魔法より、君に恋をする。

レオンハルトルート 第42章 守ること、選ばせること


 翌朝、リリアは鏡の前で自分の顔を見ながら、昨日のことを思い出していた。

 黒い月や十三本目の線ではない。

 キスの方だった。

 唇へ触れた感触を思い出した途端、鏡の中の自分の頬が少し赤くなった気がして、リリアは両手で顔を押さえた。

「……思ったより恥ずかしい」

 昨日はその場の流れもあって聞けた。「キスしたい?」なんて、今考えるとかなり直接的だった気がする。レオンハルトもよく普通に答えてくれたと思う。

 もう一度したいかと聞かれれば、したい。

 でも今日会った瞬間に意識しそうで、それはそれで困る。

 そんなことを考えながら女子寮を出ると、正門の近くには今日もレオンハルトがいた。

「おはよう、リリア」

「おはようございます」

 目が合う。

 昨日までなら普通に顔を見られたのに、今日は無意識に唇へ視線が行った。

 まずい。

 慌てて目を逸らす。

「どうしたの?」

「何でもないです」

「本当に?」

「はい」

 レオンハルトが少し黙る。

「……もしかして、昨日のこと?」

「レオン先輩」

「うん?」

「言わないでください」

「僕、まだ何も言ってないよ」

「顔に書いてあります」

「君もね」

 見れば、レオンハルトの耳も少し赤い。

「レオン先輩も恥ずかしい?」

「かなり」

「よかった」

「何が?」

「私だけじゃない」

 そう言うと、二人とも少し笑った。

 付き合ったからといって、急に何でも自然にできるようになるわけではないらしい。昨日より近くなった分だけ、今まで気にしなかったことまで意識する。

「手は?」

 レオンハルトが聞く。

「繋ぎたい」

「それは平気なんだ」

「昨日も繋いだので」

「キスも昨日したよ?」

「回数の問題?」

「僕に聞かれても」

 二人で首を傾げてから、また笑った。

 リリアが手を差し出すと、レオンハルトが指を絡める。

 それだけで落ち着いた。

     *

 昼休み、生徒会室へ呼ばれた。

 昨日現れた黒い月について、ルシアンが追加の記録を見つけたらしい。

 部屋には六人全員が揃っていた。リリアとレオンハルトが並んで入ると、アレンが繋いだままの手を見る。

「お前ら最近ずっとそれだな」

「駄目ですか?」

「駄目とは言ってねえ」

「じゃあいいですね」

「なんで俺が負けたみたいになってんだ」

「アレン、諦めろ」

 カイルが淡々と言う。

「お前は最近ずっと負けている」

「何にだよ!」

「知らん」

「知らねえなら言うな!」

 そのやり取りに、セシルが笑う。

 ノアもいつものように笑っていたが、リリアと目が合うと少しだけ表情を柔らかくした。

「それで、何が分かったの?」

 リリアが聞くと、ルシアンは机に置かれた古い資料へ視線を落とした。

「黒い月の正体に近い記録だ」

 空気が変わる。

「黒い月は、最初から神だったわけではない」

「じゃあ何なんですか?」

「人間の願いだ」

 予想していなかった答えだった。

「昔、最初の世界が崩壊しかけた時、人間たちは大量の魔力を使って世界そのものへ願った。生きたい、やり直したい、失った人を取り戻したい、今度こそ間違えたくない。そうした感情と魔力が長い時間をかけて集積し、黒い月の基礎になった」

「じゃあ、悪いものじゃなかった?」

 セシルが尋ねる。

「最初はね」

 ルシアンは頷く。

「問題は、願いが一つの意思を持ったことだ。やり直せば救える、正しい結末へ到達するまで繰り返せばいい。そんな思想だけが肥大化し、自分自身を世界の管理者だと思い始めた」

「それが偽神?」

 ノアが聞く。

「おそらく。黒い月そのものと偽神を完全に同一視していいかはまだ分からない。ただ、少なくとも僕たちへ干渉している意思は、そこから生まれたものだ」

 リリアは自分の右腕を見る。

 今日は線が出ていない。

「なんで私を器って呼ぶの?」

「そこも少し分かった」

 ルシアンが別の記録を開く。

「最初のリリアは、自然に生まれた存在ではなかった」

 部屋が静かになる。

 レオンハルトの手が僅かに動いた。

「どういう意味?」

「人間側が作った世界の中心だ。黒い月の力を利用しながらも、その意思に世界を完全に預けることを恐れた当時の魔術師たちは、自分たちの側にも世界を維持する核を作ろうとした」

「それがリリア?」

「ああ。人類の生存を願う魔力と、非常に高い適合性を持った一人の人間の魂を材料にした」

 ルシアンはそこで一度言葉を止めた。

 紫色の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。

「その人間が誰だったのかは、まだ今話す必要はない」

 リリアは少し気になったが、ルシアンの表情を見て追及しなかった。

「最初のリリアは世界を維持するための器として作られた。けれど、彼女は意思を持った。好きなものを作り、嫌いなものを拒み、誰かを愛し、自分の未来を選ぼうとした。それが偽神にとって最初の大きな誤算だった」

