魔法より、君に恋をする。
アレンルート 第46章 一緒に生きる
翌朝、リリアが女子寮を出ると、いつもの渡り廊下には当然のようにアレンがいた。
昨日と同じ制服を着て、蒼色のネクタイを少し緩め、壁に背を預けている。リリアを見つけた瞬間に顔を上げるところも、こちらへ歩いてくる時の少し速い足取りも、何も変わらない。それなのに、死んだ世界から戻ってきた翌朝に見るその姿は、今までよりずっと特別に思えた。
「おはよ」
「おはようございます」
「ちゃんと来たな」
「来ますよ。学校なんだから」
「そういう意味じゃねえ」
アレンが笑いながら手を差し出す。リリアも自然にその手を取り、指を絡めた。
「アレン先輩もちゃんといた」
「いるって言っただろ」
「うん」
「何だよ」
「確認したかっただけ」
昨日までは、確認したがるのはアレンの方だった。それなのに今日は自分まで同じことをしているのがおかしくて、リリアは少し笑った。
「似てきたな」
「誰に?」
「俺に」
「嫌かも」
「ひでえ」
「冗談」
「最近お前、俺への扱い雑じゃね?」
「好きだから大丈夫かなって」
アレンが足を止めた。
「……それ便利すぎねえ?」
「彼女なので」
「それも便利に使うなよ」
「嫌?」
「嫌じゃねえけど」
「じゃあいいでしょ」
「俺の台詞取るな」
二人で笑いながら中央棟へ向かった。途中ですれ違った生徒に見られても、今日はもう手を離そうとは思わなかった。
恋人になったことを隠す理由はない。
だからといって見せつけたいわけでもない。
ただ繋ぎたいから繋いでいる。
それだけだった。
けれど教室へ向かう分かれ道へ着いても、アレンはなかなか手を離さなかった。
「授業」
「分かってる」
「遅刻しますよ」
「分かってるって」
「じゃあ離して」
「あと十秒」
「子ども?」
「彼氏」
「それ理由になってない」
呆れながらも待っていると、本当に十秒ほど経ってから手が離れた。
「昼、迎え行く」
「うん」
「今日訓練ある?」
「午後に」
「終わったら見に行っていい?」
「いいですよ」
「夕飯は?」
「一緒に食べる?」
「食う」
「じゃあまたあとで」
「ああ」
リリアが歩き出そうとすると、制服の袖を軽く引かれた。
「まだ何かある?」
「好き」
「……朝から?」
「言いたくなった」
「昨日いっぱい言ったでしょ」
「今日の分は今日言わねえと」
昨夜、別れ際にアレンが言った言葉を思い出した。
今日の自分と明日の自分は少し違う。
だから、その日の分だけちゃんと好きだと伝える。
胸の奥がじんわりと温かくなった。
「私も好き」
「うん」
「これでいい?」
「かなり」
「じゃあ授業行って」
「おう。また昼な」
ようやく別れた。
ほんの数時間後には会える。
それが嬉しいと思えることも、もう不思議ではなかった。
*
異変が起きたのは、その日の放課後だった。
リリアが訓練を終え、約束通り迎えに来たアレンと外へ出た時、学院全体を大きな振動が襲った。
地面が揺れたわけではない。
空間そのものが震えた。
「……来たな」
アレンが空を見る。
青かった空の中央に、黒い月が浮かんでいた。
周囲にいた生徒たちがざわめき始める。
直後、学院中にルシアンの声が響いた。
『全生徒へ告ぐ。各自、教員の指示に従って校舎内へ避難しろ。戦闘能力のある上級生も独断で動くな』
「生徒会長、仕事早い」
「感心してる場合か」
「でも私たちは?」
「呼ばれるだろ」
予想通り、すぐに伝令魔法が飛んできた。
《リリア・アステル、アレン・ヴァーミリオン。中央塔へ》
「行こう」
「ああ」
二人で走り出した。
中央塔へ着くと、すでに全員が揃っていた。
ノア、レオン、カイル、ルシアン、セシル。
全員がこちらを見る。
「遅いよ」
「走ってきた」
「手繋いで?」
ノアに指摘され、リリアは初めてまだアレンと手を繋いでいたことに気づいた。
「走りづらくない?」
「途中から忘れてた」
「俺も」
「もう完全に恋人だね」
「そうだけど」
普通に答えると、ノアが少しだけ笑った。
「うん。知ってる」
その声に何かが混じっている気がしたが、今はそこへ触れる時間はなかった。
ルシアンが全員を呼び寄せる。
「十三本目が完成する」
中央の巨大な魔法陣には、十三本の線が浮かんでいた。
十二本は途中で途切れている。
最後の一本だけが、今も伸び続けている。
「完成したらどうなる?」
カイルが尋ねる。
「分からない」
「またそれか」
「未知の世界だからね。ただ、偽神は完成を阻止しようとしている。なら少なくとも、彼にとって都合のいいものではない」
「壊せばいい?」
セシルが黒い月を見上げる。
「単純に攻撃して壊せるなら、とっくにやっているよ」
「じゃあ何すんだ?」
アレンの問いに、ルシアンはリリアを見る。
「最後に選ぶのは彼女だ」
「また?」
リリアは露骨に嫌な顔をした。
「私ばっかり選ばされてない?」
「君が可能性創造の所有者だから仕方ない」
「たまには誰か代わってほしい」
「今回は俺もいる」
隣から声がした。
見ると、アレンがこちらを見ている。
「一人で決めねえって約束しただろ」
「うん」
「なら一緒に決める」
その言葉だけで、不思議と怖さが減った。
リリアは頷いた。
「分かった」
十三本目の線が最後の一点へ届いた。
その瞬間、世界から音が消えた。
学院も、仲間たちも、ルシアンも消える。
リリアの隣に残ったのはアレンだけだった。
「また二人か」
「今度はどこ?」
周囲は真っ白だった。
床も空も境界がない。
目の前に二つの扉だけがある。
一つは黒。
一つは白。
『最後の選択だ』
偽神の声が響いた。
『黒を選べば、これまで通り世界は再構築される』
黒い扉の向こうに景色が浮かぶ。
学院。
笑う生徒たち。
そこにはリリアもアレンもいる。
『失敗してもやり直せる。死者が出ても次の世界がある。愛する者を失っても、再び会える可能性がある』
