魔法より、君に恋をする。
カイルルート 第42章 一緒に決める
翌朝七時二十分、リリアが女子寮を出ると、カイルはもういつもの木の下にいた。
「おはよう、カイル先輩」
昨日決めたばかりの呼び方を使うと、カイルの表情が一瞬だけ止まった。
「……おはよう」
「まだ慣れない?」
「ああ」
「じゃあいっぱい呼ぼうかな。カイル先輩」
「やめろ」
「嫌?」
「逆だ」
即答されて、リリアの方が黙った。
「……朝から強い」
「お前が聞いたんだろう」
「昨日から彼氏が強くなった」
「意味が分からない」
そう言いながら差し出された手を、リリアは自然に取った。指を絡めて歩き出す。
昨日までなら、それだけで朝から嬉しくなっていた。
今日も嬉しい。
ただ、少し歩いたところでリリアは隣を見上げた。
「カイル先輩」
「何だ」
「何かあった?」
カイルがこちらを見る。
「なぜそう思う」
「何となく」
「何となくで分かるのか」
「昨日より眉間が怖い」
「いつもと同じだ」
「違う。ちょっと研究してる時の顔」
カイルはしばらく黙っていた。
リリアは何も言わずに待つ。
「……昨夜、異変があった」
やがてカイルはそう言った。
「お前に関する研究記録に、停止していたはずの術式が反応した」
「私に関する?」
「ああ。魂魄封印術式だ」
聞き覚えのない言葉に、リリアは首を傾げる。
「何それ」
「過去の世界で、俺たちの魂と魔力に組み込まれていた術式だ。世界の再構築と関係している」
「それが動いた?」
「再起動の兆候が出ている」
思っていたより重い話だった。
リリアは足を止める。
カイルも止まった。
「……世界って、もう今までみたいにやり直さないんじゃなかったの?」
「そのはずだ」
「じゃあ何で?」
「分からない」
カイルははっきりそう答えた。
「だから今日、お前と調べたい」
リリアは瞬きをした。
「私と?」
「ああ」
「先に一人で全部調べてないの?」
「最低限の確認だけした」
「解決方法も探してない?」
「探そうとはした」
「したんだ」
「癖だ」
少しだけ気まずそうに言われ、リリアは笑ってしまった。
「でも途中でやめた?」
「ああ」
「何で?」
聞かなくても、何となく答えは分かっていた。
「一緒に決めると約束したからだ」
リリアは繋いでいる手を見た。
昨日のデートで交わしたばかりの約束。
守ると言うのは簡単だ。でも、実際に危険が現れた時にも同じことができるかは別だと思っていた。
「えらい」
「子供扱いするな」
「でもえらい」
「当然のことをしただけだ」
「その当然が苦手だった人でしょ」
カイルが何も言えなくなる。
「だから褒めてる」
「……そうか」
「うん」
リリアは少しだけ手を強く握った。
「じゃあ一緒に調べよう」
「ああ」
「でもその前に授業」
「分かっている」
「今すぐ研究室行きそうな顔してる」
「行きたい」
「駄目です」
「……分かっている」
不満そうだった。
リリアは思わず笑った。
「放課後ね」
「ああ」
「迎えに来てくれる?」
「行く」
「じゃあ、それまでは普通に学校」
カイルは少し考えたあと、頷いた。
「分かった」
その返事を聞いて、リリアは安心した。
危険が見つかった瞬間、全てをそれだけに変えてしまわない。
それもきっと、カイルにとっては新しいことなのだ。
放課後、リリアが教室を出ると、カイルは昨日と同じ場所で待っていた。
「お待たせ」
「いや」
「研究室?」
「ああ」
今日は街へ行くわけではない。それでも自然に手を繋いで歩き出す。
北塔へ着く頃には、リリアも少し緊張していた。
研究室へ入り、カイルが机の上に置かれた記録帳を開く。
「これだ」
ページには、一度線を引かれた文字があった。
『研究対象――リリア・アスター』
その下に、
『研究協力者――リリア・アスター』
リリアはそこを指差した。
「何これ」
「……そこからか」
「私、協力するって言った?」
「まだ聞いていない」
「勝手に書いてる」
「今から聞くつもりだった」
「順番逆」