「だから十二回も作り直した?」

「そう考えている。世界が崩れるたび、リリアを中心に置いて再構築し、今度こそ正しい選択をさせようとした」

「正しい選択って何?」

「それはまだ分からない。ただ、偽神が望む形へ世界を固定するために必要な選択だった可能性が高い」

 リリアは眉を寄せた。

「迷惑」

「簡潔だね」

「勝手に十二回もやり直して、今度は私にもやれってことでしょ?」

「おそらく」

「嫌です」

「僕もそう思う」

 ルシアンが僅かに笑う。

「そして今の君は、最初のリリアとも十二回の再構築で生まれたリリアとも違う。世界の中心にいるのに、偽神の想定した器ではない」

「エリシア」

「そう。君は初めて、あいつが用意していない魂で世界の中心へ立った」

 十三本目。

 十二回の円環から外へ伸びた線。

 その意味が、少しずつ繋がっていく。

「じゃあ、十三本目を完成させれば」

「この世界は偽神の再構築から完全に外れる可能性がある」

 ルシアンが答える。

「ただし、あちらもそれを理解しただろう。昨日の接触は、たぶん警告だ」

「次は?」

 レオンハルトが聞く。

「もっと直接的に来る」

     *

 その予想は、その日の放課後に当たった。

 リリアとレオンハルトは二人で学院の廊下を歩いていた。

「今日、一緒に帰ります?」

「もちろん」

「寄り道したい」

「どこへ?」

「甘いもの」

「昨日も食べてなかった?」

「昨日は昨日です」

「太るよ?」

「レオン先輩」

「はい」

「今のは良くない」

「ごめんなさい」

「早い」

「兄から、女性の食べるものに余計なことを言うなって教えられてる」

「お兄さん偉い」

「今のは僕が悪かったね」

「じゃあ奢ってください」

「それは元からそのつもりだった」

「許します」

 話しながら階段を下りる。

 あと少しで玄関だった。

 突然。

 周囲の音が消えた。

 リリアが足を止める。

「レオン先輩?」

「リリア」

 繋いでいた手に力が入る。

 窓の外が黒い。

 夕方だったはずなのに、光がない。

「また?」

 リリアの右腕へ十三本の線が浮かぶ。

 同時に。

 声がした。

『今度こそ守れる』

 昨日の声。

「偽神?」

『その呼び名は正しくない』

「じゃあ名前は?」

 返事はない。

「名乗らないなら偽神でいいです」

「リリア、そこ気にする?」

「大事です」

 レオンハルトが僅かに笑った。

 その瞬間。

 景色が変わった。

     *

 王宮。

 夢で見た場所だった。

 レオンハルトには分かった。

 重い扉。

 豪奢な部屋。

 窓辺にいる銀白色の少女。

 ただし。

 そこにいるのは。

 過去のリリアではない。

「……私?」

 今のリリアだった。

 学院の制服。

 白銀のネクタイ。

 驚いた顔で自分を見る。

「レオン先輩」

 扉が閉まる。

 鍵が掛かる。

「開かない」

 リリアが触れる。

 魔法を使う。

 壊れない。

『ここなら死なない』

 声が響く。

『外へ出さなければ、失わない』

 レオンハルトの目の前に映像が現れる。

 学院が崩れる。

 リリアが戦う。

 血を流す。

 倒れる。

 死ぬ。

 何度も。

 何度も。

 違う未来。

 それでも。

 最後は同じ。

 リリアが死ぬ。

『自由にすれば失う』

 レオンハルトの呼吸が浅くなる。

『お前は知っている』

 知っている。

 夢の中で。

 一度。

 扉を開けた。

 彼女を外へ出した。

 そして。

 自分は死んだ。

『今度は違う』

 声が囁く。

『閉じ込めれば、生きる』

 目の前に鍵が現れた。

 手を伸ばせば。

 この部屋を。

 完全に封じられる。

「レオン先輩」

 リリアの声。

 見る。

 彼女は。

 怖がっている。

「これ、偽物ですよね」

「……たぶん」

「じゃあ出ましょう」

「うん」

 答えた。

 でも。

 目の前の映像が。

 また。

 リリアの死を映す。

『外へ出せば死ぬ』

 手が。

 鍵へ向かいそうになる。

「レオン先輩」

 もう一度。

 呼ばれる。

「私見て」

 顔を上げる。

 青紫色の瞳。

「今、閉じ込めた方がいいと思った?」

 嘘をつきたくなかった。

「……一瞬」

「そっか」

「ごめん」

「なんで謝るんですか?」

「怖かったから」

「私が死ぬのが?」

「うん」

 レオンハルトは正直に言った。

「怖い。昨日までは、自由を奪って守るなんて間違ってるって簡単に言えた。でも、実際に君が死ぬところを見せられたら……閉じ込めれば本当に助かるなら、それでもいいんじゃないかって、一瞬思った」

