魔法より、君に恋をする。
カイルルート 第39章 この手を、もう一度
翌朝七時二十分、リリアは女子寮の玄関を出た。約束は七時二十五分だから、今日は自分が先だと思っていたのに、扉を開けた瞬間、いつもの木の下に黒髪の青年を見つけてしまう。
「クロフォード先輩、何時に来たの?」
「七時十五分だ」
「十分前じゃん。楽しみだった?」
いつもなら、ここで否定される。ところがカイルは少しだけ黙ったあと、「……そうだ」と答えた。
リリアは思わず彼の顔を見つめた。
「認めるんだ」
「嘘をつく必要がない」
「昨日までめちゃくちゃ誤魔化してたのに」
「昨日までの俺に言え」
「同じ人でしょ」
「今日から改めた」
真顔で言われて、リリアは笑ってしまった。するとカイルもほんの少しだけ口元を緩める。その顔を見ただけで胸が鳴って、昨日ベッドの上で考えたことを思い出した。
好きになる途中。
そう思っていたけれど、その“途中”はもうかなり終わりに近いのかもしれない。
「行くぞ」
「うん。……あれ?」
「何だ」
「手」
カイルは今日は自分から手を差し出していなかった。昨日の朝とは違って避けている様子はないので、リリアは試しに自分から右手を差し出す。
「どうぞ」
「何だ」
「見れば分かるでしょ」
「本当に繋ぎたいのか確認している」
「繋ぎたい」
「そうか」
それを聞いてから、カイルはようやく手を取った。最初から指が絡み、掌がぴたりと重なる。もう迷子にならないためなんて言い訳もない。ただ触れたいから繋いでいる。それが嬉しくて、リリアは二人の手を一度だけ揺らした。
「機嫌がいいな」
「うん」
「なぜ」
「クロフォード先輩がいるから」
隣から返事がなくなった。横を見ると、カイルは前だけを向いている。
「無視?」
「違う」
「じゃあ何?」
「朝から処理できないことを言うな」
「照れてる?」
「……そうだ」
「また認めた」
「逃げないと約束したからな。この程度で誤魔化す意味もない」
「クロフォード先輩、急成長ですね」
「誰のせいだと思っている」
「私?」
「他に誰がいる」
そう言って握られた手に少し力が加わる。その小さな仕草だけで、また心臓が騒がしくなった。
今日は北塔へ行かず、授業が始まるまで学院の庭を歩くことにした。朝露の残る芝生の横を並んで歩きながら、リリアは何度もカイルの横顔を盗み見る。昨日まで「好きかもしれない」と言っていた人が、今朝は明らかに何か違う。
「クロフォード先輩。昨日、自分の気持ちが分かったら教えるって言ってたよね」
「ああ」
「分かった?」
「ああ」
あまりにも早い返事に、今度はリリアが足を止めた。繋いだ手に引かれてカイルも止まり、二人は向かい合う。
「じゃあ教えて」
「その前に、お前に話さなければならないことがある」
「昔のこと?」
「ああ」
「……私を殺した時のこと?」
カイルの指が僅かに強張った。それでも手は離れない。
「聞きたいと言ったな」
「うん」
「今でもか」
「クロフォード先輩が話してくれるなら、聞きたい」
「話したくはない」
「じゃあ無理しなくても――」
「だが、話さなければ俺はお前に何も言えない」
その言葉で、リリアは何となく分かった。カイルが今朝から急に素直になったことも、昨日の最後に見せた表情も、全部この先へ繋がっている。
「今日の放課後、研究室へ来い。全部話す」
「うん」
「……怖くないのか」
「何が?」
「俺が何をしたのか知ることが」
「クロフォード先輩は怖い?」
「ああ」
「私に嫌われるのが?」
「それもある」
カイルは少し迷ってから、低い声で続けた。
「話せば、俺自身がもう一度あの日を見ることになる。それも怖い」
簡単に「大丈夫」とは言えなかった。リリアにはその記憶がない。彼が何を見て、何を感じたのか、本当の意味では分からない。
だから代わりに、繋いだ手を強く握った。
「じゃあ一緒に見よう」
「何?」
「クロフォード先輩が話して、私が聞く。一人で思い出さなくていいでしょ。今は私もいるから」
カイルの瞳が揺れた。
「お前は昔からそうだった」
「……それ、褒めてる?」
言った瞬間、カイルは目を伏せた。