アレンの顔が険しくなる。
『白を選べば、世界は独立する』
今度は白い扉が光る。
しかし、その向こうには何も見えない。
『やり直しはない。一度死ねば戻らない。選択を誤っても修正されない。失ったものは二度と帰らない』
リリアは二つの扉を見る。
「つまり、今まで通りやり直せる世界か、一回きりの世界?」
『そうだ』
「白を選んだら、もう転生も再構築もない?」
『ない』
「アレン先輩が死んだら?」
『戻らない』
「私が死んでも?」
『戻らない』
隣でアレンの手が僅かに動いた。
『恐ろしいだろう、アレン・ヴァーミリオン』
偽神の声が彼へ向く。
『お前は知っている。一度失った者が戻らない恐怖を。三百年間、その絶望の中で生きた』
アレンは何も言わない。
『黒を選べ。そうすれば、彼女を失っても次がある』
「次のリリアは、私じゃないよ」
リリアが口を挟んだ。
『同じ姿、同じ魂の型、同じ可能性を持つ』
「でも私じゃない」
もう、それは知っている。
昔のリリアと今の自分が別人であるように、次に作られる少女も今の自分とは違う。
「私が死んだあとに次のリリアを作っても、それは私が生き返ったことにはならない」
アレンが静かに息を吐いた。
「ああ」
彼は黒い扉を見た。
「もう分かってる」
『それでも、失うよりはいい』
「よくねえよ」
アレンの声には迷いがなかった。
「三百年前の俺が欲しかったのは、何回でも作り直せるリリアじゃねえ。あいつだった。今の俺が好きなのも、次の世界にいるかもしれねえ誰かじゃない」
繋いでいた手を持ち上げる。
「こいつだ」
リリアの胸が大きく鳴った。
「今ここにいるリリアが好きなんだよ」
何度聞いても、その言葉だけは慣れない。
嬉しくて、恥ずかしくて、でも聞くたびにもっと聞きたくなる。
『ならばなおさら、失わない可能性を残せ』
「それが違うって言ってんだ」
アレンは白い扉を見る。
「次があると思って今を生きるのと、これが一回きりだって分かって生きるのじゃ、たぶん全然違う」
「怖くない?」
リリアが聞く。
「怖いよ」
アレンは即答した。
「お前が死ぬのも怖いし、俺が先に死ぬのも嫌だ。明日何があるか分かんねえのも怖い。でも」
赤い瞳がリリアを見る。
「だから明日も会いてえんだろ」
その言葉が、胸の一番柔らかいところへ落ちた。
三百年、明日が何の意味も持たなかった人が言うからこそ、重かった。
「今日お前と飯食って、キスして、くだらねえことで喧嘩して、明日また会う。その一個一個が一回しかねえから大事なんじゃねえの?」
「……うん」
「俺はそっちがいい」
アレンはリリアへ手を差し出した。
「お前は?」
答えを決めてくれない。
自分が白を選ぶから、お前も選べとは言わない。
最後まで、リリア自身へ問いかける。
だからリリアはその手を握った。
「私も」
「怖くても?」
「怖いよ。でも、次の私にアレン先輩取られるの嫌だし」
「そこ?」
「だって次のリリアがアレン先輩好きになったら嫌」
「俺は次の奴をお前だと思わねえよ」
「じゃあいい」
「いいのかよ」
「あと、アレン先輩が次の世界で別の女の子好きになるのも嫌」
「ならねえって言いてえけど、それ保証したらさっきまでの話全部台無しだな」
「確かに」
二人で笑った。
それからリリアは白い扉を見る。
「一回でいい」
失敗するかもしれない。
喧嘩するかもしれない。
選んだ道を後悔する日もあるかもしれない。
それでも、その全部を自分の人生にしたい。
「私は、この世界を生きたい」
「ああ」
「アレン先輩と」
隣から小さく息を呑む音がした。
リリアが見ると、アレンが妙に嬉しそうな顔をしている。
「何?」
「今のもう一回言って」
「嫌」
「何でだよ」
「一回しかないから大事なんでしょ?」
「そういう使い方すんな!」
笑いながら、二人で白い扉へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、扉が光に変わる。
十三本目の線が完成した。
けれど、その先には何も書かれていなかった。
誰と結ばれるかも、誰が死ぬかも、何歳まで生きるかも、どんな未来を迎えるかも決められていない。
ただ一つだけ、新しい文字が浮かび上がった。
《WORLD STATUS:INDEPENDENT》
黒い月が砕けた。
同時に偽神の声が遠ざかっていく。
『人は、またやり直しを願う』
「願うかもな」
アレンが答える。
『失えば、過去へ戻りたいと願う』
「俺だって願うと思う」
『それでも拒むのか』
「ああ」
アレンはリリアの手を握った。
「戻れねえから、こいつと生きるんだよ」
光が世界を包んだ。
*
次に目を開けた時、リリアは中央塔にいた。
ノアたちもいる。
誰も消えていない。
窓の外を見る。
黒い月はなかった。
ただ夜空に、普通の月が浮かんでいる。
「終わった?」
セシルが尋ねる。
ルシアンは魔法陣を確認していた。
「……ああ」
珍しく、その声に少しだけ感情が混ざった。
「終わったよ」
「世界は?」
「独立した」
十二本の線がゆっくり消えていく。
最後まで残っていた十三本目も、役目を終えたように光を失った。
「もうやり直さない?」
リリアが聞く。
「しない」
「私が死んでも?」
「戻らない」
「アレン先輩が死んでも?」
「戻らない」
アレンが横で嫌そうな顔をする。
「何回俺ら殺すんだよ」
「確認」
「縁起悪いからやめろ」
ルシアンが小さく笑った。
「これからは普通の人間と同じだ。失敗しても時間は戻らない。だから、なるべく後悔しないように生きることだね」
「難しい」
「それが人生だよ」
その言葉を聞いて、リリアは少し笑った。
それなら、悪くないと思った。
*
その夜、女子寮へ戻る前に、アレンがリリアを呼び止めた。
「ちょっとだけいい?」
「門限近いですよ」
「五分」
「本当に?」
「三分でもいい」