「うん」

「最低だと思う?」

「思わない」

 即答だった。

「怖いなら思うことくらいあるでしょ」

「でも僕は」

「まだ何もしてない」

 リリアは扉から離れた。

 レオンハルトの前へ来る。

「思ったことと、選ぶことは違うって、ルシアン先輩も言ってた」

「……そうだね」

「私も怖いです」

「何が?」

「死ぬの」

 当たり前のようで。

 その言葉を。

 初めて聞いた気がした。

「私だって死にたくない。レオン先輩とまだ全然付き合ってないし」

「そこ?」

「大事です。一日ですよ?」

「二日目だよ」

「まだ二日」

「確かに」

「次の休日も決めてないし、卒業もしてないし、やりたいことも決まってない」

 リリアが。

 レオンハルトの手を取る。

「だから、生きたいです」

 その言葉が。

 胸に入る。

「でも、閉じ込められて生きるのは嫌」

「……うん」

「だから」

 握る。

「一緒に出よう」

 レオンハルトは。

 その手を見る。

 昔。

 守ることと。

 自由にすることを。

 二つの選択肢だと思っていた。

 どちらかしか。

 選べないと思った。

 でも。

「一緒に、か」

「嫌?」

「まさか」

 レオンハルトは。

 鍵を見た。

 そして。

 拾わなかった。

「行こう」

 二人で。

 扉へ向かう。

『死ぬぞ』

「かもしれない」

『失うぞ』

「かもしれない」

『ならば閉じ込めろ』

「嫌だ」

 レオンハルトは。

 扉へ手を触れる。

「僕は、彼女が生きる未来を望む。でも、その未来を選ぶために彼女の人生を奪うなら、それは守ったことにならない」

『また失う』

「失わないために、一緒に考える」

 隣を見る。

 リリアがいる。

「僕一人で決めない」

 リリアが笑う。

「それがいい」

 二人の手が。

 同時に。

 扉へ触れた。

 十三本目の線が。

 光る。

 扉が。

 砕けた。

     *

 気づくと。

 学院の廊下だった。

 夕方。

 外には。

 普通の空。

「戻った?」

「みたいだね」

 二人とも。

 しばらく動かなかった。

「……怖かった」

 レオンハルトが言った。

「私も」

「抱きしめていい?」

「毎回聞くんですか?」

「聞いた方がいいかなって」

「今は聞かなくてもいいです」

 言った瞬間。

 腕が回る。

 昨日より。

 少し強い。

 でも。

 苦しくはない。

 リリアも背中へ腕を回した。

「レオン先輩」

「うん?」

「心臓速い」

「怖かったから」

「私も」

 しばらく。

 そのまま。

 落ち着くまで。

 離れなかった。

 やがて。

 レオンハルトが小さく息を吐く。

「リリア」

「何?」

「一つお願いしていい?」

「うん」

「危ないことをする時、僕に相談して」

「全部?」

「できれば」

「レオン先輩も?」

「もちろん」

「勝手に死なない?」

「死なない」

「一人で守ろうとしない?」

「努力する」

「そこは絶対じゃないんだ」

「長年の癖だから」

「じゃあ私が止めます」

「お願い」

 少しだけ離れる。

 顔を見る。

 近い。

 昨日より。

 慣れた。

 でも。

 まだ。

 少し恥ずかしい。

「……キスする?」

 今度は。

 レオンハルトから聞いた。

 リリアは。

 少し笑った。

「したいんですか?」

「したい」

「じゃあいいですよ」

「君は?」

「私もしたい」

 それを聞いて。

 レオンハルトが笑う。

「ならよかった」

 頬に手が触れる。

 昨日と同じように。

 ゆっくり近づく。

 今度は。

 リリアも目を閉じた。

 触れる。

 昨日より。

 ほんの少しだけ長い。

 離れたあと。

 額が触れそうな距離で。

 二人とも笑った。

「昨日より恥ずかしくない」

 リリアが言う。

「慣れるの早くない?」

「いいこと?」

「たぶん」

「もう一回は?」

「リリア」

「何?」

「それ以上慣れると、僕が困る」

「なんで?」

「……そのうち分かるよ」

「またそれ」

 不満だった。

 でも。

 レオンハルトの顔が。

 少し赤い。

 それを見て。

 追及するのは。

 やめておいた。

     *

 その夜。

 リリアの右腕に。

 十三本の線が現れた。

 今まで。

 外へ伸びるだけだった。

 十三本目。

 その先端が。

 ほんの少し。

 曲がった。

 円を。

 作ろうとしている。

 同じ頃。

 学院の地下。

 誰もいないはずの部屋で。

 十二個の黒い石が。

 一斉に光った。

 その隣。

 何もなかった場所へ。

 十三個目の石が。

 ゆっくり。

 形を作り始める。

 表面に。

 文字が浮かぶ。

 最初は。

 読めない。

 やがて。

 二つの名前へ変わった。

 《LILIA》

 《LEONHART》

 そして。

 その下へ。

 もう一つ。

 《SELECTION》

 黒い月の声が。

 誰にも聞こえない場所で。

 静かに囁いた。

『ならば、選べ』
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