「悪い。今の言い方は違った」
「うん」
「昔の彼女にも似たところはあった。だが、今そう言ったのはお前だ」
「はい」
「だから……ありがとうと言うべきだった」
「どういたしまして」
リリアが笑うと、カイルもようやく少しだけ息を抜いた。
「放課後まで、こうしていていいか」
繋いだ手を少し持ち上げて尋ねられ、リリアはすぐに握り返した。
「もちろん」
放課後、リリアはまっすぐ北塔へ向かった。今日は一度も迷わなかった。研究室の扉を開けると、カイルはいつもの机ではなく、窓際の椅子に座って待っている。机の上には魔法陣も資料もなく、二人分の飲み物だけが置かれていた。
「今日は研究しないんですね」
「ああ」
「私のミルクティー?」
「いつもと同じだ」
リリアは向かいではなく、カイルの隣へ座った。肩が僅かに触れる距離だったが、彼は離れなかった。
しばらく沈黙が続いた。リリアは急かさず、甘いミルクティーを一口飲む。いつもと同じ味が、妙に安心した。
やがてカイルが、自分の右手を見ながら話し始めた。
「昔の世界では、リリアの魔力が世界そのものと繋がっていた。彼女が生きている限り崩壊が進み、最後には全てが消えるとされた。俺たちは何ヶ月も別の方法を探した。術式を切断する方法も、魔力を封じる方法も、彼女だけを別空間へ移す方法も試した。全部失敗した」
声は平静だった。それでも、膝の上に置かれた右手だけが強く握られている。
「最後に残った方法が、彼女の死だった。俺は反対した。世界が滅びても構わないと思った。彼女一人を殺して残る世界に、何の意味があると本気で思っていた」
「でも、昔の私は違った?」
「ああ。自分一人のために何万人も死ぬことを受け入れられないと言った。そして……俺に、自分を殺してほしいと頼んだ」
「どうしてクロフォード先輩だったの?」
「俺以外には頼めないと言った」
カイルは一度目を閉じた。
「好きだから、最後は俺がいいと」
リリアの胸が痛んだ。昔の自分への嫉妬ではない。好きな人からそんな願いを託されたカイルが、どんな気持ちだったのかを想像したからだった。
「俺は何度も断った。彼女を眠らせて、その間に別の方法を探そうともした。だが時間がなかった。空が裂け、街が消え始めて……彼女は最後まで俺に頼んだ」
カイルの声が僅かに掠れる。
「最後に笑ったんだ。泣いていたくせに、俺を安心させるみたいに『大丈夫』と言った。大丈夫なわけがないのにな」
握られた右手が震えた。
「それで俺は、彼女の胸へ魔法を撃った。確実に終わらせるために、一番近い距離から。倒れる前に抱き止めた。まだ温かかった。名前を呼んだら、一度だけ目を開けて……ありがとう、と言った。それが最後だった」
リリアは何も言えなかった。時計の針が進む音だけが、静かな研究室に響いている。
「世界は助かった。少なくとも、その瞬間はな。だから正しい選択だったと言われた。彼女自身も望んだことだと、何度も言われた」
「でも、クロフォード先輩はそう思えなかった」
「ああ。それに結局、その世界も長くは続かなかった。再構築された」
「……じゃあ」
「俺が守ったと思った世界も消えた。彼女を殺した意味さえ、最後には残らなかった」
その言葉が一番痛かった。
カイルが抱えているのは、愛した人を自分の手で殺した記憶だけではない。世界を救うためだと自分へ言い聞かせたのに、その世界さえ消えてしまった。だから今度こそ守ると決めた。今のリリアを死なせないために研究を続け、好きになることすら恐れた。
「クロフォード先輩。今、触っていい?」
「……何を」
「手」
少しの沈黙のあと、固く握られていた右手がゆっくり開いた。
リリアはその掌へ自分の手を重ねる。
「これで、昔の私を殺したんですね」
「ああ」
「今でも覚えてる?」
「忘れたことはない」
リリアはその指へ自分の指を絡めた。
「じゃあ、これも覚えてて」
「何を」
「今の私が、この手を怖くないって言ったこと」
カイルがようやく顔を上げた。
「同じ手だ」
「うん。でも今、この手は私を殺してない。私と手を繋いでる」
「リリア……」
