魔法より、君に恋をする。

レオンハルトルート 第40章 今の僕が、今の君を


翌朝、レオンハルトはいつもより早く目を覚ました。

 昨夜見た夢は、起きてからも鮮明に残っていた。燃える街、手にしていた剣の重さ、身体を貫かれた痛み、そして自分を抱き起こして泣いていた少女の顔まで、まるで本当に経験した出来事のように思い出せる。

 それでも、ルシアンの説明を信じるなら、あれは今の自分が取り戻した記憶ではない。世界に残された過去の情報へ触れ、その一部を夢として見ているだけだ。

 問題は、映像だけではなく感情まで流れ込んでくることだった。

 過去の自分は、あの少女を愛していた。

 疑いようがない。

 彼女を失うことが怖くて王宮へ閉じ込め、最後には彼女自身の選択を守るために命を落とした。間違いも後悔も含めて、それほど深く一人の人間を愛していた。

 その事実を知った今でも、レオンハルトは現在の自分と過去の自分の境界を完全には説明できない。

 けれど、昨夜初めて気づいたことがある。

 夢の中のリリアを思い出すと、胸の奥には悲しさが残る。彼女を守りたかったという感情も理解できるし、死の直前に告げた「愛している」という言葉が嘘だったとも思わない。

 しかし、今のリリアを思い浮かべた時に生まれる気持ちは、それとは違っていた。

 今日会いたい。

 昨日の返事をしたい。

 また方向を間違えるかもしれないから迎えに行こうかと思う。朝食を食べたか聞きたいし、次はどこへ連れていけば喜ぶのか考えたい。卒業したあと何をしたいのかも知らないし、好きな季節も、苦手な料理も、まだ聞いていない。

