魔法より、君に恋をする。
カイルルート 第38章 好きになるのが怖い人
翌朝七時二十五分、リリアが女子寮を出ると、カイルは昨日と同じ場所にいた。
今日はどちらが先だったのか聞こうと思っていたのに、彼の顔を見た瞬間、それより先に別のことが気になった。いつもならリリアを見つけるとすぐに歩き出すのに、今日は少し離れた場所からこちらを見たまま動かない。
「おはようございます」
「ああ」
「……おはようは?」
「おはよう」
「何か変」
「何がだ」
「分からないけど、変」
近づくと、カイルが僅かに視線を逸らした。
それで余計に分かった。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「私、何かした?」
「していない」
「じゃあ何で離れてるの?」
「離れていない」
「離れてる」
昨日なら、もう手を繋いで歩き始めていた距離だ。
リリアは自分の右手を見る。
カイルも一瞬だけそこを見た。
けれど手を伸ばさない。
「今日は手、繋がないの?」
聞くと、カイルの表情が僅かに硬くなった。
「……必要ないだろう」
「昨日も必要なくても繋いだ」
「昨日は昨日だ」
「今日は嫌?」
「そういう意味ではない」
「じゃあ繋ごう」
リリアが手を差し出す。
カイルはその手を見たまま動かなかった。
「クロフォード先輩?」
「リリア」
「はい」
「少し距離を置いた方がいい」
差し出した手が止まった。
「何で?」
「昨日考えた」
「何を?」
「俺たちのことだ」
胸の奥がざわつく。
昨日、二人とも「好きになる途中かもしれない」と言ったばかりだ。
「それで?」
「このまま毎朝会うのはやめた方がいい」
「……何で?」
「研究室にも来るな」
「何で?」
「二人で会う必要もない」
「だから何で?」
思ったより強い声が出た。
カイルが黙る。
「昨日までと全然違う。昨日、明日も会うって約束した」
「ああ」
「七時二十五分って決めた」
「ああ」
「今日も先輩来てるじゃん」
「最後に話すつもりだった」
「勝手」
リリアは差し出していた手を下ろした。
「一人で考えて、一人で決めたの?」
「そうだ」
「私には聞かないの?」
「聞けば、お前は嫌だと言うだろう」
「当たり前です」
「だからだ」
「意味分かんない」
胸の奥に、昨日とは違う痛みが広がった。
昨日、一日会えなかっただけで寂しかった。
それなのに今日は、目の前にいる本人から「もう会わない方がいい」と言われている。
「私、何か嫌なことした?」
「していない」
「じゃあ私といるのが嫌になった?」
「違う」
「昔のリリアの方がよくなった?」
「違う!」
初めて、カイルの声が強くなった。
リリアは驚いて黙る。
カイルも自分の声に驚いたように息を止めた。
「……違う」
今度は低く、静かに言う。
「それだけは違う」
「じゃあ何?」
リリアは彼を見る。
「昨日言ったよね。今、手を繋ぎたいのは私だって。朝会いたいのも私だって」
「ああ」
「私も、クロフォード先輩のこと好きになる途中かもしれないって言った」
「覚えている」
「先輩も同じだって言った」
「ああ」
「だったら何で?」
カイルはしばらく何も言わなかった。
朝の風が二人の間を抜けていく。
「同じだからだ」
「え?」
「お前を好きになるかもしれないから、離れた方がいい」
意味が分からなかった。
「……普通、逆じゃない?」
「俺には違う」
「何で?」
「俺はお前を殺せる」
その言葉で、空気が変わった。
リリアは黙った。
「一度やった」
カイルは自分の右手を見る。
「頼まれたからだろうと、世界を止めるためだろうと、理由は関係ない。俺は好きだった女を自分の手で殺した」
初めて聞いた。
「好きだったの?」
「ああ」
胸が少しだけ痛んだ。
それでも今は、その痛みよりカイルの顔の方が気になった。
「昔のリリアを?」
「愛していた」
静かな声だった。
「だから二度と同じことはしないと決めた。お前が現れた時、今度こそ守ると決めた。何が起きても、今度は死なせないと」
「それでずっと研究してた?」
「ああ」
「私のために?」
「……そうだ」
「でも、それって昔の私のためでしょ」
カイルの目が揺れた。
「最初はな」
「今は?」
返事がない。
リリアは一歩近づいた。
「今は誰のために研究してるの?」
「リリア」
「私?」
「ああ」
「昔の?」
