魔法より、君に恋をする。

アレンルート 第41章 恋人になった次の日



 恋人になったからといって、翌日から何かが劇的に変わるわけではないらしい。

 少なくともリリアはそう思っていたのだが、朝、女子寮を出ていつもの渡り廊下へ向かったところで、その認識は早くも少しだけ揺らいだ。

「おはよ」

 昨日と同じ場所にアレンがいる。制服をきちんと着ているように見えて、蒼色のネクタイは少し緩い。壁にもたれていた彼はリリアを見つけるとすぐに身体を起こし、こちらへ歩いてきた。

「おはようございます」

「……おう」

「何?」

「いや」

 アレンは何か言いたそうにリリアを見るものの、なかなか続きが出てこない。

「顔に何かついてる?」

「ついてねえ」

「髪?」

「いつも通り」

「じゃあ何?」

「彼女だなと思って」

 朝から真正面に投げられた言葉に、リリアは一瞬黙った。

「昨日も言ってましたね」

「昨日は昨日だろ。朝起きたら夢だったとかありそうじゃん」

「夢じゃないですよ」

「分かってるけど、確認したくなる」

 アレンが少し照れたように笑う。その顔を見た途端、昨日のことを思い出した。告白して、抱きしめられて、初めてキスをした。しかも一度ではなく二度した。

 そこまで思い出したところで、急に顔が熱くなった。

「……リリア?」

「何?」

「今、何考えた?」

「何も」

「絶対嘘だろ。顔赤いぞ」

「アレン先輩のせいです」

「俺まだ何もしてねえけど」

「昨日した」

 言った瞬間、アレンまで黙った。

 二人で見つめ合ったまま数秒が過ぎ、先に目を逸らしたのはアレンだった。

「朝から思い出させんなよ」

「アレン先輩が聞いたんでしょ」

「そうだけど」

「私だけ恥ずかしいの嫌です」

「俺も恥ずかしいわ!」

 結局、恋人になってもこのやり取りは変わらないらしい。それがなんだか嬉しくて、リリアは笑いながらアレンの隣へ並んだ。

 歩き始めてすぐ、手と手が近づく。

 昨日までは繋いでいいのか少し迷っていたのに、今日は恋人なのだから迷う理由がないはずだった。それなのに、かえって意識してしまって自分から触れられない。

 隣を見ると、アレンも妙に姿勢が固い。

「アレン先輩」

「何だ?」

「手」

「……おう」

「なんで緊張してるの?」

「お前もだろ」

「私は普通です」

「じゃあ繋げよ」

「アレン先輩が繋いで」

「何でだよ」

「彼氏だから」

「その使い方ずるくねえ?」

「彼氏でしょ?」

「そうだけど」

 言いながらも、アレンの手が伸びてくる。指が触れ、そのまま自然に絡んだ。

 昨日まで何度も繋いでいたはずなのに、恋人になってから初めてだと思うだけで妙に嬉しい。

「……やっぱ違う」

「何が?」

「昨日までと」

「俺も思った」

「何が違うんだろ」

「知らねえけど、堂々とできる」

「前から堂々としてたよ」

「確かに」

 二人で笑った。

 中央棟へ入ると登校してきた生徒が増え、何人かがこちらを見る。アレンは元々目立つし、リリアも学院内ではそれなりに知られている。しかも手を繋いで歩いているのだから、視線が集まるのは当然だった。