「悪かった」
素直に謝られて、リリアは少し笑った。
「でも協力します」
「そうか」
「だから消さなくていいよ」
カイルが僅かに笑う。
「分かった」
「で、問題は?」
「こっちだ」
魔力を流すと、紙の上に赤い文字が浮かび上がった。
『独立個体――ELICIA』
そして、その下。
『魂魄封印術式――再起動兆候』
「エリシア……」
自分が自分である証明として知った、もう一つの名前。
「これが出たのは昨夜が初めて?」
「ああ」
「原因は?」
「今から調べる」
カイルは別の資料を机へ広げた。
「魂魄封印術式は、元々俺たち四人の魂に干渉していた」
「四人?」
「俺、ノア、アレン、ルシアン先輩だ」
リリアは少し考える。
「記憶がある四人だ」
「ああ」
「レオン先輩とセシルにはない?」
「少なくとも同じものは確認されていない」
「じゃあ私には?」
「お前には別の術式があった可能性が高い。だが今の魂は過去のリリアとは別物だ。だから、本来なら同じ封印が作動する理由がない」
「なのに反応した」
「ああ」
カイルが魔法陣を展開する。
青白い線が机の上へ広がり、リリアの前でいくつもの輪になる。
「手を出せるか」
「うん」
リリアが右手を差し出す。
カイルは一瞬だけ迷った。
「何?」
「……いや」
「怖い?」
「ああ」
「私もいるよ」
昨日、自分が言った言葉をもう一度使う。
カイルは少しだけ目を細めた。
「そうだったな」
彼の手がリリアの手に重なる。
魔力が流れた。
次の瞬間、青白かった魔法陣の一部が赤く染まる。
「……反応した」
「これ悪いやつ?」
「少なくとも良くはない」
「正直」
「誤魔化す意味がない」
カイルが術式を細かく分解していく。
リリアには読めない記号が次々と浮かび上がる。
「何か分かる?」
「待て」
しばらくして、カイルの表情が変わった。
「……違う」
「何が?」
「再起動しているのは、お前の封印ではない」
「じゃあ誰の?」
カイルが黙る。
「カイル先輩?」
「俺たちだ」
「……え?」
「俺たち四人に残っている術式が、お前の魔力に反応している」
リリアは赤い線を見る。
「どういうこと?」
「可能性創造が強くなるほど、俺たちの封印が呼応している可能性がある」
「それって危ない?」
「分からない」
「また分からない」
「ああ」
「カイル先輩でも?」
「俺は万能ではない」
「知ってる」
「少しは否定しろ」
「でもかなり頭いい」
「慰めになっていない」
冗談を挟んでも、カイルの顔は硬いままだった。
リリアは少しだけ身を寄せる。
「何か他に分かったんでしょ」
「……なぜそう思う」
「顔」
「またか」
「分かりやすくなったよ」
カイルは黙った。
やがて、一つの術式を指差す。
「反応を止める方法が一つある」
「あるんだ」
「お前の魔力を一時的に封じる」
リリアはその言葉を聞いた瞬間、カイルを見た。
彼もこちらを見ている。
「それ、やりたい?」
真正面から聞いた。
カイルはすぐには答えなかった。
「……正直に言えば、やりたい」
リリアの胸が少しだけ沈んだ。
けれどカイルは続ける。
「今すぐ封じて、危険がない状態にしてから調べたい。お前が魔法を使えなければ反応が止まる可能性が高い。それなら少なくとも、原因が分かるまで安全だ」
「うん」
「そう考える自分がいる」
「それで?」
「それでも、俺一人では決めない」
カイルは術式を閉じなかった。
隠しもしなかった。
「お前はどうしたい」
初めて、彼から聞かれた。
守ると言われるよりも、その一言の方がずっと嬉しかった。
「私は封じたくない」
リリアは迷わず答えた。
カイルの眉が僅かに動く。
「理由を聞いていいか」
「怖くないわけじゃない。でも、まだ何が起きてるのか分からないんでしょ?」
「ああ」
「だったら最初から私の魔法をなくす方向で考えたくない。可能性創造は私の魔法だから」
「一時的でも?」
「うん」
カイルは目を閉じた。
反対したいのだと分かる。
「……分かった」
それでも、そう答えた。