「過去がなくなるわけじゃないよ。忘れろとも言わない。でも、この手がそれしかできないわけじゃないでしょ。タルトも買えるし、ミルクティーも作れるし、迷子の私を連れて歩けるし、私の頬にも触れる」
リリアは少し笑った。
「それに、私が好きかもしれない人の手でもある」
カイルが息を止めた。
「……今、何と言った」
「クロフォード先輩が好きかもしれないって言いました」
「……そうか」
「何その反応」
「この状況で言われるとは思っていなかった」
「私も言うと思ってなかった。でも今、言いたくなった」
カイルの目が少しずつ柔らかくなる。
「話を聞いて、嫌いにならなかったか」
「ならないよ。むしろ前より分かった。でも一個だけ嫌」
「何だ」
「昔の私とのことを理由に、今の私とのことまで勝手に諦めるのは嫌」
しばらく見つめ合ったあと、カイルが静かに尋ねた。
「それは、俺に期待していいという意味か」
「何を?」
「お前を好きになることを」
リリアは思わず笑った。
「もう好きなんじゃないの?」
図星だったらしい。カイルは一瞬だけ目を逸らした。
「昨日、分かったって言ってたし」
「……ああ」
「じゃあ、好き?」
「お前は本当に容赦がないな」
「聞きたい」
カイルは長く息を吐いたあと、繋いでいた手を一度離した。その手がリリアの頬へ触れる。昨日と同じ場所なのに、今日は指先が僅かに震えていた。
「リリア」
「うん」
「俺は、お前が好きだ」
ずっと聞きたかったはずの言葉なのに、実際に聞くと息が止まった。
「昔の彼女に似ているからじゃない。守れなかった人の代わりでもない。朝に会いたいと思うのも、笑っていると嬉しいのも、他の奴といると気になるのも、お前に触れたいと思うのも……全部、今のお前だからだ」
カイルはもう逃げなかった。
「昨日、お前に好きだと言われたら嬉しいと話しただろう。あれも違った。ただ嬉しいんじゃない。俺は、お前に俺を好きになってほしい」
「……クロフォード先輩」
「返事は今いらない。お前が考えると言ったから、待つ」
頬から手が離れかけ、リリアは反射的にその手首を掴んだ。
「何で離れるの?」
「返事を急かしたくない」
「離れなくても急かさなければいいでしょ」
「……告白した男にそれを言うのか」
「だって、ここにいてほしい」
カイルは完全に言葉を失った。
「今すぐ恋人になるって言えるかは分からない。でも、告白されたから急に距離を戻すのは嫌。明日も会いたいし、手も繋ぎたいし、休みの日に本屋も行きたい」
「それは待つ側にはかなり酷だぞ」
「嫌?」
「嫌とは言っていない」
「じゃあいい」
「よくない」
そう言いながら、カイルは笑っていた。
「だが、断る気もない」
「じゃあ明日も七時二十五分」
「ああ」
「手も繋ぐ」
「お前が嫌でなければ」
「繋ぎたい」
「分かった」
そこでリリアは少し迷ったあと、彼の肩を見た。
「もう一個してみたいことがある」
「何だ」
「抱きしめてみたい」
「……俺を?」
「うん」
「なぜ」
「好きか確認するため」
「お前の確認方法は毎回俺に厳しいな」
それでも拒まれなかったので、リリアはそっと身体を寄せ、カイルの背中へ腕を回した。
思っていたよりずっと大きい。胸元へ頬が触れ、制服越しの体温が伝わってくる。カイルはしばらく完全に固まっていた。
「クロフォード先輩」
「……何だ」
「抱き返さないの?」
「していいのか」
「そのために抱きしめたんだけど」
背中へ腕が回る。
最初は触れるだけだった手が、リリアが離れないと分かると、少しずつ力を増していった。
「どう?」
「……まずい」
「何が?」
「離したくない」
胸が跳ねた。
「じゃあ、もう少しこのまま」
「お前、本当に返事を待たせる気があるのか」
「あるよ」
「なら少しは加減しろ」
「どうやって?」
「知らない」
頭の上から聞こえる声がおかしくて、リリアは笑った。すると抱きしめる腕がまた少しだけ強くなる。
「クロフォード先輩、心臓速い」
「言うな」
「私も速い」
「……そうか」
「うん。これ、結構好きかも」
「抱きしめるのが?」
「クロフォード先輩に抱きしめられるのが」
今度こそ、カイルは黙った。