 知らないことが多いからこそ、知りたいと思う。

 その感情に、過去の記憶は一つも必要なかった。

「……そっか」

 レオンハルトはベッドから降りた。

 答えは思っていたより、ずっと単純だった。

     *

「来ない」

 女子寮の前で、リリアは呟いた。

「何が?」

「レオン先輩」

 隣にいたセシルが首を傾げる。

「今日も迎えに来る約束だったの?」

「してない」

「じゃあ来なくても普通じゃないかな」

「昨日来た」

「昨日は約束してたんでしょ?」

「うん」

「なら今日は来ないんじゃない?」

「……そっか」

 納得はしたものの、少し残念だった。

 昨日告白した。

 レオンハルトからは、少し考える時間が欲しいと言われた。

 だから今日は、こちらから会いに行かない方がいいのかもしれない。そう思う一方で、顔くらいは見たい。

「セシル」

「なに?」

「考える時間って、会わない方がいい?」

「人によるんじゃないかな」

「レオン先輩は?」

「私に聞かれても分からないよ」

「そっか」

 歩き出そうとした時だった。

「リリア!」

 聞き慣れた声がする。

 振り返ると、少し離れた道からレオンハルトが歩いてきた。いつも余裕のある彼にしては珍しく、少し息が上がっている。

「レオン先輩」

「よかった。まだいた」

「どうしたんですか?」

「迎えに来た」

「約束してないですよ」

「したくなったから」

 それだけで、さっきまでの小さな不満が綺麗に消えた。

「……そっか」

「うん」

 レオンハルトはセシルにも挨拶をした。

 セシルは二人を見比べると、何かを察したらしい。

「私、先に行ってるね」

「一緒に行かないの?」

「今日は二人で行った方がよさそうだから」

「なんで?」

「そのうち分かるよ」

 セシルはそう言って先へ歩いていった。

 残されたリリアはレオンハルトを見る。

「何かあるんですか?」

「ある」

「返事?」

「……本当に勘がいい時と悪い時の差が激しいね」

「返事なんですね」

「うん。でも、ここでする話じゃないかな」

「じゃあどこ?」

「少し時間ある?」

「あります」

「授業まで三十分だけど」

「三十分あります」

「遅刻は?」

「走ります」

「君、方向が分からなくなるから僕も一緒に走ることになりそうだな」

「お願いします」

「仕方ないね」

 レオンハルトが笑う。

 その顔を見て、悪い返事ではないような気がした。

     *

 二人が向かったのは、以前話した裏庭だった。

 朝はほとんど人がいない。木々の間から差し込む光が、まだ少し冷たい空気を照らしている。

 リリアはベンチに座らず、レオンハルトの前に立った。

「聞きます」

「そんなに構えなくても」

「昨日から待ってたので」

「一日も待たせてないけどね」

「長かったです」

「ごめん」

 レオンハルトは少し笑ったあと、表情を改めた。

「昨日、また夢を見た」

「昔の?」

「うん。第七世界の最後だと思う」

 夢の内容を聞く。

 燃える街。

 避難する人々。

 過去のレオンハルトの死。

 そして、昔のリリアへ告げた言葉。

「愛してるって言ったんですね」

「うん」

「そっか」

 不思議と嫉妬はしなかった。

 少し胸が痛むことはある。でも、夢の中の少女が今の自分ではないと分かっているから、その言葉を奪いたいとは思わなかった。

「それで分かったんだ」

「何が?」

「僕は、あの人を愛していたんだと思う」

 レオンハルトは静かに言った。

「今の僕にはその人生の記憶がないし、実感もない。それでも、夢の中で感じたものまで偽物だとは思いたくない。あの時の僕にとっては本物だったはずだから」

「うん」

「でも、それを認めることと、今の僕の気持ちを疑うことは別だった」

 青い瞳が、まっすぐリリアへ向く。

「昔の僕が愛した人について、僕はほとんど何も知らない。彼女が何を食べると嬉しそうにしたのか、どんなことで笑ったのか、何を怖がっていたのか。夢で見た断片以外は何も分からない」

「私のことは?」

「まだ全然知らないよ」

「え」

「でも、知りたい」

 即答だった。

「君が苺のタルトを好きなのは知ってる。方向音痴なのも、魔法のことになると急に負けず嫌いになるのも知ってる。思ったことをそのまま言うから、こっちが心の準備をする暇がないことも知ってる」

「悪口混ざってません?」

「褒めてるよ」

「方向音痴は褒めてない」

「そこも好きだから」

 リリアは黙った。

 さらりと言われた。

「今、好きって」

「言ったね」

「答え?」

「まだ途中」

「まだあるんですか?」

「大事なところが」

 レオンハルトが一歩近づく。

 昨日までは、その距離に少し緊張した。

 今日は逃げたいとは思わなかった。

「僕は、君がこれから何を好きになるのか知りたい。何を選ぶのかも見たいし、僕の知らない君をもっと知りたい。君が笑っていたら嬉しいし、他の誰かと楽しそうにしていたら少しくらい嫉妬する。会えない日は会いたいと思うし、次に会える日を楽しみにする」

