魔法より、君に恋をする。

カイルルート 第41章 はじめてのデート

恋人になった日の授業ほど、長く感じるものはないのかもしれない。

 少なくとも、その日のリリアはそう思った。

 午前中の魔法理論はいつも通りだったし、昼休みもいつも通りだった。教師の話もちゃんと聞いていたし、指名された問題にも答えられた。それなのに、時計を見る回数だけが明らかに多い。

「……あと三時間」

 思わず呟いたところで、隣にいたセシルがこちらを見た。

「何かあるの?」

「放課後に出かける」

「へえ。誰と?」

「クロフォード先輩」

 答えてから、少し迷う。

 別に隠す必要はない。カイルも今朝、「聞かれたらそうだと答える」と言っていた。

「今日から付き合うことになった」

 セシルが一度瞬きをした。

「……そっか」

「うん」

「ちゃんと答え、出たんだね」

「出た」

 セシルは少しだけ目を細めた。それがどんな感情なのか、リリアには分からなかった。ただ次の瞬間には、いつもの穏やかな笑顔に戻っている。

「おめでとう、リリア」

「ありがとう」

「それで、初デート?」

「たぶん」

「たぶん?」

「本屋行くって話してたら、これ初デートじゃない?ってなった」

 セシルがくすっと笑う。

「二人らしいね」

「でも朝からもうキスした」

「…………え?」

 珍しくセシルが固まった。

「一回だけ」

「回数の問題じゃないかな」

「そう?」

「そうだと思うよ」

 セシルは困ったように笑いながら、頬杖をついた。

「リリアって、恋愛の話になると急にすごいことを普通の顔で言うよね」

「クロフォード先輩にも似たようなこと言われる」

「クロフォード先輩、大変そう」

「何で?」

「……ううん。幸せそうならいいよ」

 最後の言葉だけ、少し優しかった。

 リリアがその意味を考える前に予鈴が鳴り、昼休みは終わった。

 午後の授業を終え、リリアが教室を出たのは予定より五分ほど遅かった。廊下へ出た瞬間、窓際に立つ黒髪の青年が目に入る。

「あ」

 カイルもこちらに気づいた。

 リリアは思わず駆け寄った。

「クロフォード先輩」

「走るな」

「待った?」

「五分程度だ」

「ごめんなさい」

「別にいい。待つのは慣れている」

「それ、何か重い意味ある?」

「今回はない」

「今回は」

 リリアが笑うと、カイルも僅かに口元を緩めた。

 そこで、二人とも同時に黙った。

 朝なら自然に繋げたはずの手が、なぜか今日は動かない。

「……行く?」

「ああ」

 二人で歩き出す。

 手は繋がない。

 昨日までなら迷子防止だの何だのと言いながら、ほとんど当然のように触れていた。それなのに“初デート”と名前がついた途端、妙に意識してしまう。

 校門まで来たところで、リリアは我慢できなくなった。

「何で手繋がないの?」

「お前も繋がないだろう」

「先輩から来るかなって」

「俺も同じことを考えていた」

「何それ」

「知らん」

 少しだけ見つめ合ったあと、リリアが先に笑った。

「付き合う前の方が普通に繋いでたね」

「そうだな」

「恋人になったのに」

「……恋人になったからだろう」

 カイルが右手を差し出した。

「今までより意味を考える」

「手繋ぐだけなのに?」

「俺にとっては、もう“だけ”ではない」

 さらりと言われ、リリアの方が黙ってしまった。

「……クロフォード先輩」

「何だ」

「最近、急にそういうこと言うよね」

「嫌か」

「好き」

「なら問題ない」

「強くなったなあ」

「誰のせいだ」

 差し出された手へ自分の手を重ねる。

 指が絡むと、ようやくいつもの二人に戻れた気がした。

 学院から街の中心部までは、歩いて十五分ほどだった。休日ほどではないものの通りには学生や買い物客が多く、パン屋や菓子店から甘い香りが漂っている。

「先に本屋?」

「ああ。何か見たい本はあるか」

「特にない。クロフォード先輩が何見るのか見たい」

「俺を見に本屋へ行くのか」

「そう」

「本の意味がないな」

「デートだからいいの」

 その言葉を聞くたびに、カイルの耳が僅かに赤くなる。

「まだ慣れない?」

「何に」

「デートって言われるの」

「……少し」

「私も」

「お前は楽しそうに連呼しているが」

「言ったら慣れるかなと思って」

「俺で実験するな」

「研究者なのに?」

「そういう問題ではない」

 話しているうちに本屋へ着いた。

 店内へ入ると、カイルは自然に魔法学の専門書が並ぶ棚へ向かう。リリアもその隣についていった。

「やっぱりここなんだ」

「何がだ」

「デートでも研究の本見るんだなって」

「見たい本を見て何が悪い」

「悪くないよ。クロフォード先輩っぽい」

 カイルは一冊を手に取った。

 古代術式に関する分厚い本だった。

「面白い?」

「面白い」

「どこが?」

「術式構造の変遷が――」

 説明が始まった。

 最初は軽い気持ちで聞いたリリアだったが、カイルは本当に楽しそうだった。普段より僅かに話す速度が速い。ページを開いて図を見せながら、古い術式と現在の魔法理論の違いを説明してくれる。