「リリア」
「何?」
「それ以上は、返事を決めてからにしてくれ」
「それ以上って?」
「聞くな」
「キス?」
腕が固まった。
「……お前はどうしてそこだけ察しがいい」
「したい?」
「今は答えない」
「逃げないって言ったのに」
「これは逃げているんじゃない。耐えている」
「何に?」
「お前に」
その答えが嬉しくて、リリアは彼の胸元でまた笑った。
少しして身体を離すと、カイルは本当に名残惜しそうに腕を解いた。その顔を見た瞬間、リリアの中で答えがまた一つ形になる。告白されたから意識しているのではない。昨日までだって会いたかったし、触れたかった。昔のリリアの話をされれば嫌だった。今日、この人が苦しんでいるのを見たら、そばにいたいと思った。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「返事、そんなに待たせないと思う」
「急がなくていい」
「でも私が早く言いたいかも」
カイルが目を見開いた。
「何を」
「まだ秘密」
「……お前な」
「明日の朝まで考える。たぶん、もう答えは出てる気がするから」
帰り道、二人は昔の話をしなかった。夕食のこと、明日の授業のこと、今度の休日に行く本屋のこと。そんな普通の話ばかりだった。それがリリアには嬉しかった。過去を全部聞いたからといって、二人の間に過去しか残らないわけではない。むしろ今こうして手を繋いで歩いていることが、以前よりはっきり“現在の二人”のものになった気がした。
女子寮の入口へ着いても、今日はどちらもすぐには手を離さなかった。
「明日、七時二十五分」
「ああ」
「私の返事、聞きたい?」
「……聞きたい」
「怖い?」
「怖い」
「じゃあ一個だけ先に教える」
リリアは繋いだ手を両手で包んだ。
「嫌な答えではないと思う」
カイルが息を止める。
「それは期待していいのか」
「うん」
たった一言で、彼の表情が目に見えて柔らかくなった。それが嬉しくて、リリアは少しだけ近づく。
「おやすみなさい、クロフォード先輩」
「ああ。おやすみ、リリア」
手を離そうとした瞬間、今度はカイルの方がリリアの手を引いた。
「何?」
「……これくらいならいいか」
「何が?」
カイルの指が銀白の髪をそっと掬った。
そして、その髪へ唇を触れさせる。
ほんの一瞬だった。
頬でも唇でもない。それなのにリリアは完全に固まった。
「……今の何?」
「キスは返事を聞いてからにする。だから、その代わりだ」
「髪ならいいの?」
「俺の中ではな」
「ずるい」
「何がだ」
「私、今かなり好きになったかもしれない」
「……それを今言うのか」
カイルが片手で顔を覆う。
「耳真っ赤」
「帰れ」
「照れてる」
「早く寮へ入れ」
「明日逃げないでね」
カイルは顔を覆っていた手を下ろした。その奥にある瞳は、もう昔の誰かを見てはいなかった。
「逃げない。明日、ちゃんとお前の答えを聞く」
「うん。また明日」
「ああ。また明日」
部屋へ戻ったリリアは、ベッドへ座ると、さっき唇が触れた髪を指先でつまんだ。感触なんて残っているはずがないのに、思い出すだけで頬が熱くなる。
答えを考えるために目を閉じた。
けれど、もうほとんど考える必要はなかった。
会いたい。触れたい。自分を見てほしい。好きだと言われて嬉しい。抱きしめられれば離れたくなくなるし、髪に触れた唇を思い出しただけで、今度はどこへ触れてほしいのかまで考えてしまう。
それを恋ではないと言う方が、もう難しかった。
一方、女子寮を離れたカイルも、自分の右手を見ていた。その手には長い間、昔のリリアを殺した感触だけが残っていると思っていた。けれど今は、指を絡めた温度も、頬へ触れた柔らかさも、抱きしめた身体の温もりも重なっている。
過去は消えない。消す必要もない。
愛した人を殺したことも、その人を今でも大切に思っていることも、自分の一部だ。それでも、その罪悪感を理由に今のリリアを愛さないことまで正しいとは、もう思えなかった。
明日の朝、彼女は答えをくれる。
怖い。それでも聞きたい。
もし望んでいる言葉を彼女がくれるなら、過去の続きをやり直すのではなく、今度こそ今の彼女と初めから恋をしたい。