「じゃあ三分」
「短くなった!」
結局、中庭へ寄った。
昨日と同じベンチには座らず、二人で噴水の前に立つ。
「何?」
「いや」
「用事ないの?」
「ある」
「何?」
アレンは少し迷ったあと、リリアの手を取った。
「ありがとう」
「何が?」
「一緒に生きるって言ってくれて」
「私が言いたかったから言っただけ」
「それでも」
アレンの親指が、リリアの手の甲をゆっくり撫でる。
「昔のお前には、最後まで言ってもらえなかったから」
リリアは彼を見上げた。
「昔の私は、死ぬって言ったんだよね」
「ああ」
「アレン先輩は止めた」
「止めた」
「それでも最後は殺した」
「ああ」
痛みは消えていない。
きっと一生消えないのだろう。
それでもアレンは、もうその記憶から目を逸らさなかった。
「今度は違うね」
リリアが言う。
「ああ」
「私、生きるって言った」
「うん」
「アレン先輩も生きる?」
「生きるよ」
「ちゃんと?」
「お前より長生きしてやる」
「それは嫌」
「何で?」
「私だけ最後一人になる」
「じゃあ同じ日に死ぬ?」
「それも何か嫌」
「注文多いな」
「じゃあ百歳くらいまで二人とも元気で、そのあと考えよう」
「随分先だな」
「時間いっぱいあるでしょ?」
アレンが笑った。
「そうだな」
その笑顔を見て、リリアも笑った。
アレンの手が頬へ触れる。
「キスしていい?」
「毎回聞くの?」
「聞いた方がいいだろ」
「恋人なのに?」
「恋人でも」
その答えが好きだった。
「じゃあ、いいよ」
顔が近づく。
けれど触れる直前、リリアはふと思いついて手でアレンの口元を塞いだ。
「待って」
「……何?」
「一個聞きたい」
「このタイミングで?」
「大事」
「何だよ」
「私がアレン先輩と付き合ったの、昔の約束を守ったことになる?」
アレンは少し驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくり首を振った。
「ならねえよ」
「そっか」
「あの約束は終わった」
「終わった?」
「ああ。俺はお前を見つけた。でも、お前はあいつじゃなかった。それで終わり」
リリアの頬へ触れている手が、髪を優しく撫でる。
「ここからは約束の続きじゃない」
「じゃあ何?」
「俺とお前の最初」
胸が鳴った。
「……それ、ずるい」
「何が?」
「格好いい」
「惚れ直した?」
「ちょっと」
「ちょっとかよ」
「かなり」
「ならいい」
アレンが嬉しそうに笑う。
今度はリリアから背伸びをした。
唇が触れる。
昨日より自然だった。
もう触れる瞬間に驚かない。
アレンの手が頬から首の後ろへ移り、リリアも彼の制服を掴む。ゆっくり唇が離れたあと、すぐ近くで目が合った。
「……三分過ぎた?」
「たぶん」
「帰らないと」
「あと一回」
「さっきした」
「今日の最後」
「明日もする?」
「したい」
「じゃあ明日でいいじゃん」
「今日のお前とは今日しかできねえって言っただろ」
「それ便利に使ってない?」
「使ってる」
「正直」
「駄目?」
リリアは少し考えるふりをした。
「一回だけ」
「よし」
「嬉しそう」
「嬉しいよ」
二度目のキスは少し長かった。
それでも門限があるから、ちゃんと離れる。
「また明日」
リリアが言う。
アレンは一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「ああ。また明日」
三百年間、返事のない墓へ何度言っても叶わなかった言葉が、今は当たり前のように返ってくる。
それだけで十分だった。
*
世界が独立してからも、学院生活は驚くほど普通に続いた。
リリアは白銀から蒼へ進級し、アレンは深紅のネクタイを締めるようになった。学年が変わっても、朝になるとアレンは女子寮から中央棟へ続く渡り廊下で待っていた。最初は十分前、時には二十分前から待っていたらしく、リリアが「早すぎる」と何度言っても、「早く会いてえから仕方ねえ」と直す気配はなかった。
二人はよく喧嘩もした。
リリアが危険な実戦演習へ勝手に参加すればアレンが怒り、アレンが怪我を隠して訓練を続ければリリアが怒った。どちらかが「心配した」と言えば、最後には大抵もう片方が謝った。
そして、どちらか一人で危険なことを決めないという約束だけは守った。
アレンが卒業する日、リリアは初めて彼より一つ下の学年であることを本気で嫌だと思った。
「一年長くない?」
「長えな」
「毎朝どうするの?」
「学院の外から会いに来る?」
「不審者になりますよ」
「じゃあ休みの日」
「週一?」
「少なすぎる」
「週二?」
「少ない」
「毎日は無理」
「じゃあ三」
「交渉みたい」
「大事な話だからな」
結局、アレンは王国騎士団の実戦部隊へ進み、リリアは学院へ残った。
最初の数週間は、思っていた以上に寂しかった。
朝、渡り廊下へ行ってもアレンがいない。
昼休みに迎えに来ることもない。
それだけで学院が少し広く感じた。
けれど、休みの日になればアレンは本当に会いに来た。訓練で疲れていても、王都の端から学院まで来る。
「そこまでしなくてもいいのに」
ある日そう言うと、アレンは当然のような顔をした。
「俺が会いたいから来てんだよ」
「疲れてるでしょ」
「疲れてる」
「休めばいいのに」
「お前といるのも休み」
「それはちょっと嬉しい」
「ちょっと?」
「かなり」
「ならよし」
離れている時間ができても、怖くはなかった。
アレンも最初の頃は連絡が少し遅れるだけで不安そうにしていたが、やがて「忙しいなら後でいい」と言えるようになった。
待てるようになったのだ。
帰ってくると知っているから。
*
さらに一年が過ぎ、リリアも学院を卒業した。
卒業式の日、校門の外にはアレンがいた。
学院の制服ではない。
騎士団の黒い正装を着て、赤い髪を少しだけ整えている。
「何か格好いい」
「何かって何だよ」
