」
「そこは頑張る」
思わずレオンハルトが笑った。
「笑うところじゃないです」
「ごめん。でも想像したら」
「ちゃんと逃げます」
「分かった。僕も追わないようにする」
「最初から閉じ込めないでください」
「そうだった」
笑ったあと、少しだけ空気が軽くなった。
リリアは彼を見る。
「レオン先輩」
「うん?」
「昔のレオン先輩が何したかは、知った方がいいと思います」
「……そうだね」
「でも、それを知ってから今のレオン先輩がどうするかは、今のレオン先輩が決めればいい」
自分自身にも向けた言葉だった。
過去を知ることと、過去に従うことは違う。
レオンハルトは長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「君と話せてよかった」
「私も探してよかった」
「二十分かかったけど?」
「なんで知ってるんですか」
「窓から見えてた」
「……最初から?」
「一度、下を通ったよね」
「呼んでくださいよ!」
「まさか僕を探してるとは思わなくて」
「次から呼んで」
「分かった」
少し不満だった。
けれど、それより気になることがある。
「あと」
「何?」
「さっき言ったこと」
「どれ?」
「今後、私を閉じ込めるかもしれないって」
「うん」
「しないと思います」
「どうして?」
「今のレオン先輩、私が嫌がることしたくなさそうだから」
青い瞳がこちらを見る。
リリアは続けた。
「昨日、私が好きになる途中かもしれないって言った時も、すぐ答えを欲しがらなかったし。手も、私が取るまで待ってた」
「……よく見てるね」
「レオン先輩のことだから」
まただ。
口にしてから気づく。
最近、自分は彼のことをよく見ている。
表情。
声。
手。
少し疲れている時の目元。
王子として笑う時と、普通に笑う時の違い。
もっと知りたいと思っている。
「レオン先輩」
「何?」
「私、やっぱりレオン先輩のこと好きになるかも」
彼が固まった。
「……今?」
「今思ったから」
「心の準備をさせてって、昨日言わなかった?」
「いつ言うか分からないのに?」
「確かにそうだけど」
レオンハルトが片手で目元を覆う。
その耳が赤い。
以前なら面白いと思うだけだった。
今は。
可愛いと思った。
「レオン先輩」
「まだ何かある?」
「今、可愛いです」
「リリア」
「はい」
「少し黙って」
「はい」
素直に課題へ戻ると、向かいから深い溜息が聞こえた。
でも。
そのあと、小さな笑い声も聞こえた。
*
放課後。
二人はルシアンのところへ向かった。
夢について話すと、ルシアンはしばらく黙った。
「おそらく、記憶だ」
レオンハルトの表情が硬くなる。
「やっぱり」
「ただし、完全な記憶の回復ではない」
「どういうこと?」
リリアが聞く。
「記録に近い。世界側に残っていた過去の情報へ、一時的に接続した可能性がある」
「じゃあ、レオン先輩自身が思い出したわけじゃない?」
「現段階ではそう考える方が自然だ」
レオンハルトが僅かに息を吐いた。
「夢の内容は事実ですか?」
「おそらく、第七再構築世界だ」
ルシアンの声が静かになる。
「あの世界で君はリリアを王宮へ匿った」
「匿った?」
「最初はね」
その言葉で、意味が変わる。
「途中から、彼女が外へ出ることを許さなくなった」
レオンハルトは目を伏せた。
「……どうして」
「外ではリリアを狙う者が増えていた。君は彼女を守るために王宮へ置いた。しかし状況が悪化するほど、君は彼女を失うことを恐れた」
「それで閉じ込めた」
「ああ」
「最後は?」
ルシアンが一度だけリリアを見る。
「聞く?」
レオンハルトは頷いた。
「お願いします」
「王都が襲撃された。リリアは王宮から出て、市民の避難を手伝った」
「僕は?」
「彼女を連れ戻そうとした」
「……」
「だが途中で考えを変えた」
レオンハルトが顔を上げる。
「彼女が逃がそうとしていた人々を、君も守った」
「それで?」
「避難が完了するまで戦って、死んだ」
静寂が落ちた。
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
「彼女は?」
「生き残った。少なくとも、その時は」
それ以上はルシアンも言わなかった。
「そっか」