カイルは夜空を見上げた。
明日の七時二十五分が、待ち遠しかった。
「クロフォード先輩、何時に来たの?」
「七時十五分だ」
「十分前じゃん。楽しみだった?」
いつもなら、ここで否定される。ところがカイルは少しだけ黙ったあと、「……そうだ」と答えた。
リリアは思わず彼の顔を見つめた。
「認めるんだ」
「嘘をつく必要がない」
「昨日までめちゃくちゃ誤魔化してたのに」
「昨日までの俺に言え」
「同じ人でしょ」
「今日から改めた」
真顔で言われて、リリアは笑ってしまった。するとカイルもほんの少しだけ口元を緩める。その顔を見ただけで胸が鳴って、昨日ベッドの上で考えたことを思い出した。
好きになる途中。
そう思っていたけれど、その“途中”はもうかなり終わりに近いのかもしれない。
「行くぞ」
「うん。……あれ?」
「何だ」
「手」
カイルは今日は自分から手を差し出していなかった。昨日の朝とは違って避けている様子はないので、リリアは試しに自分から右手を差し出す。
「どうぞ」
「何だ」
「見れば分かるでしょ」
「本当に繋ぎたいのか確認している」
「繋ぎたい」
「そうか」
それを聞いてから、カイルはようやく手を取った。最初から指が絡み、掌がぴたりと重なる。もう迷子にならないためなんて言い訳もない。ただ触れたいから繋いでいる。それが嬉しくて、リリアは二人の手を一度だけ揺らした。
「機嫌がいいな」
「うん」
「なぜ」
「クロフォード先輩がいるから」
隣から返事がなくなった。横を見ると、カイルは前だけを向いている。
「無視?」
「違う」
「じゃあ何?」
「朝から処理できないことを言うな」
「照れてる?」
「……そうだ」
「また認めた」
「逃げないと約束したからな。この程度で誤魔化す意味もない」
「クロフォード先輩、急成長ですね」
「誰のせいだと思っている」
「私?」
「他に誰がいる」
そう言って握られた手に少し力が加わる。その小さな仕草だけで、また心臓が騒がしくなった。
今日は北塔へ行かず、授業が始まるまで学院の庭を歩くことにした。朝露の残る芝生の横を並んで歩きながら、リリアは何度もカイルの横顔を盗み見る。昨日まで「好きかもしれない」と言っていた人が、今朝は明らかに何か違う。
「クロフォード先輩。昨日、自分の気持ちが分かったら教えるって言ってたよね」
「ああ」
「分かった?」
「ああ」
あまりにも早い返事に、今度はリリアが足を止めた。繋いだ手に引かれてカイルも止まり、二人は向かい合う。
「じゃあ教えて」
「その前に、お前に話さなければならないことがある」
「昔のこと?」
「ああ」
「……私を殺した時のこと?」
カイルの指が僅かに強張った。それでも手は離れない。
「聞きたいと言ったな」
「うん」
「今でもか」
「クロフォード先輩が話してくれるなら、聞きたい」
「話したくはない」
「じゃあ無理しなくても――」
「だが、話さなければ俺はお前に何も言えない」
その言葉で、リリアは何となく分かった。カイルが今朝から急に素直になったことも、昨日の最後に見せた表情も、全部この先へ繋がっている。
「今日の放課後、研究室へ来い。全部話す」
「うん」
「……怖くないのか」
「何が?」
「俺が何をしたのか知ることが」
「クロフォード先輩は怖い?」
「ああ」
「私に嫌われるのが?」
「それもある」
カイルは少し迷ってから、低い声で続けた。
「話せば、俺自身がもう一度あの日を見ることになる。それも怖い」
簡単に「大丈夫」とは言えなかった。リリアにはその記憶がない。彼が何を見て、何を感じたのか、本当の意味では分からない。
だから代わりに、繋いだ手を強く握った。
「じゃあ一緒に見よう」
「何?」
「クロフォード先輩が話して、私が聞く。一人で思い出さなくていいでしょ。今は私もいるから」
カイルの瞳が揺れた。
「お前は昔からそうだった」
「……それ、褒めてる?」
言った瞬間、カイルは目を伏せた。
「悪い。今の言い方は違った」
「うん」
「昔の彼女にも似たところはあった。だが、今そう言ったのはお前だ」
「はい」