「見られてます」

「嫌か?」

「ちょっと恥ずかしい」

 そう答えると、アレンの指がわずかに緩んだ。離そうとしているのだと気づき、リリアは反射的に握り返した。

「でも離すほどじゃないです」

「……そっか」

「嬉しそう」

「嬉しいからな」

 アレンは隠さない。

 その素直さが、今は好きだった。

     *

 昼休みになると、アレンは宣言通り一年生棟まで迎えに来た。

「リリア、飯」

「待って。教科書しまう」

「おう」

 入口で待つアレンを見て、クラスメイトたちの視線が集まる。昨日までも何度か迎えに来ていたのだから、それ自体は珍しくない。それでも何となく空気が違う気がする。

 鞄を閉じて立ち上がると、セシルが隣から声をかけた。

「リリア」

「何?」

「もしかして昨日、言った?」

 何を、とは聞かなくても分かった。

「うん」

「そっか」

「付き合いました」

 セシルはほんの一瞬だけ目を伏せたあと、いつもの柔らかな笑顔を見せた。

「おめでとう」

「ありがとう」

「幸せそうだね」

「まだ一日だけど」

「一日目から幸せじゃないなら困るでしょ」

「確かに」

 リリアは笑ったが、セシルの表情にほんのわずかな寂しさが混ざったような気がした。ただ、それを問いかけるより先にアレンが入口から「まだか?」と声をかけてくる。

「今行きます」

「行っておいで」

「うん。またあとで」

 セシルに手を振り、アレンのところへ向かった。

「何話してた?」

「付き合ったって報告」

「俺らの?」

「他に誰がいるの?」

「いや、そうだけど。何か恥ずかしいな」

「アレン先輩、意外と恥ずかしがりですね」

「お前が恥ずかしがらなさすぎなんだよ」

「昨日キスする時は恥ずかしかった」

「廊下で言うな!」

 近くにいた一年生が振り返り、アレンが片手で顔を覆った。

「お前、本当に勘弁してくれ」

「聞かれたから答えただけなのに」

「もういい。飯行くぞ」

 耳まで赤くしたアレンに手を引かれながら、リリアは笑った。

 食堂ではいつものように向かい合って座った。アレンは肉料理、リリアはクリームソースのかかった魚料理を選び、昨日までと変わらない会話をする。

 授業が難しかったとか、教師が課題を出しすぎだとか、ノアが授業中に寝て怒られていたとか、そんな話ばかりだった。

 恋人になったのに、思っていたより普通だ。

 けれどリリアは、その普通が好きだった。

「アレン先輩」

「ん?」

「恋人って何するの?」

 肉を食べていたアレンの動きが止まる。

「急に難しいこと聞くな」

「付き合ったから気になった」

「俺も初めてだから知らねえよ」

「じゃあ二人で考える?」

「何を?」

「恋人っぽいこと」

「……キスとか?」

「昨日した」

「手繋ぐとか」

「してる」

「デート」

「飯食いに行ってる」

「じゃあもう全部やってる?」

「恋人の幅狭すぎだろ」

 アレンが笑う。

「別に何でもいいんじゃねえの?」

「何でも?」

「一緒に飯食うのも、帰るのも、訓練すんのも。恋人だからって特別なことばっかしなくてもいいだろ」

 リリアは少し意外に思った。

「アレン先輩、もっと恋人っぽいことしたいって言うかと思った」

「したいよ」

「したいんだ」

「そりゃな。でも、それだけじゃねえって話」

 アレンは少し考えるように視線を落とした。

「俺はたぶん、普通のことの方が欲しかったから」

 三百年。

 その言葉が頭に浮かぶ。

 誰もいない世界では、デートも手を繋ぐこともできなかった。でも、それ以前に誰かと食事をしたり、くだらないことで笑ったり、明日の予定を決めたりすることさえできなかったのだろう。

