魔法より、君に恋をする。
アレンルート 第40章 今のあなたが好き
翌朝、リリアはいつもより早く目を覚ました。
昨夜はなかなか眠れなかった。目を閉じるたびに思い出したのは、三百年という途方もない時間のことだった。誰もいない世界で一人きりになり、自分が殺した少女の墓へ毎日通い、返事のない相手に話しかけ続けたアレン。その孤独を想像すると今でも胸が痛むし、そんな時間を過ごした彼を抱きしめたいと思う気持ちも消えていない。
けれど、それだけではなかった。
朝早くから自分を待っているアレン。甘いものが好きだと言えば焼き菓子を買ってきてくれるアレン。訓練では心配性なくらい自分を守ろうとして、少し距離が近くなるだけで顔を赤くして、他の女の子の話をすれば分かりやすいほど自分だけが好きだと言うアレン。肉が好きで、秋が好きで、古代魔法史では眠くなって、褒めると照れるくせに自分への好意だけは隠そうともしない。
リリアが好きになったのは、三百年待った悲しい人ではない。
過去の自分を愛した人だからでもない。
今、一緒にいると楽しくて、会えないと少し寂しくて、見つけると嬉しくなって、触れたいと思う人だった。
「……よし」
ベッドから起き上がる。
今日は言う。
そう決めて制服へ着替えた。
ところが女子寮を出ていつもの渡り廊下まで行っても、アレンはいなかった。
「……いない」
昨日は十分前から待っていた。
その前も向こうから探しに来た。
少し待ってみる。
来ない。
さらに五分待つ。
やっぱり来ない。
「珍しい」
朝練が長引いているのかもしれない。そう思って訓練場へ行こうとして、三つ目の角を曲がったところで足を止めた。
「……どっち?」
早速分からない。
近くにいた生徒へ道を聞き、教えてもらった通りに歩いたはずなのに、しばらくすると見覚えのない塔が現れた。
「なんで?」
「それは僕が聞きたいな」
後ろから声がして振り返ると、ノアがいた。
「ノア」
「おはよう。朝から迷子?」
「アレン先輩を探してる」
「質問への答えになってないけど、まあいいや」
ノアが笑いながら隣へ来る。
「アレン先輩なら第二訓練場にいたよ」
「案内して」
「即答だね」
「一人だとたぶん無理」
「そこは自覚あるんだ」
ノアについて歩き始める。以前なら彼と二人で歩くことに何も感じなかったのに、今日は少しだけ申し訳ないような気持ちになった。
「ノア」
「ん?」
「私、アレン先輩が好きみたい」
ノアの足が一瞬だけ止まった。
「……そっか」
「驚いた?」
「半分くらい」
「半分?」
「最近のリリア、分かりやすかったから」
「セシルにも言われた」
「じゃあ僕の観察力が特別いいわけじゃなかったか。残念」
いつもの調子で笑っている。でも、その笑顔がほんの少しだけ寂しそうに見えて、リリアは何も言えなくなった。
「そんな顔しなくていいよ」
「どんな?」
「僕に悪いことしたみたいな顔」
「してた?」
「してた」
ノアは前を向いたまま歩く。
「リリアが誰を好きになるかは、リリアが決めることでしょ」
「うん」
「なら僕が口出すことじゃないよ」
「ノアは、それでいいの?」
聞くと、ノアは少しだけ困ったように笑った。
「よくはないかな」
「そっか」
「そこは正直に言っていい?」
「うん」
「でも、よくないからって君の気持ちを変えようとは思わないよ」
その言葉が優しくて、少しだけ苦しくなった。
「ありがとう」
「どういたしまして。ちなみに告白するの?」
「する」
「今日?」
「今から」
「……思ったより早かった」
「昨日言いかけたから」
「じゃあ僕、恋敵の告白会場まで案内してるんだ」
「ごめん」
「今さら引き返すのも格好悪いから最後まで案内するよ」
ノアが笑う。
やがて第二訓練場が見えてきた。
「ほら、あそこ」
「ありがとう」
「頑張って、とは言いたくないから言わない」
「うん」
「でも、ちゃんと言えるといいね」
「うん」
リリアが一歩進んだところで、ノアがもう一度呼んだ。