「今の、お前だ」
胸が鳴る。
「じゃあ離れなくていいじゃん」
「よくない」
「何で?」
「今のお前を好きになれば、俺はまた同じことをするかもしれない」
「どうしてそうなるの?」
「お前を失うのが怖くなるからだ」
カイルは苦しそうに眉を寄せた。
「今でも十分怖い。昨日、外周作業で会えなかっただけで何度もお前のことを考えた。怪我をしていないか、また迷って妙な場所へ行っていないか、誰かといるのか。そんなことばかり考えていた」
「最後ちょっと違くない?」
「何がだ」
「誰かといるのかって、心配じゃなくない?」
「……」
「嫉妬?」
「今はそこではない」
「でも気になる」
「リリア」
「はい」
「真面目に聞け」
「聞いてます」
少しだけ空気が柔らかくなる。
でもカイルの表情はまだ苦しい。
「俺は、お前を守るという理由で、お前の選択を奪うかもしれない」
「例えば?」
「危険な場所へ行くなと言う。魔法を使うなと言う。誰とも関わるなと言うかもしれない」
「クロフォード先輩が?」
「ああ」
「言われても聞かないけど」
「……分かっている」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
「大丈夫ではない」
「私が嫌って言えばいいでしょ」
「それでも止めたくなるかもしれない」
「じゃあ喧嘩すればいい」
カイルが黙った。
「何?」
「お前は簡単に言うな」
「難しく考えすぎなんですよ」
「命の話だぞ」
「分かってる。でも、好きになったら絶対相手を傷つけない人なんているの?」
カイルがこちらを見る。
「私だってクロフォード先輩を傷つけるかもしれない。喧嘩するかもしれないし、嫌なこと言うかもしれないし、危ないことして心配かけるかもしれない」
「それは確実にするだろうな」
「そこは否定して」
「無理だ」
「ひどい」
リリアは少しむっとしたあと、もう一度カイルを見る。
「でも、だから最初から離れようとは思わない」
「お前は俺が何をしたか全部知らない」
「じゃあ教えて」
「……何?」
「私を殺した時のこと」
カイルの顔から表情が消えた。
「聞いて、それでも私がクロフォード先輩と会いたいって言ったら?」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
「聞けば、俺を見る目が変わる」
「それは私が決めることです」
カイルは答えない。
「クロフォード先輩、昨日言ったよね。私が違う答えを出すかもしれないのが怖いって」
「ああ」
「今も同じ?」
「……ああ」
「私が話を聞いて、もう会いたくないって言うのが怖い?」
長い沈黙のあと、カイルが頷いた。
「怖い」
その一言が、思っていたよりずっと弱かった。
リリアは少しだけ胸が痛くなった。
「じゃあ余計に勝手に離れないで」
「なぜ」
「私が嫌いになる前に自分から離れたら、同じじゃん」
カイルが目を見開く。
「私が決める前に、クロフォード先輩が答え決めてる」
「……」
「私、そういうの嫌です」
「分かっている」
「分かってないからやってる」
「……そうだな」
カイルは小さく息を吐いた。
「お前には敵わない」
「魔法?」
「違う」
「じゃあ何?」
「こういう時のお前だ」
「褒めてる?」
「たぶんな」
「じゃあ手」
「何?」
リリアはもう一度右手を差し出した。
「まだ離れる?」
カイルはその手を見る。
「……怖くないのか」
「何が?」
「この手が」
リリアは彼の右手を見た。
昔のリリアを殺した手。
カイル自身が、誰よりそれを覚えている。
「今、その手で私を殺したい?」
「そんなわけがない」
「じゃあ怖くない」
「リリア」
「むしろ今は、繋ぎたい」
カイルは動かない。
だからリリアから一歩近づき、彼の手を取った。
大きな掌。
少し冷たい。
昨日と同じ手だ。
「ほら」
「……何がだ」
「普通の手」
「お前は」
「何?」
「本当に怖いものを知らないな」
「知ってますよ」
「何が怖い」
「今は、クロフォード先輩が勝手にいなくなること」
言った瞬間、カイルの指が動いた。
リリアの手を握る。
「それは」
「嫌です」
「……ああ」
「もう勝手に決めない?」
「努力する」
「約束は?」
「簡単にはできない」
「何で?」
「俺はまた、お前を守るために勝手なことをするかもしれない」
「じゃあ、その時は私が怒る」