「いつもより」
「普段は?」
「普通に格好いい」
「……卒業祝いそれでいいわ」
「安い」
「お前に言われるのが一番嬉しいからな」
アレンはそう言って、リリアの頭を撫でた。
「卒業おめでとう」
「ありがとう」
「三年間どうだった?」
「楽しかった」
「一番楽しかったことは?」
「いっぱいある」
「俺と付き合ったことは?」
「上位」
「一位じゃねえの?」
「セシルと夜更かししたのも楽しかったし、ノアと街行ったのも楽しかった」
「今聞かなきゃよかった」
「嫉妬した?」
「した」
「素直」
「でもまあ、いいよ」
「いいんだ」
「全部あって今のお前だろ」
以前なら少し拗ねていたかもしれない。
今も嫉妬はする。
でも、それでリリアの大切なものを減らそうとはしない。
「アレン先輩」
「ん?」
「私、卒業したよ」
「見りゃ分かる」
「だからもう先輩じゃない」
「……あ」
アレンが止まった。
リリアは少し笑う。
「アレン」
名前だけで呼ぶ。
その瞬間、アレンの顔が見事に赤くなった。
「待て」
「何?」
「もう一回」
「アレン」
「……やばい」
「何が?」
「好き」
「知ってる」
「違う、今めちゃくちゃ好き」
「いつもと何が違うの?」
「名前呼ばれた」
「今までだってたまに呼んでたでしょ」
「そういう時じゃなくて、普通に呼ばれんのがやばい」
「じゃあこれからいっぱい呼ぶ」
「待て、慣らしてくれ」
「アレン」
「リリア」
「アレン」
「わざとだろ!」
笑いながら逃げると、すぐに追いつかれて腕を掴まれた。
身長差は三年間でほとんど縮まらなかった。
「捕まえた」
「早い」
「騎士舐めんな」
「離して」
「嫌」
「何で?」
「恋人だから」
「まだそれ使ってる」
「一生使う」
アレンは笑いながらリリアの手を握った。
「行こうぜ」
「どこ?」
「飯」
「卒業祝い?」
「ああ」
「何食べる?」
「お前が好きなもの」
「じゃあ甘いもの」
「飯じゃねえ」
「先にケーキ」
「腹壊すぞ」
そんな話をしながら、二人で学院を出た。
*
それから何年か経っても、二人の関係は驚くほど変わらなかった。
リリアは王立魔法研究院に所属しながら、必要に応じて実戦部隊の魔術支援にも参加するようになった。危険な任務へ出ることもあるため、そのたびにアレンは嫌そうな顔をしたが、もう「行くな」とは言わなかった。
「帰ってこいよ」
「うん」
「無茶すんな」
「アレンも」
「分かってる」
「怪我隠さない」
「お前もな」
「帰ったら何食べる?」
「肉」
「また?」
「じゃあお前決めろ」
「シチュー」
「いいな」
「パンも」
「俺が焼く?」
「うん」
「じゃあ帰ったら作る」
それが二人の約束だった。
必ず生きると保証するのではない。
帰ったら何をするかを決める。
その予定を叶えるために、生きて帰る。
アレンが三百年間欲しかった「明日」は、いつの間にかそんなふうに日常の中へ溶け込んでいた。
*
ある休日の朝、リリアは香ばしい匂いで目を覚ました。
寝ぼけたままベッドから起き、隣を見る。
アレンはいない。
けれど、もう不安にはならない。
キッチンから物音がしているからだ。
寝室を出ると、アレンがパンを焼いていた。
「おはよ」
「……おはよう」
「寝癖すげえぞ」
「まだ眠い」
「顔洗ってこい」
「先にこっち」
「何?」
リリアはアレンのところまで歩き、その胸へ額をつけた。
「眠い」
「俺で寝るな」
「五分」
「立ったまま?」
「うん」
「しょうがねえな」
笑いながら腕が回ってくる。
リリアはそのまま目を閉じた。
「パン焦げるよ」
「お前がくっついてんだろ」
「じゃあ離れる?」
「それは嫌」
「わがまま」
「お互い様」
しばらくすると、アレンがリリアの髪へキスをした。
「朝飯できるぞ」
「何?」
「パンとスープ」
「肉は?」
「朝からいらねえだろ」
「大人になった」
「どういう意味だよ」
リリアは笑いながら顔を上げた。
目の前に、好きな人がいる。
あの頃より少し大人になった顔。
でも笑う時の目も、照れると耳が赤くなるところも変わっていない。
「アレン」
「ん?」
「好き」
「急だな」
「今日の分」
アレンが笑った。
「ああ」
頬へ手が触れる。
「俺も好きだよ、リリア」
キスをする。
何度したかなんて、もう数えていない。
最初の頃のように緊張して固まることもない。
それでも、好きな人とするキスは今でも嬉しい。
唇が離れたところで、リリアはアレンを見る。
「今日何する?」
「買い物」
「そのあと?」
「昼飯」
「そのあと?」
「お前が行きたいって言ってた店」
「覚えてたんだ」
「当たり前だろ」
「明日は?」
「仕事」
「明後日は?」
「休み」
「じゃあ出かけよう」
「どこ?」
「まだ決めてない」
「今日決めるか」
「うん」
アレンがパンを取り出す。
リリアは皿を並べる。
窓の外には普通の朝がある。
黒い月も、崩れた街も、返事のない墓もない。
三百年前、アレンはたった一人で死んだ世界に残され、いつ来るか分からない次の世界を待った。
今は違う。
朝になれば隣にいる。
昼になれば一緒に食事をする。
夜になれば今日あったことを話し、眠る前には明日の予定を決める。
そんな当たり前の日々を積み重ねていく。
「リリア」
「何?」
「明日も一緒に飯食おうな」
リリアは笑った。
「うん」
三百年待った男が欲しかったものは、永遠ではなかった。
絶対に失わない世界でも、何度でもやり直せる奇跡でもない。
好きな人と今日を生き、その人と明日の話をすることだった。
だから二人は、これからも何度だって約束する。
世界に決められた運命としてではなく、自分たちで選ぶ、ごく普通の未来として。
「また明日」
その言葉がもう祈りではなく約束になった世界で、アレンは幸せそうに笑った。
「――ああ。明日も、その先も一緒に生きようぜ」
アレンルート 第46章 終