「リリア」
「何?」
「幸せになってね」
今度はすぐに返事ができなかった。
少しだけ迷ってから、リリアは頷いた。
「なる」
「うん」
ノアに背を向け、訓練場へ向かった。
中へ入ると、すぐにアレンを見つけた。上着を脱いでシャツ姿になり、一人で剣を振っている。普段の訓練より明らかに激しく、額から汗が落ちても止まらない。
「アレン先輩」
呼んでも気づかない。
「アレン先輩!」
今度は届いた。
剣が止まる。
「……リリア?」
「おはようございます」
「何でここにいんだ?」
「探しに来た」
「また迷っただろ」
「ノアに連れてきてもらった」
その瞬間、アレンの眉が少し動いた。
「ノアに?」
「うん」
「……そっか」
分かりやすい。
「嫉妬した?」
「してねえ」
「した顔」
「朝からうるせえ」
「昨日、私が妬いた時は嬉しそうだったのに」
「それとこれとは別だ」
アレンが剣を置き、近くにあった布で汗を拭う。
「今日は待ってなかったですね」
「ああ」
「なんで?」
アレンは少し黙った。
「昨日の話した後だったから」
「うん」
「一人で考える時間あった方がいいかと思った」
「私が?」
「ああ」
「だから会いに来なかった?」
「顔見たら、普通にいつも通りしたくなるからな」
「すればいいのに」
「お前が俺をどう思うか決めるまで、少し離れた方がいいと思ったんだよ」
リリアは思わず眉を寄せた。
「勝手に決めた」
「……悪い」
「私、昨日言いましたよね」
「何を?」
「明日会いたいって」
「ああ」
「なのに来なかった」
「それは……」
「待ってたのに」
アレンが目を見開いた。
「待ってた?」
「うん。いつものところで」
「どれくらい?」
「十分くらい」
「……悪かった」
「ちょっと寂しかった」
言うと、アレンが露骨に動揺した。
「リリア」
「何?」
「それ今言う?」
「今の話だから」
「そうだけど」
リリアは少し笑った。
「アレン先輩、私が昔のこと聞いたら離れると思った?」
アレンは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「嫌いになると思った?」
「可能性はあるだろ」
「だから逃げた?」
「逃げてねえよ」
「じゃあ避けた?」
「……少し」
「逃げてる」
「うるせえな」
アレンは困ったように髪を掻いた。
「怖かったんだよ」
「私が?」
「答え聞くのが」
その一言で、リリアはもう怒れなくなった。
「昨日、俺がお前を殺したって話しただろ」
「うん」
「頭じゃ今のお前とは別だって分かってる。でも、お前がそれを聞いて俺を怖いと思ったら、それは当然だとも思ってる。俺が逆の立場ならどうするかなんて分かんねえし、好きになれなんて言える話でもねえ」
アレンはそこで言葉を切り、赤い瞳を伏せた。
「だから、今日お前が来なかったら、そのまま待とうと思ってた」
「どれくらい?」
「お前が決めるまで」
「一週間でも?」
「ああ」
「一年でも?」
「ああ」
「三百年でも?」
アレンが顔を上げる。
「それはもう嫌だ」
初めて、即答ではなかった。
でも、その声には冗談がなかった。
「待てるとは思う。実際待ったしな。でも、もう二度とやりたくねえ」
「うん」
「会いたい時に会いてえし、話したい時に話してえ。お前が何食ったとか、授業で何やったとか、また迷子になったとか、そういうどうでもいいことを聞きたい」
「迷子はどうでもよくない」
「そこ?」
「重要です」
「じゃあ重要な迷子の話も聞きてえよ」
少しだけ笑う。
リリアも笑った。
これだと思った。
三百年ではない。
世界を救ったことでも、過去に交わした約束でもない。
こういう会話が好きなのだ。
「アレン先輩」
「ん?」
「昨日、私が言いかけたこと覚えてる?」
「……覚えてる」
「何だと思った?」
「期待してること言っていいのか?」
「いいですよ」
「俺を好きだって」
「正解」