「それで済むと思うか」
「済ませる」
リリアは握った手を揺らした。
「一回で直らなかったら何回でも怒る」
「面倒だな」
「嫌?」
カイルが小さく笑った。
「……嫌じゃない」
「よし」
その笑顔を見たら、胸の奥にあった不安が少しだけ消えた。
「今日は研究室行く?」
「その前に授業だろう」
「あ」
「忘れていたのか」
「ちょっと」
「何のために朝会っているんだ」
「クロフォード先輩に会うため」
カイルが黙った。
「……何?」
「いや」
「耳赤い」
「見るな」
「今日は見ます」
「やめろ」
「だってもう離れないんでしょ」
「それとこれは別だ」
カイルが歩き出す。
でも手は繋いだままだ。
リリアはその隣へ並んだ。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「好きになるの、怖い?」
「ああ」
「私はちょっと楽しみ」
「何が」
「好きって分かったらどうなるのかなって」
「……お前は本当に」
「何?」
「俺と違うな」
「嫌?」
「いや」
カイルは前を向いたまま、少しだけ手に力を込めた。
「だから、惹かれるのかもしれない」
リリアの足が止まりかけた。
「今、何て?」
「聞こえただろう」
「もう一回」
「断る」
「聞きたい」
「言わない」
「クロフォード先輩」
「授業に遅れるぞ」
「逃げた」
「早く歩け」
でも耳が赤い。
リリアは笑いながら、その手を握り返した。
今度はもう、どちらも離そうとはしなかった。
*
その日の放課後、リリアは約束通り北塔の研究室へ向かった。
今日は一人で。
道はもう覚えた。
少しだけ迷ったけれど、五分ほど余計に歩いただけで到着した。
「遅い」
扉を開けた瞬間に言われた。
「五分だけ」
「迷ったな」
「迷ってない」
「嘘をつけ」
「遠回りしただけ」
「それを迷ったと言う」
「着いたからいいでしょ」
カイルは呆れながらも、机の上に置いていたカップを一つリリアの前へ出した。
「何?」
「ミルクティー」
「私の?」
「他に誰がいる」
前にも聞いた言葉。
でも今日は少し違って聞こえた。
「ありがとう」
「ああ」
カップを持つ。
甘い。
「美味しい」
「そうか」
「クロフォード先輩が作った?」
「ああ」
「甘さちょうどいい」
「何度か見ていたからな」
「何を?」
「お前が砂糖を入れる量」
リリアはカップを置いた。
「……それ、かなり見てません?」
「今更だろう」
「認めた」
「もう隠しても仕方ない」
「何でそんなに見てたの?」
「最初は監視だ」
「監視」
「魔力の異常がないか確認していた」
「今は?」
カイルが資料へ目を落とした。
「……癖だ」
「本当に?」
「何だ」
「好きだから見ちゃうとかじゃなくて?」
「まだ分からないと言っただろう」
「そっか」
少し残念だった。
自分でもそれが顔に出たと分かった。
「何だ、その顔は」
「何でもない」
「不満そうだ」
「不満じゃない」
「言え」
「言わない」
「朝の仕返しか」
「そうです」
カイルが溜息をつく。
「……好きだと言われたいのか」
心臓が跳ねた。
「え?」
「だから不満なのか」
「分からない」
「お前も分からないのか」
「うん」
リリアは少し考えた。
「でも、言われたら嬉しいと思う」
カイルの視線がこちらへ向く。
「俺に?」
「たぶん」
「他の奴でも?」
「……それは違うかも」
「なぜ」
「クロフォード先輩に言われたいのかもしれない」
今度はカイルが黙った。
研究室が急に静かになる。
自分が何を言ったのか理解した途端、リリアも恥ずかしくなった。
「今の忘れて」
「無理だ」
「じゃあ聞かなかったことにして」
「それも無理だ」
「クロフォード先輩」
「お前が言ったんだろう」
「言ったけど」
「俺に好きだと言われたい?」
「……たぶん」
「なぜ」
「分からない」
「そればかりだな」
「今考えてる途中だから」
カイルはしばらくリリアを見ていた。
「俺もだ」
「何が?」
「お前に好きだと言われたら、嬉しいと思う」
息が止まった。
カイルは目を逸らさない。
「たぶん、ではないな」
「じゃあ?」
「嬉しい」
胸が大きく鳴る。
「……まだ言わないですよ」
「分かっている」
「好きか分からないから」
「ああ」
「でも」
リリアは少しだけ笑った。
「言いたくなったら、一番に言う」
