魔法より、君に恋をする。

レオンハルトルート 第41章 恋人になった翌日



 恋人になった翌朝、リリアは昨日より十分早く女子寮を出た。

 別に待っているわけではない、と自分に言い聞かせながら正門へ向かったものの、遠くに金色の髪を見つけた瞬間には自然と足が速くなった。

「おはようございます」

「おはよう、リリア。今日は早いね」

「たまたまです」

「僕が来ると思ってた?」

「少し」

「じゃあ来てよかった」

 レオンハルトが笑う。昨日まで何度も見てきた笑顔なのに、恋人になったという事実を知っているだけで妙に意識してしまう。

 二人で歩き出してから、リリアは隣をちらりと見た。

「レオン先輩」

「うん?」

「昨日と何か変わりました?」

「僕たちが?」

「はい」

「付き合ってる」

「それは知ってます」

「じゃあ何だろう」

 レオンハルトも考える。

「僕は朝から君に会えるのを楽しみにしてた」

「それは前もじゃないですか?」

「そうだね」

「私も」

「それも前から?」

「最近は」

「じゃあ、本当にあまり変わらないのかもね」

 少し拍子抜けしたような気もする。それでも嫌ではなかった。昨日まで積み重ねてきたものが突然別物になるのではなく、その続きに恋人という名前がついただけなのだと思えば、むしろ自然だった。

