魔法より、君に恋をする。
レオンハルトルート 第44章 あなたは誰
レオンハルトの問いを聞いた途端、銀白色の髪の少女は笑うのをやめた。
夢の中にあるはずの王宮は異様なほど静かで、窓の外には星も月も見えない。少女の背後に浮かぶ黒い月だけが、この空間に不自然な光を落としていた。
『誰、って』
少女は戸惑ったように自分の胸へ手を置いた。
『リリアよ』
「それは名前だろう?」
『あなたが愛したリリア』
「僕は君を愛した記憶がない」
少女の顔が僅かに歪む。
『思い出せば分かる』
「だから思い出さないと決めたんだ」
『どうして?』
「今の僕には、今の僕の人生があるから」
答えると、少女は悲しそうに目を伏せた。
その表情を見た瞬間、レオンハルトの胸が痛んだ。夢を通して流れ込んできた過去の感情が反応しているのか、それとも単純に目の前で傷ついた顔をされることが苦しいのか、自分でも分からない。
けれど、分からないからこそ決めつけてはいけないと思った。
「君は、本当に過去のリリアなの?」
『そうよ』
「最初のリリア?」
少女が黙る。
「それとも第七世界で僕が愛したリリア?」
返事はない。
「十二回のうち、どのリリア?」
『私は……』
少女の瞳が揺れる。
『リリア』
「それしか分からない?」
『違う』
「じゃあ教えて」
レオンハルトは一歩近づいた。
「君自身のことを」
少女が息を呑む。
「何が好き?」
『え?』
「食べ物でも、花でも、色でもいい。何が好き?」
『私は……』
「何が嫌い?」
『……』
「どこへ行きたい?」
『……』
「何をしたい?」
質問するたびに、少女の顔から自信が消えていく。
『分からない』
やがて小さな声が落ちた。
『何も、分からない』
レオンハルトは少女を見つめた。
敵意は感じない。
むしろ。
彼女自身が一番混乱している。
「なら、君はまだ自分が誰なのか知らないんじゃない?」
『私はリリアよ』
「それは誰に教えられた?」
少女が振り返る。
黒い月。
『……あれが』
「君自身が決めた名前じゃない?」
『分からない』
「僕を愛してる?」
『愛してる』
「どうして?」
『だって、私はあなたを――』
そこで言葉が止まる。
少女は胸を押さえた。
『あなたを……』
何度繰り返しても、その先が出てこない。
レオンハルトはようやく理解した。
この少女は嘘をついているわけではない。
与えられた情報を、本当だと思っているだけだ。
「君は僕を知らないんだね」
少女が顔を上げる。
「僕も君を知らない」
『違う』
「違わないよ」
『あなたは私を愛していた』
「過去の僕は、誰かを愛していた。それは否定しない」
レオンハルトは静かに答えた。
「でも、その人が君なのかどうかを、僕は知らない」
『私よ』
「なら、君自身の言葉で教えて」
少女の唇が震える。
「記録じゃなく、誰かに決められた役割でもなく、君自身が何を思ってるのかを聞かせて」
長い沈黙のあと、少女は小さく首を振った。
『分からない』
「うん」
『何も分からない』
「なら、そこからでいいんじゃない?」
少女が驚いた顔をする。
『……私を、偽物だと言わないの?』
「偽物かどうかも僕には判断できない」
『でも私は、あなたの恋人だったリリアじゃないかもしれない』
「たぶん、そうなんだと思う」
『なら私は何?』
「それを僕に決めさせるの?」
少女は何も言えなくなった。
「君が決めればいい」
その瞬間、黒い月が大きく揺れた。
『不要だ』
空間全体が震える。
『記録に意思は必要ない』
少女の身体が透け始めた。
『……嫌』
初めて。
与えられたものではないように聞こえる声だった。
『消えたくない』
レオンハルトは反射的に手を伸ばした。
しかし指先が触れる直前、黒い光が二人の間を裂いた。
*