ALLEN VERMILION ROUTE HAPPY END
昨日と同じ制服を着て、蒼色のネクタイを少し緩め、壁に背を預けている。リリアを見つけた瞬間に顔を上げるところも、こちらへ歩いてくる時の少し速い足取りも、何も変わらない。それなのに、死んだ世界から戻ってきた翌朝に見るその姿は、今までよりずっと特別に思えた。
「おはよ」
「おはようございます」
「ちゃんと来たな」
「来ますよ。学校なんだから」
「そういう意味じゃねえ」
アレンが笑いながら手を差し出す。リリアも自然にその手を取り、指を絡めた。
「アレン先輩もちゃんといた」
「いるって言っただろ」
「うん」
「何だよ」
「確認したかっただけ」
昨日までは、確認したがるのはアレンの方だった。それなのに今日は自分まで同じことをしているのがおかしくて、リリアは少し笑った。
「似てきたな」
「誰に?」
「俺に」
「嫌かも」
「ひでえ」
「冗談」
「最近お前、俺への扱い雑じゃね?」
「好きだから大丈夫かなって」
アレンが足を止めた。
「……それ便利すぎねえ?」
「彼女なので」
「それも便利に使うなよ」
「嫌?」
「嫌じゃねえけど」
「じゃあいいでしょ」
「俺の台詞取るな」
二人で笑いながら中央棟へ向かった。途中ですれ違った生徒に見られても、今日はもう手を離そうとは思わなかった。
恋人になったことを隠す理由はない。
だからといって見せつけたいわけでもない。
ただ繋ぎたいから繋いでいる。
それだけだった。
けれど教室へ向かう分かれ道へ着いても、アレンはなかなか手を離さなかった。
「授業」
「分かってる」
「遅刻しますよ」
「分かってるって」
「じゃあ離して」
「あと十秒」
「子ども?」
「彼氏」
「それ理由になってない」
呆れながらも待っていると、本当に十秒ほど経ってから手が離れた。
「昼、迎え行く」
「うん」
「今日訓練ある?」
「午後に」
「終わったら見に行っていい?」
「いいですよ」
「夕飯は?」
「一緒に食べる?」
「食う」
「じゃあまたあとで」
「ああ」
リリアが歩き出そうとすると、制服の袖を軽く引かれた。
「まだ何かある?」
「好き」
「……朝から?」
「言いたくなった」
「昨日いっぱい言ったでしょ」
「今日の分は今日言わねえと」
昨夜、別れ際にアレンが言った言葉を思い出した。
今日の自分と明日の自分は少し違う。
だから、その日の分だけちゃんと好きだと伝える。
胸の奥がじんわりと温かくなった。
「私も好き」
「うん」
「これでいい?」
「かなり」
「じゃあ授業行って」
「おう。また昼な」
ようやく別れた。
ほんの数時間後には会える。
それが嬉しいと思えることも、もう不思議ではなかった。
*
異変が起きたのは、その日の放課後だった。
リリアが訓練を終え、約束通り迎えに来たアレンと外へ出た時、学院全体を大きな振動が襲った。
地面が揺れたわけではない。
空間そのものが震えた。
「……来たな」
アレンが空を見る。
青かった空の中央に、黒い月が浮かんでいた。
周囲にいた生徒たちがざわめき始める。
直後、学院中にルシアンの声が響いた。
『全生徒へ告ぐ。各自、教員の指示に従って校舎内へ避難しろ。戦闘能力のある上級生も独断で動くな』
「生徒会長、仕事早い」
「感心してる場合か」
「でも私たちは?」
「呼ばれるだろ」
予想通り、すぐに伝令魔法が飛んできた。
《リリア・アステル、アレン・ヴァーミリオン。中央塔へ》
「行こう」
「ああ」
二人で走り出した。
中央塔へ着くと、すでに全員が揃っていた。
ノア、レオン、カイル、ルシアン、セシル。
全員がこちらを見る。
「遅いよ」
「走ってきた」
「手繋いで?」
ノアに指摘され、リリアは初めてまだアレンと手を繋いでいたことに気づいた。
「走りづらくない?」
「途中から忘れてた」
「俺も」
「もう完全に恋人だね」
「そうだけど」
普通に答えると、ノアが少しだけ笑った。
「うん。知ってる」
その声に何かが混じっている気がしたが、今はそこへ触れる時間はなかった。
ルシアンが全員を呼び寄せる。
「十三本目が完成する」
中央の巨大な魔法陣には、十三本の線が浮かんでいた。
十二本は途中で途切れている。
最後の一本だけが、今も伸び続けている。
「完成したらどうなる?」
カイルが尋ねる。
「分からない」
「またそれか」
「未知の世界だからね。ただ、偽神は完成を阻止しようとしている。なら少なくとも、彼にとって都合のいいものではない」
「壊せばいい?」
セシルが黒い月を見上げる。
「単純に攻撃して壊せるなら、とっくにやっているよ」
「じゃあ何すんだ?」
アレンの問いに、ルシアンはリリアを見る。
「最後に選ぶのは彼女だ」
「また?」
リリアは露骨に嫌な顔をした。
「私ばっかり選ばされてない?」
「君が可能性創造の所有者だから仕方ない」
「たまには誰か代わってほしい」
「今回は俺もいる」
隣から声がした。
見ると、アレンがこちらを見ている。
「一人で決めねえって約束しただろ」
「うん」
「なら一緒に決める」
その言葉だけで、不思議と怖さが減った。
リリアは頷いた。
「分かった」
十三本目の線が最後の一点へ届いた。
その瞬間、世界から音が消えた。
学院も、仲間たちも、ルシアンも消える。
リリアの隣に残ったのはアレンだけだった。
「また二人か」
「今度はどこ?」
周囲は真っ白だった。
床も空も境界がない。
目の前に二つの扉だけがある。
一つは黒。
一つは白。
『最後の選択だ』
偽神の声が響いた。
『黒を選べば、これまで通り世界は再構築される』
黒い扉の向こうに景色が浮かぶ。
学院。
笑う生徒たち。
そこにはリリアもアレンもいる。
『失敗してもやり直せる。死者が出ても次の世界がある。愛する者を失っても、再び会える可能性がある』
アレンの顔が険しくなる。
『白を選べば、世界は独立する』