 ただ、一つだけ違うことがある。

 昨日からずっと気になっていた。

 リリアは少し迷ってから、レオンハルトの左手を見た。

「……手」

「手?」

「繋いでもいいですか?」

 聞いた瞬間、レオンハルトの表情が柔らかくなる。

「もちろん」

 差し出された手を取る。最初は普通に握っただけだったが、少し歩いたところでレオンハルトの指が動き、ゆっくりリリアの指の間へ重なった。

 今までとは違う繋ぎ方だった。

「これ」

「嫌?」

「嫌じゃない」

「じゃあ、このまま」

 指が絡んでいるだけなのに、妙に落ち着かない。それでも離したいとは思わなかった。

「レオン先輩、慣れてません?」

「何に?」

「これ」

「昨日、付き合ったことないって話したよね」

「じゃあ、なんで自然なんですか?」

「手を繋ぐくらいは分かるよ」

「王子だから?」

「王子を何だと思ってるの?」

「何でも知ってる人」

「かなり雑な認識だね」

 笑われる。

 リリアも笑った。

 しばらくそのまま歩いていたが、校舎が近づいて人が増えてくると、周囲から視線が集まり始めた。

「見られてます」

「そうだね」

「離します?」

 聞くと、レオンハルトがリリアを見る。

「リリアは離したい?」

「別に」

「僕も」

「じゃあこのまま?」

「このまま」

 結局、教室の前まで繋いでいた。

     *

「目立ってたよ」

 席に着いた途端、セシルに言われた。

「何が?」

「手」

「見た?」

「学院中に見られてたと思うけど」

「そんなに?」

「第二王子が一年生の女の子と手を繋いで登校してるんだからね」

 そこまで言われて、ようやく事の大きさに気づいた。

「まずかったかな」

「リリアは嫌だった?」

「嫌じゃない」

「じゃあいいんじゃない?」

「レオン先輩に迷惑かからない?」

「それは本人に聞いた方がいいね」

 セシルはそう答えながら教科書を開いた。

 リリアも教科書を出したものの、少し気になった。

 レオンハルトは第二王子だ。

 付き合うということが、自分たち二人だけの問題では済まない可能性がある。

 昨日はそこまで考えていなかった。

「セシル」

「うん?」

「王子と付き合うって大変?」

「私に経験あると思う?」

「ない?」

「あるように見える?」

「イケメンだからありそう」

「それ、関係あるかな」

 セシルが呆れたように笑う。

「でも、レオン先輩なら分かってて付き合ったんじゃない?」

「何を?」

「自分の立場」

 言われてみればそうだ。

 それでも。

 昼休みに聞こう。

     *

「迷惑?」

 レオンハルトは聞き返した。

「朝のことです」

 昼休み。今日は二人で少し離れた場所へ来ていた。

 付き合い始めたから二人きりになりたかったわけではない。リリアが「話がある」と言ったら、レオンハルトがここへ連れてきただけだ。

「私と付き合ってるって知られたら、何か困ります?」

「どうして急に?」

「セシルに、朝目立ってたって言われて」

「ああ」

 レオンハルトは納得したように頷いた。

「確かに、そのうち王宮には伝わるだろうね」

「怒られる?」

「僕は怒られないと思う」

「私は?」

「君を怒る権利は誰にもないよ」

「でも、王子ですよね」

「そうだね」

「婚約者とか決められるんじゃないですか?」

「今のところいないよ」

「今後は?」

 聞くと、レオンハルトは少し考えた。

「可能性はある。王家から政治的な結婚を望まれることは、第二王子でも十分あり得る」

「……そっか」

 思ったより現実的な答えだった。

 胸が少し重くなる。

「でも」

 レオンハルトが続ける。

「言われたからって、そのまま従うつもりはないよ」

「断れる?」

「簡単ではないかもしれない。でも、自分の人生だからね」

 その言葉を聞いて、リリアは彼を見る。

「昔の僕なら、王族として必要なら受け入れるべきだと思ったかもしれない。でも今は、それだけが正しいとは思わない。王子として果たす責任と、僕自身の人生を全部同じにする必要はないって、最近ようやく分かってきたから」