カイルの表情が僅かに柔らかくなる。
「そうしてくれ」
「先輩も?」
「ああ」
「他の人に先に言わない?」
「誰に言うんだ」
「昔のリリアとか」
カイルの表情が止まった。
しまったと思った。
「ごめん」
「なぜ謝る」
「嫌だった?」
「いや」
カイルは静かに首を振った。
「むしろ今ので分かった」
「何が?」
「昔の彼女に言いたいことと、お前に言いたいことは違う」
リリアは黙って聞いた。
「彼女には謝りたい。俺がしたことを許してほしいと思っているのかもしれない。ずっと、それを愛情と混同していた」
「混同?」
「ああ。会いたい、守りたい、もう失いたくない。それが全部昔の感情の続きだと思っていた」
カイルの視線がリリアへ向く。
「だが、お前に好きだと言われたいと思うのは、過去とは関係ない」
胸がじわりと熱くなる。
「何で?」
「昔の彼女は、もう俺を好きだったからだ」
「……あ」
「お前は違う」
少しだけ苦い笑み。
「お前が俺を選ぶ保証は何もない」
「だから言われたい?」
「ああ」
「私が自分で好きになって?」
「ああ」
「昔のリリアと関係なく?」
「それ以外に意味はない」
リリアはカイルを見つめた。
この人はずっと、過去に縛られているのだと思っていた。
でも今は、自分からそこを分けようとしている。
「じゃあ、ちゃんと考えます」
「何を」
「クロフォード先輩が好きか」
「……ああ」
「かなり真剣に」
「そうしてくれ」
「結果出るまで待ってて」
カイルの表情が少しだけ止まる。
「待つ」
「途中で離れない?」
「……離れない」
「約束?」
「ああ」
リリアは嬉しくなった。
「じゃあ手」
「今?」
「考えるため」
「意味が分からない」
「触れた時どう思うかも大事かもしれない」
「お前は何を基準に恋愛を判断しているんだ」
「セシルが、触れたいのも分かりやすいって言ってた」
カイルの眉が僅かに動いた。
「セシルに話したのか」
「うん」
「俺のことを?」
「名前も言った」
「……そうか」
「何?」
「いや」
「嫉妬?」
「なぜそこでそうなる」
「顔」
「顔?」
「ちょっと嫌そう」
「……」
「当たり?」
「手を出せ」
「誤魔化した」
「繋ぎたいんだろう」
「うん」
リリアが手を差し出すと、カイルはその手を取った。
今日は最初から指を絡める。
「……これ」
「何だ」
「恋人っぽい」
「また言うのか」
「だって普通の手繋ぎよりこっちの方が恋人っぽい」
「嫌なら変える」
「嫌じゃない」
「ならこのままでいい」
カイルの親指が、無意識なのかリリアの指を一度だけ撫でた。
それだけで心臓が跳ねた。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「今、撫でた?」
動きが止まった。
「無意識だ」
「もう一回して」
「なぜ」
「どう思うか確認したい」
「……本気か」
「うん」
カイルは困ったようにリリアを見る。
「お前は俺をどうしたいんだ」
「好きか知りたい」
「それで俺の理性を試すな」
「理性?」
「何でもない」
「またそれ」
リリアが追及しようとした時、カイルの親指がもう一度動いた。
今度は意識して。
指の付け根をゆっくり撫でる。
触れている場所はほんの少しなのに、そこから熱が広がるような感覚がした。
「……どうだ」
「緊張する」
「そうか」
「でも嫌じゃない」
「そうか」
「むしろ」
「むしろ?」
「もっとしてほしいかも」
カイルの手が完全に止まった。
「リリア」
「何?」
「それ以上は言うな」
「何で?」
「俺が困る」
「どう困るの?」
「……近づきたくなる」
リリアは瞬きをした。
「近づけばいいじゃん」
「簡単に言うな」
「どれくらい?」
「何が」
「どれくらい近づきたい?」
カイルは何も言わない。
でも目が逸れない。
今までよりずっと近い距離で見つめられているような気がした。
「例えば」
リリアは自分から椅子を少し寄せた。
「これくらい?」
「リリア」
「まだ遠い?」
「やめろ」
「嫌?」
「違う」
「じゃあ何?」
カイルは繋いでいない方の手で眉間を押さえた。
「お前は、自分が何をしているか分かっているのか」
「椅子近づけた」
「そういう意味ではない」
「じゃあ教えて」
「教えない」
「何で?」
「俺もまだ、どこまで触れていいか分からない」
その答えに、リリアは少しだけ真面目になる。