レオンハルトの声は小さい。
「最後には、外へ出したんだ」
「そうだね」
少しだけ。
彼の表情が緩んだ。
「なら、昔の僕も最後まで最低だったわけじゃないのかな」
「評価は僕がすることじゃない」
ルシアンは答えた。
「君自身がどう受け止めるかだ」
「……うん」
部屋を出たあと、二人はしばらく無言で歩いた。
やがてレオンハルトが口を開く。
「聞いてよかった」
「怖くない?」
「怖いよ」
「じゃあ」
「でも、知らないまま想像する方が怖かった」
リリアは頷く。
「それに」
レオンハルトが立ち止まった。
「一つ分かった」
「何ですか?」
「昔の僕が君を――昔のリリアを、好きだった可能性は高い」
「はい」
「でも」
青い瞳がリリアを見る。
「今日、君が僕を探して二十分も迷っていたのを見て嬉しかったのは、昔の僕じゃない」
「見てたなら早く呼んで」
「そこ?」
「大事です」
「ごめん。次は呼ぶ」
笑ってから、レオンハルトは続けた。
「君が隣で課題を始めた時に安心したのも、昔の僕じゃない。君に『好きになるかも』って言われて嬉しかったのも、今の僕だ」
リリアは何も言わず、彼を見つめた。
「まだ全部に自信があるわけじゃないけどね」
「うん」
「だから」
少し迷ってから。
「もっと君を知りたい」
その言葉に、胸がゆっくり熱くなる。
「昔のリリアじゃなくて?」
「今の君を」
「エリシアも?」
「もちろん」
「リリアも?」
「両方」
リリアは笑った。
「じゃあ私も」
「僕を?」
「今のレオン先輩を、もっと知りたい」
今度は彼も笑った。
「次の休日、覚えてる?」
「覚えてます」
「今度は僕から誘う約束」
「はい」
「行きたい場所が決まった」
「どこ?」
「まだ秘密」
「今知りたい」
「当日まで待って」
「嫌」
「珍しくわがままだね」
「気になるから」
「それでも秘密」
教えてくれなかった。
少し不満だったけれど。
次の休日まで楽しみにできることが一つ増えた。
それも悪くないと思った。
*
その夜、レオンハルトはまた夢を見た。
同じ王宮。
けれど、今度は扉が開いている。
銀白色の髪の少女が振り返る。
『レオン』
泣いていた。
それでも。
笑っていた。
『ありがとう』
何に対する言葉なのか分からない。
夢の中の自分は剣を握っている。
背後には逃げていく人々。
前方には黒い影。
『行って』
自分が言う。
『でも』
『今度は、僕が君を閉じ込めるんじゃない』
少女の背中を押す。
『君が行きたい方へ行って』
そこで夢が途切れた。
レオンハルトは暗い部屋で目を開けた。
胸が痛かった。
悲しい。
懐かしい。
それでも不思議と、昨日ほど怖くなかった。
昔の自分が何をしたのか。
それを知ることはできる。
受け入れることも、反省することもできる。
けれど。
明日、自分が何をするかまで。
過去に決めさせる必要はない。
そして今、会いたいと思う少女は、夢の中にはいなかった。
同じ顔でも。
同じ名前でも。
違う。
「……リリア」
明日。
会いたい。
そう思った理由だけは。
もう過去のせいにはしたくなかった。
知らない部屋だった。
豪奢な調度品が並び、大きな窓には重いカーテンが掛けられている。王宮の一室に似ている気はするが、少なくとも今の彼には見覚えがない。
窓辺に、一人の少女が立っていた。
銀白色の長い髪。振り返った瞳は、青みを帯びた紫色だった。
リリア。
そう思ったのに、名前を呼べなかった。
彼女の顔が、今のリリアとは違って見えたからだ。
『外に出たい』
少女が言った。
『今日は駄目だ』
自分の声が返す。
『昨日もそう言った』
『危険なんだ』
『明日も?』
『……分からない』
『じゃあ、いつならいいの?』
答えられない。
少女は怒らなかった。ただ悲しそうに目を伏せた。
『レオンは、私を守りたいんだよね』
『もちろんだ』
『でも私は、ここにいたくない』
その言葉に、胸が痛んだ。
それでも夢の中の自分は扉を開けなかった。
彼女を失うくらいなら、嫌われてもここに置く。
そんな感情が、自分のもののように流れ込んでくる。
『ごめん』
自分が言う。
『君を外には出せない』
少女の瞳から涙が落ちた。
そこで、レオンハルトは目を覚ました。
「……っ」
勢いよく身体を起こした瞬間、呼吸が乱れた。額に汗が滲んでいる。