「だから……ありがとうと言うべきだった」
「どういたしまして」
リリアが笑うと、カイルもようやく少しだけ息を抜いた。
「放課後まで、こうしていていいか」
繋いだ手を少し持ち上げて尋ねられ、リリアはすぐに握り返した。
「もちろん」
放課後、リリアはまっすぐ北塔へ向かった。今日は一度も迷わなかった。研究室の扉を開けると、カイルはいつもの机ではなく、窓際の椅子に座って待っている。机の上には魔法陣も資料もなく、二人分の飲み物だけが置かれていた。
「今日は研究しないんですね」
「ああ」
「私のミルクティー?」
「いつもと同じだ」
リリアは向かいではなく、カイルの隣へ座った。肩が僅かに触れる距離だったが、彼は離れなかった。
しばらく沈黙が続いた。リリアは急かさず、甘いミルクティーを一口飲む。いつもと同じ味が、妙に安心した。
やがてカイルが、自分の右手を見ながら話し始めた。
「昔の世界では、リリアの魔力が世界そのものと繋がっていた。彼女が生きている限り崩壊が進み、最後には全てが消えるとされた。俺たちは何ヶ月も別の方法を探した。術式を切断する方法も、魔力を封じる方法も、彼女だけを別空間へ移す方法も試した。全部失敗した」
声は平静だった。それでも、膝の上に置かれた右手だけが強く握られている。
「最後に残った方法が、彼女の死だった。俺は反対した。世界が滅びても構わないと思った。彼女一人を殺して残る世界に、何の意味があると本気で思っていた」
「でも、昔の私は違った?」
「ああ。自分一人のために何万人も死ぬことを受け入れられないと言った。そして……俺に、自分を殺してほしいと頼んだ」
「どうしてクロフォード先輩だったの?」
「俺以外には頼めないと言った」
カイルは一度目を閉じた。
「好きだから、最後は俺がいいと」
リリアの胸が痛んだ。昔の自分への嫉妬ではない。好きな人からそんな願いを託されたカイルが、どんな気持ちだったのかを想像したからだった。
「俺は何度も断った。彼女を眠らせて、その間に別の方法を探そうともした。だが時間がなかった。空が裂け、街が消え始めて……彼女は最後まで俺に頼んだ」
カイルの声が僅かに掠れる。
「最後に笑ったんだ。泣いていたくせに、俺を安心させるみたいに『大丈夫』と言った。大丈夫なわけがないのにな」
握られた右手が震えた。
「それで俺は、彼女の胸へ魔法を撃った。確実に終わらせるために、一番近い距離から。倒れる前に抱き止めた。まだ温かかった。名前を呼んだら、一度だけ目を開けて……ありがとう、と言った。それが最後だった」
リリアは何も言えなかった。時計の針が進む音だけが、静かな研究室に響いている。
「世界は助かった。少なくとも、その瞬間はな。だから正しい選択だったと言われた。彼女自身も望んだことだと、何度も言われた」
「でも、クロフォード先輩はそう思えなかった」
「ああ。それに結局、その世界も長くは続かなかった。再構築された」
「……じゃあ」
「俺が守ったと思った世界も消えた。彼女を殺した意味さえ、最後には残らなかった」
その言葉が一番痛かった。
カイルが抱えているのは、愛した人を自分の手で殺した記憶だけではない。世界を救うためだと自分へ言い聞かせたのに、その世界さえ消えてしまった。だから今度こそ守ると決めた。今のリリアを死なせないために研究を続け、好きになることすら恐れた。
「クロフォード先輩。今、触っていい?」
「……何を」
「手」
少しの沈黙のあと、固く握られていた右手がゆっくり開いた。
リリアはその掌へ自分の手を重ねる。
「これで、昔の私を殺したんですね」
「ああ」
「今でも覚えてる?」
「忘れたことはない」
リリアはその指へ自分の指を絡めた。
「じゃあ、これも覚えてて」
「何を」
「今の私が、この手を怖くないって言ったこと」
カイルがようやく顔を上げた。
「同じ手だ」
「うん。でも今、この手は私を殺してない。私と手を繋いでる」
「リリア……」
「過去がなくなるわけじゃないよ。忘れろとも言わない。でも、この手がそれしかできないわけじゃないでしょ。タルトも買えるし、ミルクティーも作れるし、迷子の私を連れて歩けるし、私の頬にも触れる」