「じゃあ、いっぱい普通のことしよう」

「例えば?」

「一緒に勉強する」

「嫌だ」

「即答」

「勉強は一人でいい」

「古代魔法史教えてあげる」

「それはちょっと頼みたい」

「じゃあ図書館」

「おう」

「買い物も行く」

「荷物持ち?」

「彼氏だから」

「またそれ使ったな」

「便利」

「他は?」

「お昼寝」

「どこで?」

「芝生」

「いいな」

「あと、何もしない」

「何もしない?」

「一緒にいるけど、それぞれ好きなことする」

「……それもいいな」

 アレンが穏やかに笑う。

「全部やろうぜ」

「うん」

「時間あるしな」

 何気なく言われたその言葉に、リリアは少しだけ胸が温かくなった。

「そうですね」

「ああ」

「いっぱいある」

 アレンは一瞬だけ目を細めたあと、静かに頷いた。

「今度はな」

 その声にはまだ過去の痛みが混ざっていたけれど、それ以上は触れなかった。

     *

 放課後、約束通り二人で図書館へ向かった。

 目的は古代魔法史の勉強だったのだが、アレンは開始から二十分ほどで机へ頬杖をついていた。

「眠い」

「まだ二十分です」

「文字多すぎんだよ」

「歴史の本だから」

「もっと絵入れろよ」

「子どもの本じゃないんだから」

「魔法陣の図とかあるだろ」

「そこだけ見ても意味ないです」

 リリアが教科書を引き寄せる。

「ここ。第四王朝時代に魔力制御式の基礎が確立されて、そのあと――」

「待て」

「何?」

「近い」

 気づけば、アレンの隣へ椅子を寄せて同じ本を覗き込んでいた。

「見えないから」

「見えるけど」

「じゃあ離れる?」

「それは嫌だ」

「どっち?」

「近いのは嬉しい。でも集中できねえ」

「勉強してください」

「お前がいると無理」

「じゃあ帰ります」

「それはもっと無理」

「わがまま」

「彼氏だから」

 自分が使っていた言葉を返され、リリアは笑った。

「便利でしょ?」

「便利だな」

「でも何でも通るわけじゃないです」

「知ってる」

 アレンが身体を起こし、教科書へ視線を戻す。

「やるよ。教えて」

「はい」

 そこからは思ったより真面目に勉強した。

 アレンは興味がないだけで理解力は高いらしく、一度説明すると内容そのものはすぐに覚える。ただ、王の名前と年代になると途端に嫌そうな顔をした。

 一時間ほど経った頃、リリアは自分の課題へ移り、アレンも黙って問題集を解き始めた。

 会話はない。

 隣にいるだけ。

 時々ページを捲る音がして、窓の外から風の音が聞こえる。

 昼に話した「何もしない」に少し似ていた。

 リリアが問題を一つ解き終え、何となく横を見ると、アレンも同じタイミングで顔を上げた。

「何?」

「いや」

「見てた」

「お前もだろ」

「見たくなったから」

「俺も」

 それだけで、また教科書へ戻る。

 恋人になったからといって、ずっと触れていなくてもいい。話していなくてもいい。ただ隣にいることが分かるだけで、思っていた以上に心地よかった。

 しばらくして、机の下でアレンの指がリリアの小指へ触れた。

 顔を上げると、本人は何もなかったように本を読んでいる。

「アレン先輩」

「何だ?」

「手」

「勉強の邪魔?」

「逆」

 リリアは小指だけではなく、その手を握った。

「これならいい」

 アレンが少し笑う。

「俺、字書けねえけど」

「左手で書いて」

「無茶言うな」

「じゃあ見るだけ」

「お前が勉強させるって言ったんだろ」

 結局、数分で手を離した。

 それでも十分だった。

     *

 図書館を出る頃には日が傾いていた。

「腹減った」

「さっきお菓子食べてた」

「あれは別」

「夕飯まで我慢してください」

「寮戻ったらすぐ食う」

「太るよ」

「動いてるから平気」

「羨ましい」

 そんな話をしながら歩いていると、突然アレンが足を止めた。

「どうしたの?」

「……今、聞こえなかったか?」

「何が?」

 リリアも立ち止まり、周囲を見る。

 夕暮れの学院には帰寮する生徒が何人かいる。風が木々を揺らし、遠くで鐘の音が聞こえているだけで、特におかしなものはない。

「何も聞こえない」

「そうか」

 アレンの表情が険しくなっている。

「アレン先輩?」

「いや、気のせいかもしれねえ」

 そう言いながら、アレンはリリアの手を取った。

 さっきまでの甘い触れ方ではない。守るように引き寄せられ、リリアはその変化に気づいた。

「何が聞こえたの?」

 問いかけても、アレンはすぐには答えなかった。やがて周囲をもう一度確認してから、低い声で言う。

「俺の名前」

「誰かに呼ばれた?」

「ああ」

「知ってる声?」

 アレンは一度だけ目を閉じた。

「昔のお前の声だった」

 リリアは息を呑んだ。

 昨日、アレンから三つ目の世界について聞いたばかりだ。自分を殺したこと、その後三百年一人で過ごしたこと。だから最初は、記憶が鮮明になっただけなのかと思った。

「思い出したとかじゃなくて?」