部屋は暗い。見慣れた学院の宿舎だった。
夢。
そう思おうとした。
けれど、胸の奥にはあまりにも生々しい感情が残っていた。
彼女を守りたい。
失いたくない。
だから閉じ込める。
「……僕が?」
そんなことをするはずがない、と否定したかった。
けれど同時に、あれがただの夢ではないことも分かっていた。
知らないはずなのに知っている。
あの部屋も。
泣いていた少女も。
扉に鍵を掛けた自分の手も。
レオンハルトは震える手で顔を覆った。
*
翌朝、リリアはレオンハルトを見つけるまでに、昨日より少し時間がかかった。
昼休みになってもいつもの場所に来ない。
「レオン先輩、今日いないですね」
何気なく言うと、向かいにいたアレンがパンを齧りながら眉を上げた。
「朝は見たぞ」
「どこで?」
「二年の教室」
「今は?」
「知らねえよ。俺をあいつの監視役だと思ってんのか」
「同じ学年だから知ってるかと」
「お前、最近あいつのことばっか聞くな」
言われて、リリアは少し考えた。
「そうかも」
「否定しろよ」
「なんで?」
「……もういい」
アレンが疲れたように目を逸らす。その隣でノアは何も言わず、飲み物の入ったカップを弄っていた。
セシルがリリアを見る。
「探しに行く?」
「うん」
立ち上がると、カイルが口を開いた。
「図書塔の上階」
「え?」
「さっき見た」
「ありがとうございます」
リリアはそのまま歩き出した。
「迷うなよ」
背後からアレンの声が飛んでくる。
「図書塔くらい分かります」
「昨日、第二講義棟行くのに三十分かかっただろ!」
「昨日は昨日です!」
言い返してから角を曲がり、しばらく歩いたところで、リリアは足を止めた。
「……こっちだっけ」
結局、図書塔へ辿り着くまで二十分かかった。
*
最上階近くの閲覧室は静かだった。
窓際の席に、レオンハルトが一人で座っている。机には本が開かれているものの、読んでいる様子はない。
「レオン先輩」
呼びかけると、肩が僅かに揺れた。
「リリア?」
「いました」
「僕を探してたの?」
「はい」
その返事に、いつもなら少し嬉しそうに笑うはずだった。
今日は違った。
「……どうして?」
「会いたかったから」
「昨日も会ったよ」
「昨日会ったら今日は会っちゃ駄目ですか?」
「そういう意味じゃない」
レオンハルトは視線を落とした。
明らかに様子がおかしい。
リリアは向かいの椅子を引いて座った。
「何かありました?」
「何もないよ」
「嘘」
「即答だね」
「昨日までと違うから」
レオンハルトが苦笑する。
「そんなに分かりやすい?」
「私には」
言ってから、それが少し特別な言葉に聞こえた。
レオンハルトもそう感じたのか、青い瞳が一瞬こちらへ向く。
「……困ったな」
「最近よく言いますね」
「君といると困ることが増えた」
「嫌ですか?」
「逆だよ」
昨日と同じ答え。
それでも、笑顔はすぐ消えた。
リリアは少し待った。
話したくないなら無理に聞くつもりはない。ただ、今ここから帰る気にもならなかった。
「ここにいていいですか?」
「授業は?」
「次、空きです」
「僕も」
「じゃあいます」
「僕が話さなくても?」
「はい」
「どうして?」
「一緒にいたいから」
レオンハルトが黙った。
リリアは鞄から教科書を取り出した。昨日出された課題が残っている。向かいにレオンハルトがいる状態で問題を解き始めると、数分後、小さな笑い声が聞こえた。
「何ですか?」
「いや。君は本当にそのままだなと思って」
「何が?」
「僕がこんな顔をしてるのに、隣で普通に課題を始めるところ」
「話したくなったら話すかなって」
「話さなかったら?」
「課題が終わります」
「合理的だね」
「大事です」
ようやく、少しだけいつもの笑顔になった。
それからしばらくして、レオンハルトが口を開いた。
「夢を見たんだ」
リリアはペンを置いた。
「どんな?」
「君がいた」
「私?」
「たぶん、君じゃない」
その言葉だけで、何の話か分かった。
「昔のリリア?」
「そうだと思う」
レオンハルトは昨夜見た夢を話した。王宮らしい部屋。外へ出たいと言う少女。彼女を閉じ込めている自分。
最後まで聞いてから、リリアは尋ねた。
「それ、本当にあったことだと思います?」
「分からない。でも、ただの夢とは思えない」