「本当に?」
「ああ」
「めちゃくちゃ嫌そうだけど」
「嫌だからな」
「じゃあ反対していいよ」
「何?」
「一緒に決めるって、私の言うこと全部聞くって意味じゃないでしょ。カイル先輩が嫌なら嫌って言って。その上で話そう」
カイルは少し驚いたようにリリアを見た。
「……お前は」
「何?」
「俺が思っていたより面倒だな」
「失礼」
「褒めている」
「どこが?」
「俺に従う気もないくせに、俺にも従うなと言う」
「だって恋人でしょ」
「それが恋人なのか」
「私はそういうのがいい」
しばらく沈黙したあと、カイルが笑った。
「俺も、それがいい」
そこから二人は、本当に一緒に考えた。
魔法を完全に封じるのではなく、出力を抑える方法。異変が起きた時だけ術式を停止する方法。カイルたち四人の魂魄封印側から接続を切る方法。
リリアにも分かるように、カイルは一つずつ説明した。
「これなら?」
「駄目だ。お前の魔力経路を傷つける可能性がある」
「これは?」
「成功率が低すぎる」
「じゃあこれは?」
「……それは俺が死ぬ可能性がある」
「却下」
「即答だな」
「当たり前でしょ」
「成功率は高い」
「却下」
「だが――」
「カイル先輩」
「何だ」
「私に勝手に死ぬなって言うなら、自分も勝手に死なないで」
カイルが黙った。
「私だけ守って、自分はいなくなる方法は禁止」
「……分かった」
「本当に?」
「ああ」
「約束」
リリアが小指を差し出す。
カイルが怪訝そうに見る。
「何だ」
「約束する時にするやつ」
「知っている」
「じゃあやって」
「子供か」
「やらない?」
「……やる」
カイルの小指が絡む。
「勝手に死なない」
「私も」
「勝手に魔法を封じない」
「私も勝手に危ないことしない」
「それはかなり重要だな」
「そんなに?」
「お前は自覚がない」
「失礼」
「事実だ」
二人で小指を離す。
少し子供っぽい約束なのに、リリアには妙に大切に思えた。
研究を続けているうちに、窓の外が暗くなり始めた。
「今日はここまでだ」
カイルが先に資料を閉じた。
リリアは驚く。
「まだ調べられるよ?」
「お前が疲れている」
「平気」
「俺も疲れた」
「嘘」
「……半分は本当だ」
「もう半分は?」
「ここで止めないと、俺がまた一人で答えを出そうとする」
リリアは少しだけ笑った。
「自覚あるんだ」
「あるから止める」
「成長したね」
「だから子供扱いするな」
立ち上がったカイルが、机の上の資料を片づける。
その横顔を見ながら、リリアはふと思った。
「カイル先輩」
「何だ」
「今日、キスしないの?」
手が止まった。
「……この流れで聞くのか」
「昨日一回しかしなかったから」
「一日一回制ではないと言っただろう」
「じゃあ今日まだゼロ」
「数えるな」
「したくない?」
カイルは深く息を吐いた。
「したい」
「じゃあすればいいのに」
「お前は本当に……」
呆れたように言いながら、カイルがこちらへ近づく。
けれど、すぐには触れなかった。
「していいか」
「うん」
頬に手が触れる。
昨日よりは少しだけ慣れた。
それでも顔が近づけば、やっぱり緊張する。
唇が一度だけ重なった。
昨日と同じように短い。
けれど離れたあと、カイルの額がリリアの額へ軽く触れた。
「……何?」
「少しだけ、このままでいさせろ」
「うん」
その声が思ったより疲れていて、リリアは何も言わなかった。
世界の異変を知っても、一人で抱え込まなかった。
怖いと言いながら、リリアの答えを聞いた。
自分とは違う意見を受け入れた。
たぶん今日のカイルは、ずっと怖かったのだ。
それでも約束を守った。
「カイル先輩」
「何だ」
「今日、最初に私に話してくれてありがとう」
「約束したからな」
「うん」
「……本当は、朝までに全部解決したかった」
「知ってる」
「お前の魔力を封じればいいと、何度も考えた」
「うん」
「今でも、その方が安全だと思っている」
「それも分かってる」
カイルが少しだけ額を離し、リリアを見る。