今度は白い扉が光る。
しかし、その向こうには何も見えない。
『やり直しはない。一度死ねば戻らない。選択を誤っても修正されない。失ったものは二度と帰らない』
リリアは二つの扉を見る。
「つまり、今まで通りやり直せる世界か、一回きりの世界?」
『そうだ』
「白を選んだら、もう転生も再構築もない?」
『ない』
「アレン先輩が死んだら?」
『戻らない』
「私が死んでも?」
『戻らない』
隣でアレンの手が僅かに動いた。
『恐ろしいだろう、アレン・ヴァーミリオン』
偽神の声が彼へ向く。
『お前は知っている。一度失った者が戻らない恐怖を。三百年間、その絶望の中で生きた』
アレンは何も言わない。
『黒を選べ。そうすれば、彼女を失っても次がある』
「次のリリアは、私じゃないよ」
リリアが口を挟んだ。
『同じ姿、同じ魂の型、同じ可能性を持つ』
「でも私じゃない」
もう、それは知っている。
昔のリリアと今の自分が別人であるように、次に作られる少女も今の自分とは違う。
「私が死んだあとに次のリリアを作っても、それは私が生き返ったことにはならない」
アレンが静かに息を吐いた。
「ああ」
彼は黒い扉を見た。
「もう分かってる」
『それでも、失うよりはいい』
「よくねえよ」
アレンの声には迷いがなかった。
「三百年前の俺が欲しかったのは、何回でも作り直せるリリアじゃねえ。あいつだった。今の俺が好きなのも、次の世界にいるかもしれねえ誰かじゃない」
繋いでいた手を持ち上げる。
「こいつだ」
リリアの胸が大きく鳴った。
「今ここにいるリリアが好きなんだよ」
何度聞いても、その言葉だけは慣れない。
嬉しくて、恥ずかしくて、でも聞くたびにもっと聞きたくなる。
『ならばなおさら、失わない可能性を残せ』
「それが違うって言ってんだ」
アレンは白い扉を見る。
「次があると思って今を生きるのと、これが一回きりだって分かって生きるのじゃ、たぶん全然違う」
「怖くない?」
リリアが聞く。
「怖いよ」
アレンは即答した。
「お前が死ぬのも怖いし、俺が先に死ぬのも嫌だ。明日何があるか分かんねえのも怖い。でも」
赤い瞳がリリアを見る。
「だから明日も会いてえんだろ」
その言葉が、胸の一番柔らかいところへ落ちた。
三百年、明日が何の意味も持たなかった人が言うからこそ、重かった。
「今日お前と飯食って、キスして、くだらねえことで喧嘩して、明日また会う。その一個一個が一回しかねえから大事なんじゃねえの?」
「……うん」
「俺はそっちがいい」
アレンはリリアへ手を差し出した。
「お前は?」
答えを決めてくれない。
自分が白を選ぶから、お前も選べとは言わない。
最後まで、リリア自身へ問いかける。
だからリリアはその手を握った。
「私も」
「怖くても?」
「怖いよ。でも、次の私にアレン先輩取られるの嫌だし」
「そこ?」
「だって次のリリアがアレン先輩好きになったら嫌」
「俺は次の奴をお前だと思わねえよ」
「じゃあいい」
「いいのかよ」
「あと、アレン先輩が次の世界で別の女の子好きになるのも嫌」
「ならねえって言いてえけど、それ保証したらさっきまでの話全部台無しだな」
「確かに」
二人で笑った。
それからリリアは白い扉を見る。
「一回でいい」
失敗するかもしれない。
喧嘩するかもしれない。
選んだ道を後悔する日もあるかもしれない。
それでも、その全部を自分の人生にしたい。
「私は、この世界を生きたい」
「ああ」
「アレン先輩と」
隣から小さく息を呑む音がした。
リリアが見ると、アレンが妙に嬉しそうな顔をしている。
「何?」
「今のもう一回言って」
「嫌」
「何でだよ」
「一回しかないから大事なんでしょ?」
「そういう使い方すんな!」
笑いながら、二人で白い扉へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、扉が光に変わる。
十三本目の線が完成した。
けれど、その先には何も書かれていなかった。
誰と結ばれるかも、誰が死ぬかも、何歳まで生きるかも、どんな未来を迎えるかも決められていない。
ただ一つだけ、新しい文字が浮かび上がった。
《WORLD STATUS:INDEPENDENT》
黒い月が砕けた。
同時に偽神の声が遠ざかっていく。
『人は、またやり直しを願う』
「願うかもな」
アレンが答える。
『失えば、過去へ戻りたいと願う』
「俺だって願うと思う」
『それでも拒むのか』
「ああ」
アレンはリリアの手を握った。
「戻れねえから、こいつと生きるんだよ」
光が世界を包んだ。
*
次に目を開けた時、リリアは中央塔にいた。
ノアたちもいる。
誰も消えていない。
窓の外を見る。
黒い月はなかった。
ただ夜空に、普通の月が浮かんでいる。
「終わった?」
セシルが尋ねる。
ルシアンは魔法陣を確認していた。
「……ああ」
珍しく、その声に少しだけ感情が混ざった。
「終わったよ」
「世界は?」
「独立した」
十二本の線がゆっくり消えていく。
最後まで残っていた十三本目も、役目を終えたように光を失った。
「もうやり直さない?」
リリアが聞く。
「しない」
「私が死んでも?」
「戻らない」
「アレン先輩が死んでも?」
「戻らない」
アレンが横で嫌そうな顔をする。
「何回俺ら殺すんだよ」
「確認」
「縁起悪いからやめろ」
ルシアンが小さく笑った。
「これからは普通の人間と同じだ。失敗しても時間は戻らない。だから、なるべく後悔しないように生きることだね」
「難しい」
「それが人生だよ」
その言葉を聞いて、リリアは少し笑った。
それなら、悪くないと思った。
*
その夜、女子寮へ戻る前に、アレンがリリアを呼び止めた。
「ちょっとだけいい?」
「門限近いですよ」
「五分」
「本当に?」
「三分でもいい」
「じゃあ三分」
「短くなった!」
結局、中庭へ寄った。