「じゃあ聞けばいいんじゃない?」
「何を」
「触っていいか」
カイルがこちらを見る。
「私も嫌なら嫌って言う」
「……本当にお前は」
「何?」
「俺が考えていることを簡単に壊すな」
「悪い意味?」
「逆だ」
カイルは小さく息を吐いた。
それから、繋いでいた手を一度離した。
少し残念に思った次の瞬間、その手がリリアの頬へ近づく。
でも触れる直前で止まった。
「触っていいか」
低い声だった。
心臓が大きく鳴る。
リリアは頬のすぐ横にある手を見る。
「……うん」
カイルの指先が頬へ触れた。
想像していたより優しい。
髪を避けるように耳の横へ指が滑る。
それだけなのに、手を繋いだ時よりずっと緊張した。
「どうだ」
「顔熱い」
「分かる」
「クロフォード先輩も?」
「……同じだ」
リリアは少し笑った。
「じゃあ一緒」
「ああ」
頬に触れていた手が離れようとする。
リリアは反射的にその手首を掴んだ。
「待って」
カイルが止まる。
「もう終わり?」
「……終わりだ」
「何で?」
「これ以上は、本当に俺が分からなくなる」
「何が?」
「お前にどこまで触れたいのか」
声が少し低くなる。
リリアは意味を全部理解したわけではなかった。
でも、胸が鳴った。
「それって」
「聞くな」
「好きになる途中だから?」
カイルは少しだけ目を閉じた。
「たぶんな」
「じゃあ私も」
「何がだ」
「もう少し好きになったかも」
カイルが目を開く。
「今?」
「うん」
「なぜ」
「触られた時、嬉しかったから」
しばらく何も言わなかったカイルの顔が、少しずつ赤くなった。
「……お前は、本当にそういうことを」
「言わない方がいい?」
「いや」
カイルは小さく笑った。
「俺にだけ言え」
今度はリリアが黙った。
「それ、ずるい」
「何がだ」
「急にそういうこと言う」
「嫌か」
「嫌じゃない」
「ならいいだろう」
「私の台詞取った」
「お互い様だ」
二人で少し笑った。
そのあとカイルは頬から手を離したけれど、代わりにもう一度リリアの手を取った。
今度はリリアから指を絡める。
カイルは何も言わず、その指を握り返した。
研究をするつもりで来たはずなのに、その日はほとんど資料が進まなかった。二人で同じ本を開いても、肩が触れるたびに意識してしまうし、カイルが説明するために顔を近づければリリアはさっき頬に触れられたことを思い出した。カイルの方も似たようなものらしく、普段なら一度で説明できる術式を途中で言い間違え、リリアに指摘されると無言で本を閉じた。
「今日、研究向いてない日?」
「誰のせいだと思っている」
「私?」
「他に誰がいる」
「じゃあ帰る?」
「……それは嫌だ」
カイル自身が言ってから、少し驚いた顔をした。
リリアは笑った。
「私も嫌」
「そうか」
「じゃあ研究やめて話す?」
「何を」
「何でも。クロフォード先輩のこと」
「またか」
「まだ知らないこといっぱいある」
「例えば?」
「休日何してる?」
「研究」
「つまらない」
「失礼だな」
「じゃあ私と休みだったら?」
カイルが止まった。
「何をしたい?」
「……考えたことがない」
「じゃあ考えて」
「今?」
「うん」
カイルは本気で考え始めた。
「街へ行くか」
「いいね」
「お前が行きたい店へ行く」
「クロフォード先輩が行きたいところは?」
「特にない」
「それ禁止」
「……本屋」
「行こう」
「まだ行くとは言っていない」
「今度行こう」
「お前は決めるのが早いな」
「嫌?」
カイルは少し笑った。
「嫌じゃない」
「じゃあ約束」
「ああ」
初めて、朝以外の約束ができた。
それだけで嬉しかった。
帰る頃には外が少し暗くなっていた。研究室を出て、二人で階段を下りる。今日はもう迷わない。それでも自然に手を繋いだ。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「今日、朝はもう会わないって言ったよね」
「ああ」
「今は?」
「撤回する」
「明日も?」
「迎えに行く」
「研究室も?」
「来たければ来い」
「二人で会うのも?」
カイルがこちらを見る。
「俺が会いたい」
胸が鳴った。
朝とは全然違う。
「もう一回」
「嫌だ」
「今日それ多い」
「一度で聞け」
「嬉しいことは何回でも聞きたい」
「……明日も会いたい」
「うん」
「明後日も」