アレンが動かなくなった。
訓練場に朝の風が入ってくる。遠くから別の生徒たちの声が聞こえているのに、目の前の人だけが時間から取り残されたみたいに固まっている。
「聞こえた?」
「聞こえた」
「じゃあ何か言って」
「待て」
「また?」
「ちょっと待て」
「昨日から待たせすぎです」
「お前が急すぎんだよ!」
ようやく声が戻った。
「もっとこう、心の準備とかあるだろ!」
「昨日から言おうとしてた」
「俺は今日振られる覚悟してたんだよ!」
「振らないです」
「だからそれを簡単に言うな!」
顔が赤い。
でも、笑っている。
それを見ていると、リリアまで嬉しくなる。
「ちゃんと言います」
今度は、少しだけ緊張した。
アレンも察したらしい。
笑うのをやめて、まっすぐこちらを見る。
「うん」
リリアは一度だけ息を吸った。
「私、アレン先輩が好きです」
昨日まで何度も考えた言葉なのに、実際に口にすると胸が大きく鳴った。
「昔の私がアレン先輩を好きだったからじゃないです。三百年待ってたのが可哀想だからでもないし、昔の約束を守りたいからでもない」
アレンの赤い瞳が揺れる。
「朝に会えると嬉しいし、一緒にご飯食べるのも楽しいし、手を繋ぎたいし、他の女の子を好きになったら嫌です。アレン先輩に好きって言われると嬉しいし、抱きしめられるのも好き。昨日の話を聞いたあとも、怖いから離れたいんじゃなくて、今日も会いたいと思った」
言葉にするほど、自分の気持ちがはっきりしていく。
「だから、今のアレン先輩が好きです」
アレンは何も言わなかった。
ただ、じっとリリアを見ている。
「……返事は?」
「待てって」
「長い」
「無理なんだよ」
「何が?」
アレンが片手で顔を覆った。
「嬉しすぎて何言えばいいか分かんねえ」
その答えがあまりにもアレンらしくて、リリアは笑ってしまった。
「笑うな」
「だって、告白したのに返事がそれ」
「俺が好きなのは知ってんだろ!」
「ちゃんと聞きたい」
「お前、こういう時だけ欲張りだな」
「今までアレン先輩ばっかり言ってたから」
「分かったよ」
アレンが顔から手を離す。
赤い瞳が、もう一度まっすぐリリアを捉えた。
「好きだ」
何度も聞いた言葉だった。
それなのに、今日は今までと違って聞こえる。
「お前が好きだよ、リリア。昔のお前じゃなくて、今ここにいるお前が好きだ」
「うん」
「俺と付き合ってくれる?」
「はい」
答えた瞬間、アレンが大きく息を吐いた。
「……マジか」
「今さら?」
「いや、分かってても信じられねえ」
「じゃあもう一回言う?」
「言って」
「付き合います」
「もう一回」
「調子乗ってる?」
「今くらいいいだろ」
「一回だけですよ」
「おう」
「好きです」
今度はアレンが笑った。
心の底から嬉しそうな顔だった。
その表情を見た瞬間、リリアは自分から一歩近づいた。
「アレン先輩」
「ん?」
「抱きしめていい?」
「それ俺が聞こうと思ってた」
「先に聞いた」
「じゃあどうぞ」
「なんで偉そうなの?」
「早く来いよ」
少し笑いながら、リリアはアレンの胸へ飛び込んだ。
すぐに腕が背中へ回る。昨日までより迷いがなく、それでも痛くないように力を加減しているのが分かった。
「彼女」
頭の上から声がする。
「何?」
「お前、俺の彼女なんだよな」
「そうですね」
「やべえ」
「何が?」
「嬉しい」
あまりにも素直だった。
「アレン先輩も私の彼氏?」
「当たり前だろ」
「そっか」
「何だよ」
「言ってみたかった」
「……もう一回言って」
「彼氏」
「名前付きで」
「アレン先輩、私の彼氏」
「やべえ」
「それしか言わない」
「今頭働いてねえんだよ」
笑いながら顔を上げる。
アレンもこちらを見下ろした。
近い。
抱きしめられることには少し慣れたつもりだったのに、恋人になったと分かっただけで急に距離の意味が変わった気がする。
アレンの視線が一瞬だけ、リリアの唇へ落ちた。
すぐに戻る。
でも気づいた。