「それでも、お前が嫌だと言ったから別の方法を探す」
「一緒にね」
「ああ。一緒に」
リリアは笑った。
「それなら大丈夫」
「何が」
「カイル先輩となら、ちゃんと喧嘩できそう」
「……安心するところがそこなのか」
「大事でしょ」
「まあな」
研究室を出る前、カイルはもう一度記録帳を確認した。
赤い文字はまだ残っている。
『魂魄封印術式――再起動兆候』
その下に、新しい文字が浮かんでいた。
カイルの表情が変わる。
「待て」
「どうしたの?」
リリアも戻る。
赤い文字が、ゆっくりと形を作っていく。
『対象個体との接続率――上昇』
「接続率?」
リリアが読む。
「誰と誰の?」
カイルは答えなかった。
表示された数値を見つめている。
昨日より高い。
そして今日、最も大きく数値が上がった時間が記録されていた。
午前七時十八分。
リリアとカイルが手を繋いでいた時間。
次に上がったのは、放課後。
二人で魔力を重ねた時間。
そして、今。
数値がまた一つ上がった。
リリアが隣へ立っただけで。
「……カイル先輩?」
カイルはゆっくりと彼女を見る。
「もしかすると」
「うん」
「再起動の原因は、お前の魔力が強くなったことだけじゃない」
「じゃあ何?」
カイルは繋いだままの二人の手を見る。
「俺との接触だ」
リリアもその手を見る。
「……手を繋ぐのが駄目ってこと?」
「まだ分からない」
「キスも?」
「分からない」
「抱きしめるのも?」
「……おそらく調べる必要がある」
リリアはしばらく黙った。
「嫌だな」
「ああ」
カイルも、すぐにそう答えた。
少し前の彼なら、ここで手を離しただろう。
危険の可能性があるなら、迷わず距離を取った。
けれど今は、離さない。
「どうする?」
リリアが聞く。
カイルは答えを決めなかった。
「明日、調べよう」
「一緒に?」
「ああ」
そして、繋いだ手を見ながら静かに続けた。
「離れる必要があるのかどうかも、一緒に決める」
その言葉を聞いてから、リリアは彼の手を握り返した。
「うん」
今はまだ、離さなかった。
「おはよう、カイル先輩」
昨日決めたばかりの呼び方を使うと、カイルの表情が一瞬だけ止まった。
「……おはよう」
「まだ慣れない?」
「ああ」
「じゃあいっぱい呼ぼうかな。カイル先輩」
「やめろ」
「嫌?」
「逆だ」
即答されて、リリアの方が黙った。
「……朝から強い」
「お前が聞いたんだろう」
「昨日から彼氏が強くなった」
「意味が分からない」
そう言いながら差し出された手を、リリアは自然に取った。指を絡めて歩き出す。
昨日までなら、それだけで朝から嬉しくなっていた。
今日も嬉しい。
ただ、少し歩いたところでリリアは隣を見上げた。
「カイル先輩」
「何だ」
「何かあった?」
カイルがこちらを見る。
「なぜそう思う」
「何となく」
「何となくで分かるのか」
「昨日より眉間が怖い」
「いつもと同じだ」
「違う。ちょっと研究してる時の顔」
カイルはしばらく黙っていた。
リリアは何も言わずに待つ。
「……昨夜、異変があった」
やがてカイルはそう言った。
「お前に関する研究記録に、停止していたはずの術式が反応した」
「私に関する?」
「ああ。魂魄封印術式だ」
聞き覚えのない言葉に、リリアは首を傾げる。
「何それ」
「過去の世界で、俺たちの魂と魔力に組み込まれていた術式だ。世界の再構築と関係している」
「それが動いた?」
「再起動の兆候が出ている」
思っていたより重い話だった。
リリアは足を止める。
カイルも止まった。
「……世界って、もう今までみたいにやり直さないんじゃなかったの?」
「そのはずだ」
「じゃあ何で?」
「分からない」
カイルははっきりそう答えた。
「だから今日、お前と調べたい」
リリアは瞬きをした。
「私と?」
「ああ」
「先に一人で全部調べてないの?」
「最低限の確認だけした」
「解決方法も探してない?」
「探そうとはした」
「したんだ」
「癖だ」
少しだけ気まずそうに言われ、リリアは笑ってしまった。