 リリアは途中から、本よりカイルの顔を見ていた。

「……聞いているか」

「聞いてる」

「ならこっちを見ろ」

「見てるよ」

「本をだ」

「クロフォード先輩見てた」

 カイルが黙った。

「楽しそうだったから」

「……悪いか」

「全然。もっと見たい」

「俺は展示物じゃない」

「彼氏です」

「それを言えば何でも通ると思うな」

「通らない?」

「……少しは通る」

「通るんだ」

 リリアが笑うと、カイルは諦めたように本を閉じた。

「お前は何か見ないのか」

「じゃあ魔法書」

「どんなものがいい」

「可能性創造に関係ありそうなの」

 その瞬間だけ、カイルの表情が僅かに変わった。

「……なら、こっちだ」

 連れて行かれたのは、一般的な魔法理論ではなく、魂や魔力の構造を扱う専門書の棚だった。

「私の魔法って、やっぱり魂と関係あるの?」

「可能性は高い。お前の魔法は通常の属性魔法と違って、魔力だけで完結していない」

「世界そのものに触ってるから?」

「ああ」

 カイルは一冊の本を抜き出し、ページをめくる。

「ただし、今までの研究には前提が一つ欠けていた」

「何?」

「お前自身の意思だ」

 リリアは彼を見た。

「俺はずっと、お前を危険から遠ざける方法を探していた。魔力を封じる方法も、世界との接続を切る方法もな」

「私に黙って?」

「……以前は、そのつもりだった」

「やっぱり」

「怒るな。今は違う」

 カイルはすぐに本を閉じた。

「お前に何かするなら、まずお前に説明する。お前が嫌だと言えば別の方法を探す」

「本当に?」

「ああ」

「世界が危なくなっても?」

 カイルの表情が固まった。

 答えが出るまで少し時間がかかった。

「……それでもだ」

 その言葉が簡単ではないことくらい、リリアにも分かった。

「俺は過去に一度、“世界のため”という理由で愛した人間の選択を受け入れた。今度は逆に、お前を守るという理由で、お前から選択を奪うところだった」

「うん」

「どちらも違う」

 カイルはリリアを見る。

「今度は、一緒に決める」

 その言葉が嬉しくて、リリアは彼の袖を少し引いた。

「それ、忘れないでね」

「ああ」

「私も忘れない」

 研究の話はそこで終わりにした。

 会計を済ませて店を出ると、カイルは結局三冊も本を買っていた。

「重そう」

「問題ない」

「一冊持とうか?」

「必要ない」

「彼女なのに?」

「彼女だから荷物を持たせない」

「そういうのいいから一冊ちょうだい」

「なぜ」

「一緒に買った感じがするから」

 カイルはしばらくリリアを見たあと、一番薄い本を差し出した。

「これなら」

「過保護」

「重いものを持たせる意味がない」

「じゃあ今度クロフォード先輩が重そうな荷物持ってたら私も持つ」

「俺はお前より力がある」

「そういう問題じゃない」

 今度はカイルが黙った。

「……なるほど」

「分かった?」

「ああ。今のは俺が悪かった」

「素直」

「学習している」

 その答えに、リリアは満足した。

 本屋を出たあとは、通りにある小さな菓子店へ入った。

 ショーケースを見た瞬間、リリアはカイルを見る。

「ある」

「何が」

「苺タルト」

「見れば分かる」

「食べる」

「そう言うと思った」

 カイルは自分には甘くない焼き菓子とコーヒーを選んだ。窓際の二人席へ座り、リリアは苺タルトを一口食べる。

「おいしい」

「そうか」

「食べる?」

「甘いだろう」

「一口」

「いらない」

「恋人っぽいことしようよ」

「それは恋人でなくてもできる」

「じゃあクロフォード先輩が思う恋人っぽいことって何?」

 カイルの動きが止まった。

「……難しい質問をするな」

「研究者なのに」

「研究対象にしたことがない」

「じゃあ今から研究しよう」

「何を」

「恋人」

 リリアはフォークを置いて、少し考える。

「手繋ぐ」

「もうしている」

「デートする」

「今している」

「キスする」

「……朝した」

「じゃあ全部してる」

「そうだな」

「付き合う前から半分くらいやってたね」

「言うな」

 カイルがコーヒーへ逃げるように口をつける。

 リリアは笑いながらタルトをもう一口食べた。

「でも、何か違う」

「何が」

「朝からずっと、同じことしてても前より嬉しい」

 カイルがカップを置いた。

「俺もだ」

「本当?」

「ああ。今までは、どこまで望んでいいのか分からなかった」

「今は?」