「……うん」

「それは全部、今の君と出会ってから増えたものだ」

 そこで一度、言葉を切る。

 けれど沈黙は長くなかった。

「だから、もう過去のせいにはしない」

 レオンハルトの声は穏やかだった。

「これは過去の僕の感情じゃない。今の僕が、今の君を好きになった」

 ずっと聞きたかった言葉だった。

 なのに実際に聞くと、すぐには何も言えなかった。

「……リリア?」

「嬉しい」

「うん」

「思ってたより嬉しい」

「それならよかった」

「昨日言ってくれてもよかったのに」

「昨日の僕には、まだ言えなかった」

「今日は言える?」

「何回でも」

「じゃあもう一回」

「え?」

「聞きたい」

 レオンハルトは一瞬だけ困った顔をしたが、すぐに笑った。

「好きだよ、リリア」

 今度はさっきより短い。

 それでも、同じくらい嬉しい。

「私も好きです」

「うん」

「昨日も言ったけど」

「今日も聞けて嬉しい」

 互いに笑ったあと、リリアはふと大事なことに気づいた。

「それで」

「うん?」

「どうなるんですか?」

「何が?」

「私たち」

 レオンハルトが目を瞬く。

「好きって言い合いました」

「そうだね」

「付き合う?」

 あまりに直接聞いたせいか、彼は数秒黙った。

「リリア」

「はい」

「そういうところ、本当に好きだよ」

「ありがとう。それで?」

「付き合いたい」

 ようやく答えが返る。

「僕と付き合ってくれる?」

「はい」

 今度は迷わなかった。

 恋人になった。

 そう思うと何かが劇的に変わるのかと思ったけれど、目の前にいるのは数分前と同じレオンハルトだった。

「……変わらないですね」

「何が?」

「恋人になった感じ」

「今すぐ何か変えたい?」

「分からない」

「僕も分からないな」

 レオンハルトが笑う。

「初めてなので」

「僕も」

「本当に?」

「その疑い方は傷つくな」

「王子だから」

「王子への偏見がすごいね」

「モテるでしょ?」

「好意を向けられたことはある。でも、誰かと付き合ったことはないよ」

「なんで?」

「好きじゃなかったから」

「そっか」

 当たり前の答えだった。

 でも少し嬉しい。

「じゃあお互い初めて?」

「そうなるね」

「何すればいいんだろう」

「別に何もしなくていいんじゃない?」

「そうなの?」

「今まで通り会って、話して、出かけて。そのうちしたいことが増えたらすればいい」

 それが一番自然な気がした。

「じゃあ」

 リリアは手を差し出した。

「これはしたい」

 レオンハルトが手を見る。

「手?」

「うん」

 最近少しずつ増えていた、敬語ではない返事。

 彼は嬉しそうにその手を取った。

「僕も」

 指が重なる。

 今日は迷子防止ではない。

 ただ繋ぎたいから。

     *

「ところで」

 校舎へ戻りながら、レオンハルトが言った。

「授業まであと七分」

「走れば間に合います」

「ここから一年生棟まで?」

「……何分?」

「普通に歩いて十五分くらい」

「走ろう」

「やっぱり?」

 二人で走った。

 途中までは一緒だった。

 問題は、中央棟を抜けたところだった。

「リリア、そっちじゃない!」

「近道!」

「そっちは訓練場!」

「え?」

「だから待って!」

 腕を掴まれて止められる。

「危なかった」

「恋人になった日に遅刻する」

「恋人になったことと遅刻は関係ないよ」

「先生に言ったら許してくれるかな」

「絶対無理だと思う」

「第二王子の力で」

「そういう使い方はしません」

「王子なのに」

「君は僕を何だと思ってるの?」

「彼氏」

 レオンハルトが黙った。

「……今それ言う?」

「違った?」

「合ってるけど」

 耳が少し赤い。

「彼氏」

「二回言わなくていい」

「レオン先輩でも照れるんだ」

「照れるよ」

「じゃあ私は?」

「彼女」

 今度は。

 リリアが黙る番だった。

「……走りましょう」

「照れた?」

「時間ないから」

「顔赤いよ」

「走ったからです」

「まだ走ってないけど」

「行きます!」

 手を引く。

 今度は。

 正しい方向へ。

 たぶん。

     *

 放課後、二人が付き合い始めたことは、思ったより早く他の五人へ知られた。

 理由は簡単だった。

「お前ら今日なんか変じゃね?」

 アレンに言われたからだ。

「付き合いました」

 リリアが答えた。

「は?」

 アレンが固まった。

 ノアの笑顔も止まった。

 カイルは僅かに目を細め、ルシアンは予想していたような顔で紅茶を飲んでいる。

 セシルだけは驚かなかった。

「そっか」

 そう言って。

 笑った。

「おめでとう、リリア」

「ありがとう」

 その笑顔を見て、リリアは少しだけ胸が痛んだ。

 セシルが好きな人。

 まだ誰なのかは知らない。

 でも、いつかちゃんと話してくれる日が来たら聞きたいと思った。

「待て待て待て」

 ようやくアレンが復活した。

「いつだよ」

「今日」

「昨日まで付き合ってなかったよな?」

「はい」

「なんで一日でそうなるんだよ!」

「私が昨日告白して、レオン先輩が今日返事したから」

「説明が簡潔すぎる!」

「他に何を?」

「知らねえよ!」

 アレンが頭を抱える。

 その横でノアが笑った。

「おめでとう」

 いつもの笑顔。

 でも。

 少しだけ違う。

「ありがとう、ノア」

「うん」

 ノアはそれ以上何も言わなかった。

 カイルも「そうか」と短く答えただけだった。

 誰かを選ぶ。

 その意味を。

 リリアは少しずつ理解している。

 それでも。

 隣にいるレオンハルトの手が。

 机の下で。

 そっと自分の手に触れた。

 リリアは。

 その手を握った。

     *

 その夜。

 レオンハルトは眠る前に、ふと不安になった。

 また夢を見るかもしれない。

 過去のリリア。

 過去の自分。

 昔の愛。

 それらが消えたわけではない。

 でも。

 もう怖くなかった。

 もし夢を見たら。

 覚えておけばいい。

 過去の自分が。

 一人の少女を愛したこと。

 間違えて。

 傷つけて。

 最後には。

 彼女の自由を守ろうとしたこと。

 その人生を。

 なかったことにする必要はない。

 そして。

 朝になったら。

 今のリリアに会いに行けばいい。

 レオンハルトは目を閉じた。

 明日は。

 何を話そう。

 昼休みは。

 何を食べよう。

 次の休日は。

 どこへ行こう。

 そんなことを考えているうちに。

 眠りに落ちた。

 その夜。

 夢は見なかった。
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