リリアが目を覚ましたのは、まだ夜明け前だった。
理由もなく胸騒ぎがした。
ベッドから起き上がった瞬間、右腕に十三本の線が浮かび、そのうち一本が黒く点滅している。
「……レオン先輩?」
なぜか、すぐにそう思った。
着替える時間すら惜しくて、寝間着の上に上着を羽織り、女子寮を飛び出した。
当然、男子寮へは入れない。
だから途中で方向を変えた。
生徒会室。
ルシアンなら何か分かるかもしれない。
夜明け前なのに灯りがついていた。
「ルシアン先輩!」
扉を開ける。
ルシアンがいた。
「来ると思った」
「レオン先輩が変です」
「君にも分かるか」
「何が起きてるんですか?」
「十三個目の石が、レオンハルトと接続した」
「切れます?」
「試している」
机の上には大量の術式が広がっていた。
「私もやります」
「できる?」
「分かりません。でもやる」
リリアは迷わず隣へ座った。
「何すればいい?」
ルシアンが一瞬だけこちらを見る。
「君、本当に変わったね」
「今それ必要?」
「必要ない」
「じゃあ早く」
「分かった」
説明を受ける。
十三本目の線へ魔力を流し、レオンハルトとの接続点を探す。
普通の魔法ではない。
術式もない。
だから。
自分の魔法を使う。
「《可能性創造》」
右腕が光る。
視界が白く染まった。
*
次に目を開けた時。
リリアは知らない王宮に立っていた。
「……どこ?」
「リリア?」
声。
振り返る。
「レオン先輩!」
いた。
駆け寄る。
そのまま抱きつきそうになって、直前で止まる。
「本物?」
「たぶん」
「合言葉」
「決めてないよ」
「じゃあ私の好きな食べ物」
「苺のタルト」
「方向音痴?」
「かなり」
「余計」
「本物っぽい?」
「はい」
安心した途端、今度こそ抱きついた。
レオンハルトの腕もすぐに背中へ回る。
「心配した」
「ごめん」
「寝てたら腕が光った」
「僕も寝てた」
「夢?」
「たぶん、それに近い場所」
少し離れる。
そこで。
もう一人いることに気づいた。
銀白色の髪。
青紫色の瞳。
自分と。
よく似た少女。
「……私?」
『違う』
少女が答える。
『たぶん』
「たぶん?」
『私も分からない』
リリアは少女を見る。
不思議な感覚だった。
以前なら。
過去の自分だと思ったかもしれない。
でも今は違う。
「あなたが昔のリリア?」
『そう言われた』
「誰に?」
少女が黒い月を見る。
「偽神?」
『うん』
「じゃあ信用できないね」
『……あなた、自分と同じ顔をしている私を見て、それだけ?』
「似てるけど同じじゃない」
『どうして分かるの?』
「なんとなく」
「そこはもう少し理屈が欲しいな」
レオンハルトが苦笑する。
「でも違うでしょ?」
「僕もそう思う」
「ならいいです」
少女は呆然としている。
『怖くないの?』
「何が?」
『私が、あなたの代わりになるかもしれない』
リリアは少し考えた。
「嫌です」
『……そう』
「でも、あなたがいることが嫌なんじゃない」
少女が顔を上げる。
「私の代わりにされるのが嫌。私があなたの代わりにされるのも嫌」
『同じ顔なのに?』
「顔で人決めるの?」
『……』
「私はリリアで、エリシアでもある。あなたは?」
少女は答えられない。
「名前ない?」
『リリアだと言われた』
「それ使いたい?」
『分からない』
「じゃあ後で決めればいいよ」
『後で?』
「うん」
『私に、後があるの?』
その問いに。
リリアは黙った。
確約できない。
だから。
嘘はつかなかった。
「分からない」
『……』
「でも、あってほしいとは思う」
少女の瞳が揺れる。
『どうして?』
「消えたくないんでしょ?」
『うん』
「じゃあ、それで十分じゃない?」
黒い月が。
大きく震えた。
『記録に未来はない』
「また勝手に決めてる」