昨日と同じベンチには座らず、二人で噴水の前に立つ。
「何?」
「いや」
「用事ないの?」
「ある」
「何?」
アレンは少し迷ったあと、リリアの手を取った。
「ありがとう」
「何が?」
「一緒に生きるって言ってくれて」
「私が言いたかったから言っただけ」
「それでも」
アレンの親指が、リリアの手の甲をゆっくり撫でる。
「昔のお前には、最後まで言ってもらえなかったから」
リリアは彼を見上げた。
「昔の私は、死ぬって言ったんだよね」
「ああ」
「アレン先輩は止めた」
「止めた」
「それでも最後は殺した」
「ああ」
痛みは消えていない。
きっと一生消えないのだろう。
それでもアレンは、もうその記憶から目を逸らさなかった。
「今度は違うね」
リリアが言う。
「ああ」
「私、生きるって言った」
「うん」
「アレン先輩も生きる?」
「生きるよ」
「ちゃんと?」
「お前より長生きしてやる」
「それは嫌」
「何で?」
「私だけ最後一人になる」
「じゃあ同じ日に死ぬ?」
「それも何か嫌」
「注文多いな」
「じゃあ百歳くらいまで二人とも元気で、そのあと考えよう」
「随分先だな」
「時間いっぱいあるでしょ?」
アレンが笑った。
「そうだな」
その笑顔を見て、リリアも笑った。
アレンの手が頬へ触れる。
「キスしていい?」
「毎回聞くの?」
「聞いた方がいいだろ」
「恋人なのに?」
「恋人でも」
その答えが好きだった。
「じゃあ、いいよ」
顔が近づく。
けれど触れる直前、リリアはふと思いついて手でアレンの口元を塞いだ。
「待って」
「……何?」
「一個聞きたい」
「このタイミングで?」
「大事」
「何だよ」
「私がアレン先輩と付き合ったの、昔の約束を守ったことになる?」
アレンは少し驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくり首を振った。
「ならねえよ」
「そっか」
「あの約束は終わった」
「終わった?」
「ああ。俺はお前を見つけた。でも、お前はあいつじゃなかった。それで終わり」
リリアの頬へ触れている手が、髪を優しく撫でる。
「ここからは約束の続きじゃない」
「じゃあ何?」
「俺とお前の最初」
胸が鳴った。
「……それ、ずるい」
「何が?」
「格好いい」
「惚れ直した?」
「ちょっと」
「ちょっとかよ」
「かなり」
「ならいい」
アレンが嬉しそうに笑う。
今度はリリアから背伸びをした。
唇が触れる。
昨日より自然だった。
もう触れる瞬間に驚かない。
アレンの手が頬から首の後ろへ移り、リリアも彼の制服を掴む。ゆっくり唇が離れたあと、すぐ近くで目が合った。
「……三分過ぎた?」
「たぶん」
「帰らないと」
「あと一回」
「さっきした」
「今日の最後」
「明日もする?」
「したい」
「じゃあ明日でいいじゃん」
「今日のお前とは今日しかできねえって言っただろ」
「それ便利に使ってない?」
「使ってる」
「正直」
「駄目?」
リリアは少し考えるふりをした。
「一回だけ」
「よし」
「嬉しそう」
「嬉しいよ」
二度目のキスは少し長かった。
それでも門限があるから、ちゃんと離れる。
「また明日」
リリアが言う。
アレンは一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「ああ。また明日」
三百年間、返事のない墓へ何度言っても叶わなかった言葉が、今は当たり前のように返ってくる。
それだけで十分だった。
*
世界が独立してからも、学院生活は驚くほど普通に続いた。
リリアは白銀から蒼へ進級し、アレンは深紅のネクタイを締めるようになった。学年が変わっても、朝になるとアレンは女子寮から中央棟へ続く渡り廊下で待っていた。最初は十分前、時には二十分前から待っていたらしく、リリアが「早すぎる」と何度言っても、「早く会いてえから仕方ねえ」と直す気配はなかった。
二人はよく喧嘩もした。
リリアが危険な実戦演習へ勝手に参加すればアレンが怒り、アレンが怪我を隠して訓練を続ければリリアが怒った。どちらかが「心配した」と言えば、最後には大抵もう片方が謝った。
そして、どちらか一人で危険なことを決めないという約束だけは守った。
アレンが卒業する日、リリアは初めて彼より一つ下の学年であることを本気で嫌だと思った。
「一年長くない?」
「長えな」
「毎朝どうするの?」
「学院の外から会いに来る?」
「不審者になりますよ」
「じゃあ休みの日」
「週一?」
「少なすぎる」
「週二?」
「少ない」
「毎日は無理」
「じゃあ三」
「交渉みたい」
「大事な話だからな」
結局、アレンは王国騎士団の実戦部隊へ進み、リリアは学院へ残った。
最初の数週間は、思っていた以上に寂しかった。
朝、渡り廊下へ行ってもアレンがいない。
昼休みに迎えに来ることもない。
それだけで学院が少し広く感じた。
けれど、休みの日になればアレンは本当に会いに来た。訓練で疲れていても、王都の端から学院まで来る。
「そこまでしなくてもいいのに」
ある日そう言うと、アレンは当然のような顔をした。
「俺が会いたいから来てんだよ」
「疲れてるでしょ」
「疲れてる」
「休めばいいのに」
「お前といるのも休み」
「それはちょっと嬉しい」
「ちょっと?」
「かなり」
「ならよし」
離れている時間ができても、怖くはなかった。
アレンも最初の頃は連絡が少し遅れるだけで不安そうにしていたが、やがて「忙しいなら後でいい」と言えるようになった。
待てるようになったのだ。
帰ってくると知っているから。
*
さらに一年が過ぎ、リリアも学院を卒業した。
卒業式の日、校門の外にはアレンがいた。
学院の制服ではない。
騎士団の黒い正装を着て、赤い髪を少しだけ整えている。
「何か格好いい」
「何かって何だよ」
「いつもより」
「普段は?」
「普通に格好いい」