リリアは少し笑った。
「それに、私が好きかもしれない人の手でもある」
カイルが息を止めた。
「……今、何と言った」
「クロフォード先輩が好きかもしれないって言いました」
「……そうか」
「何その反応」
「この状況で言われるとは思っていなかった」
「私も言うと思ってなかった。でも今、言いたくなった」
カイルの目が少しずつ柔らかくなる。
「話を聞いて、嫌いにならなかったか」
「ならないよ。むしろ前より分かった。でも一個だけ嫌」
「何だ」
「昔の私とのことを理由に、今の私とのことまで勝手に諦めるのは嫌」
しばらく見つめ合ったあと、カイルが静かに尋ねた。
「それは、俺に期待していいという意味か」
「何を?」
「お前を好きになることを」
リリアは思わず笑った。
「もう好きなんじゃないの?」
図星だったらしい。カイルは一瞬だけ目を逸らした。
「昨日、分かったって言ってたし」
「……ああ」
「じゃあ、好き?」
「お前は本当に容赦がないな」
「聞きたい」
カイルは長く息を吐いたあと、繋いでいた手を一度離した。その手がリリアの頬へ触れる。昨日と同じ場所なのに、今日は指先が僅かに震えていた。
「リリア」
「うん」
「俺は、お前が好きだ」
ずっと聞きたかったはずの言葉なのに、実際に聞くと息が止まった。
「昔の彼女に似ているからじゃない。守れなかった人の代わりでもない。朝に会いたいと思うのも、笑っていると嬉しいのも、他の奴といると気になるのも、お前に触れたいと思うのも……全部、今のお前だからだ」
カイルはもう逃げなかった。
「昨日、お前に好きだと言われたら嬉しいと話しただろう。あれも違った。ただ嬉しいんじゃない。俺は、お前に俺を好きになってほしい」
「……クロフォード先輩」
「返事は今いらない。お前が考えると言ったから、待つ」
頬から手が離れかけ、リリアは反射的にその手首を掴んだ。
「何で離れるの?」
「返事を急かしたくない」
「離れなくても急かさなければいいでしょ」
「……告白した男にそれを言うのか」
「だって、ここにいてほしい」
カイルは完全に言葉を失った。
「今すぐ恋人になるって言えるかは分からない。でも、告白されたから急に距離を戻すのは嫌。明日も会いたいし、手も繋ぎたいし、休みの日に本屋も行きたい」
「それは待つ側にはかなり酷だぞ」
「嫌?」
「嫌とは言っていない」
「じゃあいい」
「よくない」
そう言いながら、カイルは笑っていた。
「だが、断る気もない」
「じゃあ明日も七時二十五分」
「ああ」
「手も繋ぐ」
「お前が嫌でなければ」
「繋ぎたい」
「分かった」
そこでリリアは少し迷ったあと、彼の肩を見た。
「もう一個してみたいことがある」
「何だ」
「抱きしめてみたい」
「……俺を?」
「うん」
「なぜ」
「好きか確認するため」
「お前の確認方法は毎回俺に厳しいな」
それでも拒まれなかったので、リリアはそっと身体を寄せ、カイルの背中へ腕を回した。
思っていたよりずっと大きい。胸元へ頬が触れ、制服越しの体温が伝わってくる。カイルはしばらく完全に固まっていた。
「クロフォード先輩」
「……何だ」
「抱き返さないの?」
「していいのか」
「そのために抱きしめたんだけど」
背中へ腕が回る。
最初は触れるだけだった手が、リリアが離れないと分かると、少しずつ力を増していった。
「どう?」
「……まずい」
「何が?」
「離したくない」
胸が跳ねた。
「じゃあ、もう少しこのまま」
「お前、本当に返事を待たせる気があるのか」
「あるよ」
「なら少しは加減しろ」
「どうやって?」
「知らない」
頭の上から聞こえる声がおかしくて、リリアは笑った。すると抱きしめる腕がまた少しだけ強くなる。
「クロフォード先輩、心臓速い」
「言うな」
「私も速い」
「……そうか」
「うん。これ、結構好きかも」
「抱きしめるのが?」
「クロフォード先輩に抱きしめられるのが」
今度こそ、カイルは黙った。
「リリア」
「何?」
「それ以上は、返事を決めてからにしてくれ」
「それ以上って?」
「聞くな」
「キス?」