「少なくとも、お前に好きでいてほしいと思うことを隠さなくていい」

 静かな声だった。

「会いたいと言える。触れたいと言える。お前が他の男と親しくしていれば嫉妬するとも言える」

「嫉妬するの?」

「する」

「誰に?」

「言わない」

「ノア?」

 カイルの眉が僅かに動いた。

「ノアなんだ」

「名前を出すな」

「アレン先輩は?」

「増やすな」

「レオン先輩」

「リリア」

 低い声で名前を呼ばれ、リリアは笑った。

「結構いるね」

「楽しむな」

「だってクロフォード先輩も嫉妬するんだなって」

「する。だが、それを理由にお前が誰と話すか決めるつもりはない」

 カイルは少しだけ間を置いた。

「そこは間違えない」

 冗談の中に混ざったその一言に、リリアは目を細めた。

「うん。それなら嫉妬していいよ」

「許可されるものなのか?」

「知らない。でもちょっと嬉しい」

「……お前は変なところで喜ぶな」

「好きだからじゃない?」

 カイルが黙る。

「また止まった」

「まだ慣れていない」

「好きって言われるの?」

「ああ」

「じゃあいっぱい言った方がいい?」

「やめろ」

「嫌?」

「そういう意味ではない」

「じゃあ言う」

「リリア」

「好き」

 カイルが額を押さえた。

「……本当にやめろ」

「何で?」

「帰したくなくなる」

 今度はリリアが止まった。

 カイルは自分で言ってから気づいたらしく、少しだけ目を逸らす。

「……今のは忘れろ」

「無理」

「忘れろ」

「絶対無理」

 リリアは熱くなった頬を隠すために、残っていたタルトを食べた。

「クロフォード先輩」

「何だ」

「私も、まだ帰りたくない」

 今度は二人とも黙った。

 付き合ったからといって、急に何もかも上手くなるわけではないらしい。

 むしろ好きだと分かっているからこそ、言葉一つで以前より簡単に動揺する。

 それが少し面倒で、でもかなり楽しかった。

 店を出る頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。

 学院へ戻る道で、カイルは当然のように手を差し出した。

 今度は迷わず握る。

「初デート、どうでした?」

「面接か?」

「感想聞いてる」

「楽しかった」

「何が一番?」

 カイルは少し考えた。

「全部だ」

「ずるい答え」

「本当だから仕方ない」

「本屋とタルトと私なら?」

「お前」

 即答だった。

「……そこは考えてよ」

「なぜだ」

「こっちにも心の準備があるから」

「朝、お前も同じようなことをしていただろう」

「仕返し?」

「違う。聞かれたから答えただけだ」

 カイルは前を向いたまま続ける。

「本はいつでも読める。タルトもいつでも買える。今日が楽しかったのは、お前がいたからだ」

「……強くなりすぎ」

「何が」

「彼氏力」

「意味が分からない」

 本人が本気で分かっていないらしいのが、余計に困る。

 学院へ戻る頃には、辺りはすっかり夕暮れになっていた。女子寮まで送ってもらい、入口の前で二人は向かい合う。

「今日はありがとう」

「ああ」

「楽しかった」

「俺もだ」

「次はどこ行く?」

「もう次の話か」

「行きたくない?」

「行きたい」

「じゃあ決まり」

 カイルが少し笑う。

「お前といると、予定が増えるな」

「嫌?」

「逆だ」

 その答えを聞いた瞬間、リリアは今日一日ずっと感じていたことが分かった。

 カイルにとって未来は、ずっと怖いものだったのだ。

 また同じことが起きるかもしれない。リリアが死ぬかもしれない。自分が同じ選択をするかもしれない。だから未来を考える時、彼はいつも最悪の可能性から先に見ていた。

 けれど今は違う。

「クロフォード先輩」

「何だ」

「来週もどこか行こう」

「ああ」

「その次も」

「ああ」

「卒業したあとも」

 カイルが少し驚いた顔をした。

 リリア自身も、そこまで先のことを言うつもりはなかった。

「……今のはちょっと先すぎた?」

「いや」

 カイルは繋いでいた手を握り直した。

「嬉しかった」

 その声が思ったより優しくて、リリアは笑った。

「じゃあ覚えといて」

「ああ」

「私、忘れるかもしれないけど」

「お前が言い出したんだろう」

「じゃあ先輩が覚えてて」

「任せろ」

 しばらく見つめ合ったあと、カイルの視線がほんの一瞬だけリリアの唇へ落ちた。

 朝のことを思い出す。

「……キスしたい?」

 聞くと、カイルは小さく息を吐いた。