「違う。外から聞こえた」

「何て?」

「名前だけだ」

 アレンはそう答えたものの、どこか納得していない顔をしている。

「ルシアン先輩に聞く?」

「……そうだな」

「今から行こう」

「今日はもう遅い。明日でいい」

「でも」

「大丈夫だ」

 アレンはいつものように笑おうとした。

 けれど、リリアはその笑顔を見て首を振った。

「大丈夫じゃない時にそれ言うの、もう分かるようになった」

「……マジかよ」

「彼女なので」

「そこでも使う?」

「使います」

 リリアは繋がれた手を握り返した。

「怖い?」

 アレンは少し迷ったあと、今度は誤魔化さなかった。

「ちょっとな」

「じゃあ一緒に行く」

「もう夕方だぞ」

「ルシアン先輩ならまだ生徒会室にいると思う」

「何で分かる?」

「前にこの時間でもいたから」

「会長働きすぎだろ」

「アレン先輩より真面目」

「比べんな」

 軽口を返してくれたことで、少し安心した。

 二人で生徒会室へ向かう。

 けれど歩き始めて間もなく、アレンがもう一度足を止めた。

 今度はリリアにも分かった。

 空気が変わった。

 夕方だったはずの廊下が、一瞬だけ暗くなったように感じた。窓の外にある空はまだ橙色なのに、床へ伸びた二人の影だけが不自然に濃くなる。

「リリア、俺の後ろ」

 アレンがすぐに前へ出る。

「私も戦える」

「分かってる。だから離れんな」

 言い方が以前と違った。

 守るから何もするな、ではない。

 一緒にいるために離れるな。

 リリアは素直に頷き、杖へ手を伸ばした。

 次の瞬間、廊下の壁に黒い亀裂のようなものが走った。

 現実の壁が壊れたわけではない。空間そのものへ細い線が入り、そこから暗い光が漏れている。

「十三本目……?」

 リリアが呟く。

 共通ルートで見たものと似ている。

 けれど何かが違う。

 黒い亀裂の向こうから、今度はリリアにも声が聞こえた。

『アレン』

 自分の声だった。

 けれど、自分は喋っていない。

 隣にいるアレンの身体が硬くなる。

「これ……」

「俺が聞いたのと同じだ」

 亀裂の向こうで、誰かが笑った。

 その声もリリアに似ている。

『見つけてくれたんだね』

 アレンの顔から血の気が引いた。

 リリアはすぐに彼の手を握った。

「アレン先輩、私を見て」

 返事がない。

「アレン」

 初めて、敬称を外した。

 赤い瞳が大きく見開かれ、ようやくこちらを見る。

「私、ここにいる」

「……リリア」

「うん」

 亀裂の向こうから、また声がする。

『約束したでしょう?』

 アレンの手が震える。

 それでもリリアは離さなかった。

「昔の私が何を約束したとしても、今ここにいるのは私です」

「分かってる」

「じゃあ私を見る」

「ああ」

「一人で行かない」

「ああ」

「私を置いていかない」

 その言葉を口にした瞬間、アレンの表情が変わった。

 昔、彼が自分に願った言葉とは逆だった。

 もう俺を置いていくな。

 そう願い続けた人へ、今度はリリアが言う。

「一緒に行くよ」

 アレンはしばらくリリアを見つめていたが、やがて震えていた手へ力を込めた。

「……分かった」

 彼は剣を抜いた。

「一緒に行く」

 リリアも杖を構えた。

 二人が並んだ瞬間、黒い亀裂は大きく開き、向こう側に赤い空が見えた。

 崩れた街。

 誰もいない道。

 そして遠くに、小さな墓が一つあった。

 アレンが三百年間、一人で生きた世界だった。

 その光景を見た彼の呼吸が止まる。

 リリアは繋いだ手を強く握った。

「行ける?」

「……行きたくはねえな」

「私も」

「でも行くしかなさそうだ」

「じゃあ行こう」

 アレンが横を見る。

「怖くねえの?」

「怖いですよ」

「なら」

「でも、一人で行かせる方が嫌」

 その言葉に、アレンは一瞬だけ目を伏せたあと、ほんの少し笑った。

「本当にお前は、昔と全然違うな」

「今の方が好き?」

 こんな状況なのに聞いてしまった。

 アレンは呆れた顔をしたあと、迷わず答えた。

「好きだよ」

「じゃあよし」

「何がよしなんだよ」

「確認」

「今することか?」

「怖かったから」

 正直に言うと、アレンの表情が柔らかくなった。

「俺も怖い」

「うん」

「だから離すなよ」

「アレン先輩もね」

 手を繋いだまま、二人で亀裂の前へ立つ。

 向こう側には、アレンがずっと置いてきたかった三百年が待っている。それでも今度の彼は一人ではなく、リリアもまた守られるだけの存在として隣にいるわけではなかった。

 過去が呼んでいるから行くのではない。

 過去に連れ戻されるためでもない。

 今の二人で、そこに残っているものが何なのか確かめるために行く。

「行くぞ、リリア」

「うん」

 二人は同時に一歩を踏み出した。

 世界の境界を越える直前まで、繋いだ手は一度も離れなかった。
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