「ルシアン先輩に聞きます?」
「まだいい」
「なんで?」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
「怖いんだ」
昨日と同じ言葉だった。
「もし本当に過去の記憶なら、僕は彼女を閉じ込めたことになる。守るためだと思っていた。でも、彼女は泣いていた」
「それで?」
「それで、僕はそんな人間だったのかと思って」
リリアは眉を寄せた。
「昔のレオン先輩が?」
「うん」
「今のレオン先輩じゃなくて?」
彼が顔を上げる。
「同じ僕かもしれない」
「でも覚えてない」
「それでも僕だ」
「難しい」
リリアは率直に言った。
「私は昔のリリアと魂が違うって分かったから、別人だって言いやすいです。でもレオン先輩は、昔の自分と今の自分がどれくらい同じなのか分からない」
「そうなんだ」
「なら、分かるまで決めなくてよくないですか?」
「何を?」
「自分が嫌な人かどうか」
レオンハルトが目を瞬いた。
「今のレオン先輩は私を閉じ込めてないです」
「今後するかもしれない」
「したら怒ります」
「……うん」
「逃げます」
「君、道分からないのに?」
「そこは頑張る」
思わずレオンハルトが笑った。
「笑うところじゃないです」
「ごめん。でも想像したら」
「ちゃんと逃げます」
「分かった。僕も追わないようにする」
「最初から閉じ込めないでください」
「そうだった」
笑ったあと、少しだけ空気が軽くなった。
リリアは彼を見る。
「レオン先輩」
「うん?」
「昔のレオン先輩が何したかは、知った方がいいと思います」
「……そうだね」
「でも、それを知ってから今のレオン先輩がどうするかは、今のレオン先輩が決めればいい」
自分自身にも向けた言葉だった。
過去を知ることと、過去に従うことは違う。
レオンハルトは長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「君と話せてよかった」
「私も探してよかった」
「二十分かかったけど?」
「なんで知ってるんですか」
「窓から見えてた」
「……最初から?」
「一度、下を通ったよね」
「呼んでくださいよ!」
「まさか僕を探してるとは思わなくて」
「次から呼んで」
「分かった」
少し不満だった。
けれど、それより気になることがある。
「あと」
「何?」
「さっき言ったこと」
「どれ?」
「今後、私を閉じ込めるかもしれないって」
「うん」
「しないと思います」
「どうして?」
「今のレオン先輩、私が嫌がることしたくなさそうだから」
青い瞳がこちらを見る。
リリアは続けた。
「昨日、私が好きになる途中かもしれないって言った時も、すぐ答えを欲しがらなかったし。手も、私が取るまで待ってた」
「……よく見てるね」
「レオン先輩のことだから」
まただ。
口にしてから気づく。
最近、自分は彼のことをよく見ている。
表情。
声。
手。
少し疲れている時の目元。
王子として笑う時と、普通に笑う時の違い。
もっと知りたいと思っている。
「レオン先輩」
「何?」
「私、やっぱりレオン先輩のこと好きになるかも」
彼が固まった。
「……今?」
「今思ったから」
「心の準備をさせてって、昨日言わなかった?」
「いつ言うか分からないのに?」
「確かにそうだけど」
レオンハルトが片手で目元を覆う。
その耳が赤い。
以前なら面白いと思うだけだった。
今は。
可愛いと思った。
「レオン先輩」
「まだ何かある?」
「今、可愛いです」
「リリア」
「はい」
「少し黙って」
「はい」
素直に課題へ戻ると、向かいから深い溜息が聞こえた。
でも。
そのあと、小さな笑い声も聞こえた。
*
放課後。
二人はルシアンのところへ向かった。
夢について話すと、ルシアンはしばらく黙った。
「おそらく、記憶だ」
レオンハルトの表情が硬くなる。
「やっぱり」
「ただし、完全な記憶の回復ではない」
「どういうこと?」
リリアが聞く。
「記録に近い。世界側に残っていた過去の情報へ、一時的に接続した可能性がある」
「じゃあ、レオン先輩自身が思い出したわけじゃない?」
「現段階ではそう考える方が自然だ」
レオンハルトが僅かに息を吐いた。
「夢の内容は事実ですか?」