「お前は毎回聞くのか」

「だって顔に出てた」

「出していない」

「見てたよ」

「……したい」

 素直な答えに胸が鳴る。

 それでもカイルは近づいてこなかった。

「でも今日はしない」

「何で?」

「朝したから十分だ」

「一日一回制?」

「そんな制度はない」

「じゃあ何?」

 カイルは少しだけ考えてから、リリアの頭へ手を置いた。

「急ぎたくない」

「……そっか」

「嫌か?」

「ううん」

 むしろ、その答えが嬉しかった。

 好きだから触れたい。

 でも好きだから、急がない。

 その両方がカイルの中にある。

「じゃあ今日はこれで我慢する」

 リリアは一歩近づき、彼の腕へ軽く抱きついた。

 カイルの身体が一瞬固まる。

「リリア」

「キスじゃないからいいでしょ」

「そういう問題か?」

「嫌?」

「……嫌ではない」

 少しして、背中へ腕が回った。

 昨日より自然だった。

 ほんの少しだけ抱きしめてもらってから、リリアは自分から離れる。

「おやすみ、クロフォード先輩」

「ああ。おやすみ、リリア」

 寮へ入ろうとして、ふと足を止めた。

 恋人になったのに、ずっと名字で呼んでいる。

 それが急に気になった。

「ねえ、クロフォード先輩」

「何だ」

「恋人なのにずっとクロフォード先輩って、ちょっと遠くない?」

 カイルの表情が止まった。

 リリアはその変化を見逃さなかった。

「……昔の私は、何て呼んでたの?」

 少しの沈黙。

「カイル、と」

「そっか」

 胸の奥に、ほんの僅かな引っかかりが生まれた。

 けれど以前ほど嫌ではない。

「じゃあ私は同じにしない」

「……なぜ」

「真似したみたいになるから」

 リリアは少し考える。

「カイル先輩」

 呼んだ瞬間、彼の目が見開かれた。

「これなら私の呼び方でしょ」

「……ああ」

「嫌?」

「いや」

 カイルはしばらく何かを堪えるように黙っていた。

「もう一度呼んでくれ」

「カイル先輩」

 今度は、はっきり笑った。

「それがいい」

「じゃあ今日からカイル先輩」

「ああ」

「おやすみ、カイル先輩」

「……おやすみ、リリア」

 その夜、研究室へ戻ったカイルは、机の上に置かれた一冊の研究記録を開いた。

 最初のページには、数ヶ月前に自分で書いた文字が残っている。

『研究対象――リリア・アスター』

 入学する前から調べていた。

 同じ悲劇を繰り返さないために。

 彼女の魔力を解析し、危険があれば封じ、必要なら本人の意思より先に守るつもりだった。

 今なら、その文字がひどく傲慢に見える。

 カイルはペンを取り、その一行へ線を引いた。

『研究対象――リリア・アスター』

 少し考えてから、その下へ新しく書き加える。

『研究協力者――リリア・アスター』

 勝手に決めたことだから、明日見せたら怒られるかもしれない。「私まだ協力するって言ってない」と言う顔まで想像できた。

 それなら明日、聞けばいい。

 彼女が嫌だと言えば書き直せばいい。

 それでいいのだ。

 カイルはページをめくろうとして、手を止めた。

 紙の端に、ごく薄い赤い光が浮かんでいる。

「……何だ?」

 恋人になった浮ついた気分が、一瞬で消えた。

 魔力を流す。

 すると今まで反応しなかった術式の一部が、ゆっくりと文字を形成した。

『独立個体――ELICIA』

 その下に、もう一行。

『魂魄封印術式――再起動兆候』

 カイルの表情が変わった。

 魂魄封印術式。

 それは、過去の世界で何度もリリアと彼らを縛ってきたものだった。

 しかも、現在の世界では停止しているはずのものだ。

 カイルはすぐに別の資料を開き、数値を照合する。

 間違いではない。

 何かが動き始めている。

 けれど、その瞬間に彼の頭へ浮かんだのは、リリアの魔力を封じる方法ではなかった。

 今日、本屋で交わした約束だった。

『今度は、一緒に決める』

 カイルは記録を閉じなかった。

 隠すこともしなかった。

「……明日、話す」

 今までなら一人で調べ、解決策を見つけてから彼女へ伝えただろう。

 今は違う。

 怖い未来ほど、一緒に見る。

 それが恋人になるより前に、二人で決めたことだった。

 机の上では、赤い文字が静かに明滅している。

 幸せな一日の終わりに現れた、小さな異変。

 それでもカイルは、もう一人で未来を決めようとはしなかった。
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