リリアは空を見る。
「そればっかりですね」
『記録は過去を保存するものだ』
「でも今、話してる」
『与えられた反応だ』
「じゃあ『消えたくない』も?」
沈黙。
「それも最初から入れたの?」
答えない。
少女が自分の胸へ手を置く。
『……違う』
小さな声。
『あれは、私が思った』
リリアは笑った。
「じゃあ一個見つかった」
『何が?』
「あなた自身」
少女の目から。
涙が落ちた。
『私……』
その瞬間。
空間が激しく揺れた。
『不要』
黒い月から無数の黒い糸が伸びる。
少女の身体へ絡みつく。
『記録を回収する』
「待って!」
リリアが手を伸ばす。
届かない。
『嫌!』
少女が叫ぶ。
レオンハルトが動いた。
黒い糸を掴む。
「レオン先輩!」
「リリア、彼女を!」
「うん!」
リリアが少女の手を取る。
触れた。
冷たい。
でも。
確かに感触がある。
『どうして』
少女が泣いている。
『どうして助けるの?』
「助けたいから!」
『私はあなたじゃないのに』
「だからだよ!」
リリアは手を離さない。
「あなたは私じゃない。だから、私があなたの人生を決める権利もない!」
十三本目の線が光る。
「生きたいなら、自分で言って!」
『……』
「私に言わされるんじゃなくて!」
少女の顔が歪む。
怖い。
消えたくない。
でも。
初めて。
自分で。
選ばなければならない。
『私は』
黒い糸が。
さらに強くなる。
『私は、生きたい!』
叫んだ。
光が爆発した。
*
黒い月に。
亀裂が入る。
十三本目の線が。
また伸びる。
円まで。
あと少し。
『なぜだ』
偽神の声が揺れる。
『記録に選択は存在しない』
「したよ」
リリアは少女の手を握ったまま答える。
「今」
『あり得ない』
「私もそう言われた」
リリアは。
少し笑った。
「でも、いるよ」
偽神の声が。
止まる。
レオンハルトが。
隣へ来る。
「君の間違いは、ずっと同じなのかもしれないね」
『何?』
「人を役割で決めることだ」
黒い月を見る。
「リリアは器。僕は王子。彼女は記録。そう決めたら、そこから変わることを許さない」
『役割は世界を維持する』
「でも、人は役割だけで生きてるわけじゃない」
レオンハルトが。
リリアの手を取る。
反対の手では。
リリアが少女と繋がっている。
「僕は王子だけど、それだけじゃない」
リリアを見る。
「彼女は世界の中心にいる。でも、それだけじゃない」
少女を見る。
「そして君も、記録として生まれたとしても、それだけで終わる必要はない」
少女の涙が。
また落ちる。
『私にも』
声が震える。
『これからが、ある?』
「欲しい?」
レオンハルトが聞く。
少女は。
今度は。
迷わなかった。
『欲しい』
十三本目の線が。
強く光った。
*
空間が崩れ始める。
「まずい」
レオンハルトが周囲を見る。
「リリア、戻るよ」
「この子は?」
少女の手を握る。
「置いていけない」
『私は』
少女自身も。
怖そうに周囲を見る。
『どこへ行けばいいの?』
その時。
別の声が響いた。
『こちらへ』
「ルシアン先輩?」
空間の端に。
紫色の光が現れる。
『記録領域へ退避させる。肉体として現実へ出すことはできないが、意識情報を保存することはできる』
「消えない?」
『保証はできない。ただ、偽神へ戻すよりは可能性がある』
リリアは少女を見る。
「どうする?」
少女が驚いた顔をする。
『私が決めるの?』
「当たり前でしょ」
少女は。
紫色の光を見る。
そして。
リリアを見る。
『行きたい』
「うん」
『消えたくない』
「うん」
『それから』
少しだけ。
笑った。
『自分の名前を考えたい』
「いいと思う」
リリアは。
手を離す。
今度は。
奪われるからではない。
彼女自身が。