「……卒業祝いそれでいいわ」
「安い」
「お前に言われるのが一番嬉しいからな」
アレンはそう言って、リリアの頭を撫でた。
「卒業おめでとう」
「ありがとう」
「三年間どうだった?」
「楽しかった」
「一番楽しかったことは?」
「いっぱいある」
「俺と付き合ったことは?」
「上位」
「一位じゃねえの?」
「セシルと夜更かししたのも楽しかったし、ノアと街行ったのも楽しかった」
「今聞かなきゃよかった」
「嫉妬した?」
「した」
「素直」
「でもまあ、いいよ」
「いいんだ」
「全部あって今のお前だろ」
以前なら少し拗ねていたかもしれない。
今も嫉妬はする。
でも、それでリリアの大切なものを減らそうとはしない。
「アレン先輩」
「ん?」
「私、卒業したよ」
「見りゃ分かる」
「だからもう先輩じゃない」
「……あ」
アレンが止まった。
リリアは少し笑う。
「アレン」
名前だけで呼ぶ。
その瞬間、アレンの顔が見事に赤くなった。
「待て」
「何?」
「もう一回」
「アレン」
「……やばい」
「何が?」
「好き」
「知ってる」
「違う、今めちゃくちゃ好き」
「いつもと何が違うの?」
「名前呼ばれた」
「今までだってたまに呼んでたでしょ」
「そういう時じゃなくて、普通に呼ばれんのがやばい」
「じゃあこれからいっぱい呼ぶ」
「待て、慣らしてくれ」
「アレン」
「リリア」
「アレン」
「わざとだろ!」
笑いながら逃げると、すぐに追いつかれて腕を掴まれた。
身長差は三年間でほとんど縮まらなかった。
「捕まえた」
「早い」
「騎士舐めんな」
「離して」
「嫌」
「何で?」
「恋人だから」
「まだそれ使ってる」
「一生使う」
アレンは笑いながらリリアの手を握った。
「行こうぜ」
「どこ?」
「飯」
「卒業祝い?」
「ああ」
「何食べる?」
「お前が好きなもの」
「じゃあ甘いもの」
「飯じゃねえ」
「先にケーキ」
「腹壊すぞ」
そんな話をしながら、二人で学院を出た。
*
それから何年か経っても、二人の関係は驚くほど変わらなかった。
リリアは王立魔法研究院に所属しながら、必要に応じて実戦部隊の魔術支援にも参加するようになった。危険な任務へ出ることもあるため、そのたびにアレンは嫌そうな顔をしたが、もう「行くな」とは言わなかった。
「帰ってこいよ」
「うん」
「無茶すんな」
「アレンも」
「分かってる」
「怪我隠さない」
「お前もな」
「帰ったら何食べる?」
「肉」
「また?」
「じゃあお前決めろ」
「シチュー」
「いいな」
「パンも」
「俺が焼く?」
「うん」
「じゃあ帰ったら作る」
それが二人の約束だった。
必ず生きると保証するのではない。
帰ったら何をするかを決める。
その予定を叶えるために、生きて帰る。
アレンが三百年間欲しかった「明日」は、いつの間にかそんなふうに日常の中へ溶け込んでいた。
*
ある休日の朝、リリアは香ばしい匂いで目を覚ました。
寝ぼけたままベッドから起き、隣を見る。
アレンはいない。
けれど、もう不安にはならない。
キッチンから物音がしているからだ。
寝室を出ると、アレンがパンを焼いていた。
「おはよ」
「……おはよう」
「寝癖すげえぞ」
「まだ眠い」
「顔洗ってこい」
「先にこっち」
「何?」
リリアはアレンのところまで歩き、その胸へ額をつけた。
「眠い」
「俺で寝るな」
「五分」
「立ったまま?」
「うん」
「しょうがねえな」
笑いながら腕が回ってくる。
リリアはそのまま目を閉じた。
「パン焦げるよ」
「お前がくっついてんだろ」
「じゃあ離れる?」
「それは嫌」
「わがまま」
「お互い様」
しばらくすると、アレンがリリアの髪へキスをした。
「朝飯できるぞ」
「何?」
「パンとスープ」
「肉は?」
「朝からいらねえだろ」
「大人になった」
「どういう意味だよ」
リリアは笑いながら顔を上げた。
目の前に、好きな人がいる。
あの頃より少し大人になった顔。
でも笑う時の目も、照れると耳が赤くなるところも変わっていない。
「アレン」
「ん?」
「好き」
「急だな」
「今日の分」
アレンが笑った。
「ああ」
頬へ手が触れる。
「俺も好きだよ、リリア」
キスをする。
何度したかなんて、もう数えていない。
最初の頃のように緊張して固まることもない。
それでも、好きな人とするキスは今でも嬉しい。
唇が離れたところで、リリアはアレンを見る。
「今日何する?」
「買い物」
「そのあと?」
「昼飯」
「そのあと?」
「お前が行きたいって言ってた店」
「覚えてたんだ」
「当たり前だろ」
「明日は?」
「仕事」
「明後日は?」
「休み」
「じゃあ出かけよう」
「どこ?」
「まだ決めてない」
「今日決めるか」
「うん」
アレンがパンを取り出す。
リリアは皿を並べる。
窓の外には普通の朝がある。
黒い月も、崩れた街も、返事のない墓もない。
三百年前、アレンはたった一人で死んだ世界に残され、いつ来るか分からない次の世界を待った。
今は違う。
朝になれば隣にいる。
昼になれば一緒に食事をする。
夜になれば今日あったことを話し、眠る前には明日の予定を決める。
そんな当たり前の日々を積み重ねていく。
「リリア」
「何?」
「明日も一緒に飯食おうな」
リリアは笑った。
「うん」
三百年待った男が欲しかったものは、永遠ではなかった。
絶対に失わない世界でも、何度でもやり直せる奇跡でもない。
好きな人と今日を生き、その人と明日の話をすることだった。
だから二人は、これからも何度だって約束する。
世界に決められた運命としてではなく、自分たちで選ぶ、ごく普通の未来として。
「また明日」
その言葉がもう祈りではなく約束になった世界で、アレンは幸せそうに笑った。
「――ああ。明日も、その先も一緒に生きようぜ」
アレンルート 第46章 終
ALLEN VERMILION ROUTE HAPPY END