リリアは驚いてカイルを見る。
「それは聞いてない」
「言いたくなった」
カイルの耳が赤い。
「先輩」
「何だ」
「私、今かなりきゅんとした」
「本人に言うな」
「だって嬉しかった」
「……そうか」
「クロフォード先輩は?」
「何が」
「今嬉しい?」
「お前が嬉しそうだからな」
「それだけ?」
カイルは少し迷ったあと、繋いだ手を持ち上げた。
「これも」
「手繋いでるの?」
「ああ」
「好き?」
「……好きかもしれない」
今度こそ、リリアの足が止まった。
「手が?」
「違う」
カイルも立ち止まる。
夜になりかけた廊下で、二人の目が合う。
「何が?」
分かっているのに聞いた。
カイルも、リリアが分かって聞いていることに気づいているようだった。
「今は言わない」
「ずるい」
「俺自身が、ちゃんと分かってから言う」
「いつ?」
「近いうちに」
「本当に?」
「ああ」
カイルは繋いだ手を少しだけ引いた。
リリアの身体が一歩近づく。
朝なら、彼はすぐに離れただろう。
でも今は離れない。
「だから」
すぐ近くから声がする。
「それまで、逃げるな」
リリアは彼を見上げた。
「逃げないよ」
「……そうか」
「クロフォード先輩こそ逃げないで」
「ああ」
「勝手に距離置かない」
「分かった」
「明日も迎えに来る」
「ああ」
「手も繋ぐ」
「それはお前が決めることか?」
「嫌?」
カイルはもう溜息すらつかなかった。
「嫌じゃない」
「じゃあ決まり」
「本当にお前には敵わないな」
呆れたような声なのに、表情は優しかった。
女子寮へ着くまで、二人はそのまま手を繋いでいた。入口の前で離れる時、今日はリリアから名残惜しいと思うより先に、カイルの指が僅かに動いた。離したくないのだと分かってしまい、それだけでまた胸が鳴る。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「離したくない?」
「……少し」
「私も」
「そうか」
それでも手を離す。
明日また会えるから。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
「また明日」
「また明日」
リリアが寮の入口へ向かう。
数歩進んだところで、後ろから名前を呼ばれた。
「リリア」
振り返る。
「何?」
カイルは少し迷っていた。
それから、珍しく自分から笑った。
「明日、会えるのを楽しみにしている」
心臓が跳ねた。
リリアはしばらく何も言えず、やがて自分の頬が熱くなっていることに気づいた。
「……私も」
それだけ返す。
今度こそ寮へ入った。
部屋へ戻ってからも、最後の笑顔が頭から離れなかった。頬に触れた手の感触も、「俺にだけ言え」と言われた時の声も、明日会えるのが楽しみだと告げられたことも、全部何度も思い出してしまう。
好きになる途中。
昨日までは確かにそうだった。
でも今は、その言葉の「途中」が思っていたより短いかもしれないと、リリアはベッドの上で一人、熱い頬を両手で押さえながら思った。
そして北塔へ戻ったカイルもまた、自分が朝に決めたことを思い返していた。距離を置くつもりだった。好きになる前に離れることが、今のリリアを過去から守る唯一の方法だと思っていた。
けれど、違った。
彼女を昔のリリアの代わりにしないということは、遠ざけることではない。今の彼女が何を望み、自分が今の彼女へ何を感じているのか、その一つ一つを過去とは別に選び直すことなのだ。
頬へ触れた時の温度を思い出す。
嬉しかったと言われた。
もっと触れてほしいとまで言われた。
その言葉を思い返すだけで、今まで知らなかった種類の欲が胸の奥に生まれる。
もっと触れたい。
手だけではなく、髪にも、頬にも。
もっと近くで笑う顔を見たい。
自分の名前を呼ぶ声を、もっと聞きたい。
そしていつか、「好き」と言ってほしい。
それを昔の記憶のせいにすることは、もうできなかった。
カイルは机の上に広げた魔法陣へ目を落とし、長い間、自分が研究を続けてきた理由を考えた。最初は過去を繰り返さないためだった。けれど今は、もう一つ理由がある。
今のリリアと生きる未来を失いたくない。
そこまで考えて、カイルはようやく認めた。
自分はもう、「好きになるかもしれない」場所にはいない。
ただ、それを彼女へ伝えるには、まだ一つだけ向き合わなければならない記憶が残っていた。