「今、キスしようと思った?」
「……思った」
「しないの?」
「していいのか?」
聞かれた途端、急に恥ずかしくなった。
付き合う前なら、分からないまま「いいですよ」と言っていたかもしれない。今は意味が分かるから、簡単に答えられない。
「顔赤いぞ」
「アレン先輩も」
「俺はずっと赤い」
「自覚あったんだ」
「あるよ」
しばらく見つめ合う。
逃げたいわけではない。
むしろ、してみたい。
「……いいですよ」
「本当に?」
「何回聞くの?」
「大事だからだろ」
「いいです」
アレンの手が頬へ触れる。
いつも頭を撫でる時より、ずっと慎重だった。
顔が近づいてくる。
リリアは目を閉じた。
けれど、いつまで経っても触れない。
目を開ける。
「アレン先輩?」
目の前で固まっていた。
「無理」
「え?」
「緊張する」
「ここまで来て?」
「ここまで来たからだよ!」
思わず吹き出した。
「笑うな!」
「だって」
「初めてなんだから仕方ねえだろ!」
「私も初めてです」
「余計緊張すんだろ!」
アレンが顔を離そうとする。
その瞬間、リリアは制服のシャツを掴んだ。
「待って」
「何だよ」
「私もしたい」
言った自分の方が恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
アレンは完全に黙った。
「……今の反則だろ」
「何が?」
「全部」
今度は逃げなかった。
もう一度、顔が近づく。
触れる直前まで目を開けていたせいで、アレンも自分と同じくらい緊張しているのが分かった。
唇が重なった。
ほんの一瞬だった。
柔らかい感触を理解するより先に離れてしまったくらい短い。
二人とも何も言わない。
リリアは自分の唇へ触れた。
「……した」
「したな」
「これがキス?」
「たぶん」
「アレン先輩も分からないんだ」
「初めてだっつっただろ」
「もう一回したら分かる?」
言ってから、さすがに自分でも大胆だったと思った。
アレンは目を見開いたあと、額をリリアの肩へ押しつけた。
「お前、付き合った途端に強すぎねえ?」
「気になっただけ」
「俺がどんだけ我慢してたと思ってんだよ」
「もう我慢しなくていいんじゃない?」
「限度ってもんがあるだろ」
そう言いながらも、アレンは顔を上げた。
今度のキスは、最初より少しだけ長かった。
それでも優しく触れるだけで、離れたあとには二人とも照れて笑っていた。
「……分かった?」
アレンが聞く。
「何が?」
「キス」
「まだちょっと分からない」
「お前絶対分かってるだろ」
「どうかな」
「三回目狙ってんの?」
「授業遅れますよ」
「逃げたな!」
「アレン先輩も二年生棟まで戻らないと」
「マジか。何時だ?」
時計を確認したアレンの顔が変わる。
「やべえ!」
「走る?」
「走る。お前も急げ!」
「私は近い」
「ずる!」
二人で訓練場を飛び出した。
途中まで同じ道を走り、一年生棟と二年生棟へ分かれるところで足を止める。
「リリア!」
「何?」
「昼!」
「食堂?」
「迎え行く!」
「遅刻しないでね」
「お前もな!」
アレンが走っていく。
その背中を見送りながら、リリアは無意識に笑っていた。
恋人になったからといって、世界が変わったわけではない。アレンが三百年過ごした記憶も消えないし、自分が彼に殺された過去がなくなるわけでもない。これから知ることの中には、もっと苦しいものもあるのかもしれない。
それでも、今朝アレンがいなかった時に寂しいと思った気持ちも、見つけた時に嬉しかった気持ちも、告白して抱きしめられた時の温かさも、初めて唇が触れた時の恥ずかしさも、全部この世界で初めて生まれたものだった。
三百年前の約束の続きを始めたいわけではない。
今日から、新しい関係を始めたい。
リリアは教室へ向かいながら、もう一度だけ自分の唇へ触れた。
昼休みになれば、また会える。そのことを当たり前のように楽しみにできる今が、何より嬉しかった。