「でも途中でやめた?」
「ああ」
「何で?」
聞かなくても、何となく答えは分かっていた。
「一緒に決めると約束したからだ」
リリアは繋いでいる手を見た。
昨日のデートで交わしたばかりの約束。
守ると言うのは簡単だ。でも、実際に危険が現れた時にも同じことができるかは別だと思っていた。
「えらい」
「子供扱いするな」
「でもえらい」
「当然のことをしただけだ」
「その当然が苦手だった人でしょ」
カイルが何も言えなくなる。
「だから褒めてる」
「……そうか」
「うん」
リリアは少しだけ手を強く握った。
「じゃあ一緒に調べよう」
「ああ」
「でもその前に授業」
「分かっている」
「今すぐ研究室行きそうな顔してる」
「行きたい」
「駄目です」
「……分かっている」
不満そうだった。
リリアは思わず笑った。
「放課後ね」
「ああ」
「迎えに来てくれる?」
「行く」
「じゃあ、それまでは普通に学校」
カイルは少し考えたあと、頷いた。
「分かった」
その返事を聞いて、リリアは安心した。
危険が見つかった瞬間、全てをそれだけに変えてしまわない。
それもきっと、カイルにとっては新しいことなのだ。
放課後、リリアが教室を出ると、カイルは昨日と同じ場所で待っていた。
「お待たせ」
「いや」
「研究室?」
「ああ」
今日は街へ行くわけではない。それでも自然に手を繋いで歩き出す。
北塔へ着く頃には、リリアも少し緊張していた。
研究室へ入り、カイルが机の上に置かれた記録帳を開く。
「これだ」
ページには、一度線を引かれた文字があった。
『研究対象――リリア・アスター』
その下に、
『研究協力者――リリア・アスター』
リリアはそこを指差した。
「何これ」
「……そこからか」
「私、協力するって言った?」
「まだ聞いていない」
「勝手に書いてる」
「今から聞くつもりだった」
「順番逆」
「悪かった」
素直に謝られて、リリアは少し笑った。
「でも協力します」
「そうか」
「だから消さなくていいよ」
カイルが僅かに笑う。
「分かった」
「で、問題は?」
「こっちだ」
魔力を流すと、紙の上に赤い文字が浮かび上がった。
『独立個体――ELICIA』
そして、その下。
『魂魄封印術式――再起動兆候』
「エリシア……」
自分が自分である証明として知った、もう一つの名前。
「これが出たのは昨夜が初めて?」
「ああ」
「原因は?」
「今から調べる」
カイルは別の資料を机へ広げた。
「魂魄封印術式は、元々俺たち四人の魂に干渉していた」
「四人?」
「俺、ノア、アレン、ルシアン先輩だ」
リリアは少し考える。
「記憶がある四人だ」
「ああ」
「レオン先輩とセシルにはない?」
「少なくとも同じものは確認されていない」
「じゃあ私には?」
「お前には別の術式があった可能性が高い。だが今の魂は過去のリリアとは別物だ。だから、本来なら同じ封印が作動する理由がない」
「なのに反応した」
「ああ」
カイルが魔法陣を展開する。
青白い線が机の上へ広がり、リリアの前でいくつもの輪になる。
「手を出せるか」
「うん」
リリアが右手を差し出す。
カイルは一瞬だけ迷った。
「何?」
「……いや」
「怖い?」
「ああ」
「私もいるよ」
昨日、自分が言った言葉をもう一度使う。
カイルは少しだけ目を細めた。
「そうだったな」
彼の手がリリアの手に重なる。
魔力が流れた。
次の瞬間、青白かった魔法陣の一部が赤く染まる。
「……反応した」
「これ悪いやつ?」
「少なくとも良くはない」
「正直」
「誤魔化す意味がない」
カイルが術式を細かく分解していく。
リリアには読めない記号が次々と浮かび上がる。
「何か分かる?」
「待て」
しばらくして、カイルの表情が変わった。
「……違う」
「何が?」
「再起動しているのは、お前の封印ではない」
「じゃあ誰の?」
カイルが黙る。
「カイル先輩?」
「俺たちだ」
「……え?」
「俺たち四人に残っている術式が、お前の魔力に反応している」