腕が固まった。
「……お前はどうしてそこだけ察しがいい」
「したい?」
「今は答えない」
「逃げないって言ったのに」
「これは逃げているんじゃない。耐えている」
「何に?」
「お前に」
その答えが嬉しくて、リリアは彼の胸元でまた笑った。
少しして身体を離すと、カイルは本当に名残惜しそうに腕を解いた。その顔を見た瞬間、リリアの中で答えがまた一つ形になる。告白されたから意識しているのではない。昨日までだって会いたかったし、触れたかった。昔のリリアの話をされれば嫌だった。今日、この人が苦しんでいるのを見たら、そばにいたいと思った。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「返事、そんなに待たせないと思う」
「急がなくていい」
「でも私が早く言いたいかも」
カイルが目を見開いた。
「何を」
「まだ秘密」
「……お前な」
「明日の朝まで考える。たぶん、もう答えは出てる気がするから」
帰り道、二人は昔の話をしなかった。夕食のこと、明日の授業のこと、今度の休日に行く本屋のこと。そんな普通の話ばかりだった。それがリリアには嬉しかった。過去を全部聞いたからといって、二人の間に過去しか残らないわけではない。むしろ今こうして手を繋いで歩いていることが、以前よりはっきり“現在の二人”のものになった気がした。
女子寮の入口へ着いても、今日はどちらもすぐには手を離さなかった。
「明日、七時二十五分」
「ああ」
「私の返事、聞きたい?」
「……聞きたい」
「怖い?」
「怖い」
「じゃあ一個だけ先に教える」
リリアは繋いだ手を両手で包んだ。
「嫌な答えではないと思う」
カイルが息を止める。
「それは期待していいのか」
「うん」
たった一言で、彼の表情が目に見えて柔らかくなった。それが嬉しくて、リリアは少しだけ近づく。
「おやすみなさい、クロフォード先輩」
「ああ。おやすみ、リリア」
手を離そうとした瞬間、今度はカイルの方がリリアの手を引いた。
「何?」
「……これくらいならいいか」
「何が?」
カイルの指が銀白の髪をそっと掬った。
そして、その髪へ唇を触れさせる。
ほんの一瞬だった。
頬でも唇でもない。それなのにリリアは完全に固まった。
「……今の何?」
「キスは返事を聞いてからにする。だから、その代わりだ」
「髪ならいいの?」
「俺の中ではな」
「ずるい」
「何がだ」
「私、今かなり好きになったかもしれない」
「……それを今言うのか」
カイルが片手で顔を覆う。
「耳真っ赤」
「帰れ」
「照れてる」
「早く寮へ入れ」
「明日逃げないでね」
カイルは顔を覆っていた手を下ろした。その奥にある瞳は、もう昔の誰かを見てはいなかった。
「逃げない。明日、ちゃんとお前の答えを聞く」
「うん。また明日」
「ああ。また明日」
部屋へ戻ったリリアは、ベッドへ座ると、さっき唇が触れた髪を指先でつまんだ。感触なんて残っているはずがないのに、思い出すだけで頬が熱くなる。
答えを考えるために目を閉じた。
けれど、もうほとんど考える必要はなかった。
会いたい。触れたい。自分を見てほしい。好きだと言われて嬉しい。抱きしめられれば離れたくなくなるし、髪に触れた唇を思い出しただけで、今度はどこへ触れてほしいのかまで考えてしまう。
それを恋ではないと言う方が、もう難しかった。
一方、女子寮を離れたカイルも、自分の右手を見ていた。その手には長い間、昔のリリアを殺した感触だけが残っていると思っていた。けれど今は、指を絡めた温度も、頬へ触れた柔らかさも、抱きしめた身体の温もりも重なっている。
過去は消えない。消す必要もない。
愛した人を殺したことも、その人を今でも大切に思っていることも、自分の一部だ。それでも、その罪悪感を理由に今のリリアを愛さないことまで正しいとは、もう思えなかった。
明日の朝、彼女は答えをくれる。
怖い。それでも聞きたい。
もし望んでいる言葉を彼女がくれるなら、過去の続きをやり直すのではなく、今度こそ今の彼女と初めから恋をしたい。
カイルは夜空を見上げた。
明日の七時二十五分が、待ち遠しかった。