「植物園で言ってたこと?」

「そう。王子であることが僕の全部じゃない」

 レオンハルトは少し笑った。

「それに、付き合って一日で別の人との結婚を心配するのは早くない?」

「大事です」

「まあ、それはそうだけど」

「もし婚約者できたら嫌」

「作らないように頑張るよ」

「頑張る?」

「王家との交渉は努力が必要だから」

「じゃあ私も手伝います」

「どうやって?」

「魔法で」

「何をする気?」

「説得」

「魔法で?」

「普通に話します」

「びっくりした」

 レオンハルトが笑う。

 リリアも少し安心した。

「じゃあ朝も手繋いでいい?」

「もちろん」

「人に見られても?」

「僕は構わないよ。ただ、君が嫌なことを言われる可能性はある」

「何を?」

「身分のこととか、僕と釣り合わないとか」

「言われたら言い返します」

「心強いな」

「魔法勝負なら負けません」

「喧嘩はしないでね」

「向こうが先なら?」

「しないでね」

「分かりました」

 少し不満そうに答えると、レオンハルトが笑った。

「でも、何かあったら僕にも言って」

「自分で解決できます」

「知ってる」

「じゃあなんで?」

「恋人だから心配くらいさせて」

 その言葉に、胸が温かくなった。

「……はい」

     *

 午後の授業が終わる頃、リリアの右手に黒い線が浮かんだ。

 久しぶりだった。

 細い線。

 一本。

 二本。

 三本。

 授業中だったため声は出さなかったが、目を離せなかった。

 やがて。

 十三本。

 以前と同じ。

 けれど、今日はその先が違った。

 十三本目だけが手首から腕へ伸び、淡く光っている。

「リリア?」

 隣のセシルが気づく。

「これ」

 腕を見せる。

 セシルの表情が変わった。

「ルシアン先輩のところへ行こう」

「うん」

 二人は授業が終わるとすぐ、生徒会室へ向かった。

     *

 ルシアンはリリアの腕を見るなり、眼鏡の奥の瞳を細めた。

「やはり動いたか」

「分かってたんですか?」

「可能性は考えていた」

 部屋にはすぐに他の五人も呼ばれた。

 レオンハルトはリリアの腕を見たまま、表情を硬くしている。

「痛くない?」

「全然」

「本当に?」

「はい」

「ならいいけど」

 以前なら誰より冷静だったはずの彼が、今は分かりやすく心配している。

 アレンが呆れたように言う。

「お前、昨日から過保護になってねえか?」

「昨日からだから仕方ないだろう」

「開き直んな」

「アレン先輩」

「なんだよ」

「ちょっと面白い」

「何がだ!」

 いつもの調子に少しだけ空気が緩む。

 ルシアンが机の上へ一冊の古い記録を置いた。

「十三本目の線について、追加で分かったことがある」

 全員の視線が集まる。

「これまで僕たちは、今いる世界を十三番目の再構築世界だと考えていた」

「違うの?」

 リリアが聞く。

「ああ」

 ルシアンはページを開く。

「正確には、十二回目の世界が崩壊したあと、本来起こるはずだった十三回目の再構築が失敗している」

「失敗?」

「世界を以前と同じ構造で作り直すことができなかった。そして、その失敗した空白に生まれたのが今の世界だ」

 リリアは自分の腕を見る。

「じゃあ、ここは十三回目じゃない?」

「少なくとも、過去十二回と同じ意味ではね」

 ルシアンが十三本目の線を指す。

「これは再構築の回数を示しているんじゃない。十二回続いた円環から外へ伸びた、新しい世界の座標だと考える方が自然だ」

 レオンハルトが眉を寄せる。

「どうしてそんなものが生まれた?」

「まだ完全には分からない。ただし、原因の一つは間違いなくリリアだ」

「私?」

「今の君は、過去十二回のリリアとは魂が違う。それなのに、本来リリアが配置されるはずだった世界の中心へ現れた」

 ルシアンは淡々と説明する。

「言い換えれば、この世界は初めて『以前と同じリリア』を作れなかった」

 部屋が静かになる。

「それでエリシア?」

「そう考えている。君は再構築されたリリアではない。世界が過去と同じ形へ戻れなくなった結果、そこへ生まれた新しい存在だ」

 レオンハルトが口を開く。

「それなら、なぜ僕には過去の記憶がない?」

「むしろ、その方が自然なのかもしれない」

「どういう意味?」

「君もまた、この世界で過去と同じ役割を完全には再現されなかった可能性がある」

 レオンハルトが黙る。

「ノア、アレン、カイルは強い記憶保持が起きた。僕には管理者として記録が残った。しかし君には残らなかった。それを欠陥だと思っていたが、今は違う見方ができる」

 ルシアンがレオンハルトを見る。

「忘れたんじゃない。最初から、この世界の君には渡されなかったのかもしれない」

「……過去の僕の記憶が?」

「ああ」

 レオンハルトは長い間、何も言わなかった。

 リリアは隣にいる彼の手へ、自分の指先を触れさせた。

 レオンハルトがこちらを見る。

「リリア?」

「嫌だったらやめます」

「いや」

 小さな声。

「このままでいて」

 リリアは手を握った。

 ルシアンは続ける。

「問題はここからだ。十三本目はまだ完成していない」

「完成するとどうなる?」

 カイルが聞く。

「この世界が、過去十二回から完全に独立する可能性が高い」

「しなかった場合は?」

 今度はノア。

 ルシアンは答えるまで少し間を置いた。

「元の構造へ引き戻される可能性がある」

「十三回目の再構築?」

「そうだ」

 その瞬間。

 リリアの腕が熱くなった。

「……っ」

「リリア!」

 レオンハルトがすぐに支える。

 十三本目の線が黒く染まる。

 部屋の照明が消えた。

 窓の外。

 昼間だった空が。

 ゆっくり。

 暗くなる。

「何?」

 セシルが窓へ向かう。

 太陽を覆うように。

 黒い月が。

 浮かんでいた。

 そして。

 声がした。

『見つけた』

 耳から聞こえる声ではない。

 頭の中へ直接入ってくる。

 リリアは反射的にレオンハルトの手を強く握った。

『器が、世界を持った』

「誰?」

 答えはない。

 代わりに。

 笑うような気配がした。

『また、間違える』

 レオンハルトがリリアを庇うように前へ出る。

「彼女から離れろ」

 その言葉に。

 声が反応した。

『また閉じ込めるのか』

 レオンハルトの身体が硬くなる。

『守るために』