行くために。
『ありがとう』
少女が紫色の光へ向かう。
その途中で。
振り返った。
『レオン』
「うん」
『あなたが愛した人が私なのか、私はまだ分からない』
「僕も分からない」
『でも』
少女は。
穏やかに笑った。
『知らなくてもいい気がする』
「僕もそう思うよ」
『さようなら』
「さようならじゃなくていい」
少女が目を瞬く。
「またね、でいいんじゃない?」
レオンハルトが言った。
少女は。
少し驚いて。
それから。
今までで一番自然に笑った。
『……またね』
光の中へ。
消えた。
*
リリアが目を覚ますと。
生徒会室の床に座り込んでいた。
「……戻った」
「おかえり」
ルシアンの声。
隣を見る。
「レオン先輩は?」
「男子寮。今頃起きているだろう」
「会いに行く」
「今?」
「今」
「まだ夜明け前だよ」
「待てません」
立ち上がる。
少しふらついた。
「無理するな」
「大丈夫」
「方向は?」
「男子寮」
「場所を聞いている」
「……連れてってください」
「そう言うと思った」
*
男子寮へ入ることはできないため。
ルシアンが呼び出した。
数分後。
レオンハルトが上着を羽織っただけの姿で出てきた。
「リリア」
「レオン先輩」
顔を見た瞬間。
安心した。
走る。
今度は。
止まらなかった。
そのまま抱きつく。
「わ」
レオンハルトが受け止める。
「本物?」
「また確認する?」
「念のため」
「苺のタルトが好きで、方向音痴で、思ったより積極的で――」
「最後いらない」
「本物でしょ?」
「本物」
胸元へ顔を押しつける。
「よかった」
「うん」
腕が。
背中へ回る。
「彼女は?」
「ルシアン先輩が保存できたって」
「そっか」
「まだ何なのかは分からないみたい。でも、消えてない」
「よかった」
少しの間。
二人とも。
何も言わなかった。
夜明け前。
寒い。
でも。
レオンハルトの腕の中は。
暖かかった。
「レオン先輩」
「うん?」
「昔のリリアに会って、どうでした?」
「嫉妬してる?」
「ちょっとだけ」
「正直だね」
「だって顔ほぼ私だったし」
「でも違った」
「うん」
「君じゃなかった」
リリアが。
顔を上げる。
「それだけ?」
「それだけで十分じゃない?」
「……もうちょっと欲しい」
「珍しいね」
「彼女なので」
レオンハルトが笑う。
「じゃあ」
頬へ。
手が触れる。
「僕が今、会えて嬉しいのは君だよ」
「うん」
「抱きしめたいと思うのも」
「うん」
「キスしたいと思うのも」
そこで。
リリアは少し笑った。
「今したい?」
「したい」
「私も」
今度は。
聞くだけで。
恥ずかしくならなかった。
顔が近づく。
夜明け前の。
誰もいない庭。
唇が。
柔らかく触れる。
一度。
それだけ。
離れたあと。
リリアは。
レオンハルトの胸元へ。
もう一度。
顔を寄せた。
「眠い」
「そりゃそうだよ」
「今日授業ある?」
「ある」
「休みたい」
「駄目」
「王子の力で」
「使いません」
「彼氏の力で」
「それも無理」
「役に立たない」
「ひどいな」
笑いながら。
二人で。
朝を待った。
世界は。
まだ終わっていない。
十三本目の線も。
まだ完成していない。
それでも。
過去から作られた存在が。
初めて。
自分の未来を欲しいと言った。
その選択は。
確かに。
世界を。
少しだけ。
変えていた。
*
学院地下。
十三個目の石。
《ALTERNATIVE SELECTION》
その文字が。
消える。
代わりに。
新しい文字が。
浮かんだ。
《FINAL SELECTION》
その下。
《LILIA》
《LEONHART》
そして。
もう一つ。
今までなかった文字。
《KINGDOM》
黒い月が。
静かに。
王都の上空へ。
姿を現し始めた。