「おそらく、第七再構築世界だ」
ルシアンの声が静かになる。
「あの世界で君はリリアを王宮へ匿った」
「匿った?」
「最初はね」
その言葉で、意味が変わる。
「途中から、彼女が外へ出ることを許さなくなった」
レオンハルトは目を伏せた。
「……どうして」
「外ではリリアを狙う者が増えていた。君は彼女を守るために王宮へ置いた。しかし状況が悪化するほど、君は彼女を失うことを恐れた」
「それで閉じ込めた」
「ああ」
「最後は?」
ルシアンが一度だけリリアを見る。
「聞く?」
レオンハルトは頷いた。
「お願いします」
「王都が襲撃された。リリアは王宮から出て、市民の避難を手伝った」
「僕は?」
「彼女を連れ戻そうとした」
「……」
「だが途中で考えを変えた」
レオンハルトが顔を上げる。
「彼女が逃がそうとしていた人々を、君も守った」
「それで?」
「避難が完了するまで戦って、死んだ」
静寂が落ちた。
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
「彼女は?」
「生き残った。少なくとも、その時は」
それ以上はルシアンも言わなかった。
「そっか」
レオンハルトの声は小さい。
「最後には、外へ出したんだ」
「そうだね」
少しだけ。
彼の表情が緩んだ。
「なら、昔の僕も最後まで最低だったわけじゃないのかな」
「評価は僕がすることじゃない」
ルシアンは答えた。
「君自身がどう受け止めるかだ」
「……うん」
部屋を出たあと、二人はしばらく無言で歩いた。
やがてレオンハルトが口を開く。
「聞いてよかった」
「怖くない?」
「怖いよ」
「じゃあ」
「でも、知らないまま想像する方が怖かった」
リリアは頷く。
「それに」
レオンハルトが立ち止まった。
「一つ分かった」
「何ですか?」
「昔の僕が君を――昔のリリアを、好きだった可能性は高い」
「はい」
「でも」
青い瞳がリリアを見る。
「今日、君が僕を探して二十分も迷っていたのを見て嬉しかったのは、昔の僕じゃない」
「見てたなら早く呼んで」
「そこ?」
「大事です」
「ごめん。次は呼ぶ」
笑ってから、レオンハルトは続けた。
「君が隣で課題を始めた時に安心したのも、昔の僕じゃない。君に『好きになるかも』って言われて嬉しかったのも、今の僕だ」
リリアは何も言わず、彼を見つめた。
「まだ全部に自信があるわけじゃないけどね」
「うん」
「だから」
少し迷ってから。
「もっと君を知りたい」
その言葉に、胸がゆっくり熱くなる。
「昔のリリアじゃなくて?」
「今の君を」
「エリシアも?」
「もちろん」
「リリアも?」
「両方」
リリアは笑った。
「じゃあ私も」
「僕を?」
「今のレオン先輩を、もっと知りたい」
今度は彼も笑った。
「次の休日、覚えてる?」
「覚えてます」
「今度は僕から誘う約束」
「はい」
「行きたい場所が決まった」
「どこ?」
「まだ秘密」
「今知りたい」
「当日まで待って」
「嫌」
「珍しくわがままだね」
「気になるから」
「それでも秘密」
教えてくれなかった。
少し不満だったけれど。
次の休日まで楽しみにできることが一つ増えた。
それも悪くないと思った。
*
その夜、レオンハルトはまた夢を見た。
同じ王宮。
けれど、今度は扉が開いている。
銀白色の髪の少女が振り返る。
『レオン』
泣いていた。
それでも。
笑っていた。
『ありがとう』
何に対する言葉なのか分からない。
夢の中の自分は剣を握っている。
背後には逃げていく人々。
前方には黒い影。
『行って』
自分が言う。
『でも』
『今度は、僕が君を閉じ込めるんじゃない』
少女の背中を押す。
『君が行きたい方へ行って』
そこで夢が途切れた。
レオンハルトは暗い部屋で目を開けた。
胸が痛かった。
悲しい。
懐かしい。
それでも不思議と、昨日ほど怖くなかった。
昔の自分が何をしたのか。
それを知ることはできる。
受け入れることも、反省することもできる。
けれど。
明日、自分が何をするかまで。
過去に決めさせる必要はない。
そして今、会いたいと思う少女は、夢の中にはいなかった。
同じ顔でも。
同じ名前でも。
違う。
「……リリア」
明日。
会いたい。
そう思った理由だけは。
もう過去のせいにはしたくなかった。