 夢。

 王宮。

 閉じた扉。

 泣いていた少女。

 リリアには。

 その声が何を言っているのか分かった。

「レオン先輩」

「……大丈夫」

 でも。

 握られている手は冷たい。

『お前は同じだ』

「違う」

 レオンハルトが答える。

 声は少し震えていた。

 それでも。

 リリアの手を引いて後ろへ隠すことはしなかった。

「僕は彼女を閉じ込めない」

『失うぞ』

「それでも」

 一度だけ。

 リリアを見る。

「彼女がどこへ行くかは、彼女が決める」

 黒い月が。

 揺れた。

 リリアの十三本目の線が。

 白く光る。

 そして。

 今までより。

 ほんの少しだけ。

 長く伸びた。

 ルシアンが息を呑む。

「……そういうことか」

「何が?」

 リリアが聞く。

 ルシアンは光る線を見つめている。

「選択だ」

「選択?」

「過去と違う結果を出すことじゃない」

 眼鏡の奥の紫色の瞳が鋭くなる。

「過去に決められず、今の自分で選ぶこと。それが、この線を伸ばしている」

 リリアは。

 レオンハルトを見る。

 過去の彼は。

 リリアを失うことが怖くて。

 閉じ込めた。

 今の彼は。

 同じ恐怖を知って。

 それでも。

 自分に選ばせた。

 それが。

 この世界を。

 過去から遠ざけた。

『違う』

 声が低くなる。

『同じでなければならない』

「なんで?」

 リリアは黒い月を見上げる。

『正しい終わりが必要だ』

「誰にとって?」

 答えはない。

「私、エリシアでもあるんです」

 自分の胸に手を置く。

「昔のリリアじゃない」

『器だ』

「違う」

『お前は――』

「私は私です」

 言い切った瞬間。

 黒い月が。

 一度だけ大きく歪んだ。

 そして。

 消えた。

 光が戻る。

 誰もすぐには喋らなかった。

 最初に口を開いたのは。

 レオンハルトだった。

「……リリア」

「はい」

「大丈夫?」

「大丈夫」

「本当に?」

「大丈夫です」

 答えてから。

 少し考える。

「でも」

「うん?」

「怖かった」

 正直に言った。

 レオンハルトは手を握ったまま、少し迷った。

「抱きしめてもいい?」

 聞かれた。

 リリアは。

 頷いた。

「うん」

 ゆっくり。

 腕の中へ引き寄せられる。

 強すぎない。

 逃げようと思えば。

 すぐ離れられる。

 でも。

 離れたくなかった。

 リリアはレオンハルトの背中へ腕を回した。

「レオン先輩」

「うん」

「さっき、嬉しかった」

「どこが?」

「私がどこ行くかは私が決めるって言ってくれたところ」

「……当たり前だよ」

「昔は違ったんでしょ?」

「そうだね」

「でも今は違う」

「うん」

 レオンハルトの声が。

 すぐ近くで聞こえる。

「今の僕は、君を守りたい。でも、君の自由を奪ってまで守るのは違うと思ってる」

「もし私が危ないところ行くって言ったら?」

「止める」

「止めるんだ」

「全力で説得する。それでも行くなら」

 少し間があった。

「一緒に行く」

 リリアは。

 彼の胸元へ顔を寄せた。

「それがいい」

「うん」

「一緒がいい」

 レオンハルトの腕に。

 少しだけ力が入った。

 それでも。

 苦しくない。

「リリア」

「何?」

「さっきから思ってること言っていい?」

「うん」

「君が無事で、本当によかった」

「私も」

 顔を上げる。

 近い。

 思っていたより。

 ずっと。

 目が合う。

 レオンハルトの視線が一瞬だけ、リリアの唇へ落ちた。

 それが何を意味するのか。

 今のリリアにも。

 分かる。

「……レオン先輩」

「うん」

「今、キスしたい?」

 レオンハルトが。

 完全に黙った。

「リリア」

「はい」

「そういうこと、聞く?」

「気になったから」

「……したいよ」

 正直に答えた。

 今度は。

 リリアの心臓が速くなる。

「リリアは?」

 聞き返される。

 少しだけ。

 恥ずかしい。

 でも。

「したい」

 答えた。

 レオンハルトの手が。

 リリアの頬へ触れる。

 急がない。

 逃げないことを確かめるように。

「いい?」

「うん」

 顔が近づく。

 そして。

 唇が触れた。

 ほんの短い。

 柔らかなキスだった。

 離れたあと。

 二人とも。

 少しだけ黙った。

「……どうでした?」

 リリアが聞く。

「感想聞くの?」

「初めてだから」

「僕も初めてなんだけど」

「じゃあお互い言えます」

「何を?」

「感想」

「言わなくていいと思う」

「なんで?」

「恥ずかしいから」

 レオンハルトが笑う。

 その耳が。

 また赤い。

 リリアも。

 たぶん同じだった。

 もう一度したいとは。

 思った。

 でも。

 今はこれで十分だった。

     *

 その夜。

 レオンハルトは。

 夢を見た。

 王宮。

 過去のリリア。

 扉。

 泣いている少女。

 けれど。

 今までとは違った。

 夢の中のレオンハルトが。

 扉を開ける。

『行って』

 少女が振り返る。

『いいの?』

『うん』

 そして。

 彼女は。

 外へ出る。

 夢の中の自分は。

 追わなかった。

 そこで。

 景色が変わる。

 現在のリリアがいた。

 学院の制服。

 銀白色の髪。

 青紫色の瞳。

 彼女が手を差し出す。

 夢の中のレオンハルトは。

 その手を取ろうとした。

 でも。

 触れる直前。

 黒い何かが。

 二人の間へ落ちた。

『間違いだ』

 あの声。

『新しい選択など必要ない』

 世界が。

 黒く染まる。

『十三度目を始める』

 レオンハルトは目を覚ました。

 暗い部屋で。

 呼吸を整える。

 夢。

 ただの夢ではない。

 分かっている。

 でも。

 怖くはなかった。

 今日。

 リリアが言った。

 私は私。

 なら。

 自分も。

 今の自分として。

 選べばいい。

 レオンハルトは。

 窓の外を見る。

 月は。

 普通の色をしていた。

 それでも。

 遠く。

 誰にも見えない場所で。

 何かが。

 動き始めていた。
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