リリアは赤い線を見る。
「どういうこと?」
「可能性創造が強くなるほど、俺たちの封印が呼応している可能性がある」
「それって危ない?」
「分からない」
「また分からない」
「ああ」
「カイル先輩でも?」
「俺は万能ではない」
「知ってる」
「少しは否定しろ」
「でもかなり頭いい」
「慰めになっていない」
冗談を挟んでも、カイルの顔は硬いままだった。
リリアは少しだけ身を寄せる。
「何か他に分かったんでしょ」
「……なぜそう思う」
「顔」
「またか」
「分かりやすくなったよ」
カイルは黙った。
やがて、一つの術式を指差す。
「反応を止める方法が一つある」
「あるんだ」
「お前の魔力を一時的に封じる」
リリアはその言葉を聞いた瞬間、カイルを見た。
彼もこちらを見ている。
「それ、やりたい?」
真正面から聞いた。
カイルはすぐには答えなかった。
「……正直に言えば、やりたい」
リリアの胸が少しだけ沈んだ。
けれどカイルは続ける。
「今すぐ封じて、危険がない状態にしてから調べたい。お前が魔法を使えなければ反応が止まる可能性が高い。それなら少なくとも、原因が分かるまで安全だ」
「うん」
「そう考える自分がいる」
「それで?」
「それでも、俺一人では決めない」
カイルは術式を閉じなかった。
隠しもしなかった。
「お前はどうしたい」
初めて、彼から聞かれた。
守ると言われるよりも、その一言の方がずっと嬉しかった。
「私は封じたくない」
リリアは迷わず答えた。
カイルの眉が僅かに動く。
「理由を聞いていいか」
「怖くないわけじゃない。でも、まだ何が起きてるのか分からないんでしょ?」
「ああ」
「だったら最初から私の魔法をなくす方向で考えたくない。可能性創造は私の魔法だから」
「一時的でも?」
「うん」
カイルは目を閉じた。
反対したいのだと分かる。
「……分かった」
それでも、そう答えた。
「本当に?」
「ああ」
「めちゃくちゃ嫌そうだけど」
「嫌だからな」
「じゃあ反対していいよ」
「何?」
「一緒に決めるって、私の言うこと全部聞くって意味じゃないでしょ。カイル先輩が嫌なら嫌って言って。その上で話そう」
カイルは少し驚いたようにリリアを見た。
「……お前は」
「何?」
「俺が思っていたより面倒だな」
「失礼」
「褒めている」
「どこが?」
「俺に従う気もないくせに、俺にも従うなと言う」
「だって恋人でしょ」
「それが恋人なのか」
「私はそういうのがいい」
しばらく沈黙したあと、カイルが笑った。
「俺も、それがいい」
そこから二人は、本当に一緒に考えた。
魔法を完全に封じるのではなく、出力を抑える方法。異変が起きた時だけ術式を停止する方法。カイルたち四人の魂魄封印側から接続を切る方法。
リリアにも分かるように、カイルは一つずつ説明した。
「これなら?」
「駄目だ。お前の魔力経路を傷つける可能性がある」
「これは?」
「成功率が低すぎる」
「じゃあこれは?」
「……それは俺が死ぬ可能性がある」
「却下」
「即答だな」
「当たり前でしょ」
「成功率は高い」
「却下」
「だが――」
「カイル先輩」
「何だ」
「私に勝手に死ぬなって言うなら、自分も勝手に死なないで」
カイルが黙った。
「私だけ守って、自分はいなくなる方法は禁止」
「……分かった」
「本当に?」
「ああ」
「約束」
リリアが小指を差し出す。
カイルが怪訝そうに見る。
「何だ」
「約束する時にするやつ」
「知っている」
「じゃあやって」
「子供か」
「やらない?」
「……やる」
カイルの小指が絡む。
「勝手に死なない」
「私も」
「勝手に魔法を封じない」
「私も勝手に危ないことしない」
「それはかなり重要だな」
「そんなに?」
「お前は自覚がない」
「失礼」
「事実だ」
二人で小指を離す。
少し子供っぽい約束なのに、リリアには妙に大切に思えた。
研究を続けているうちに、窓の外が暗くなり始めた。
「今日はここまでだ」
カイルが先に資料を閉じた。
リリアは驚く。
「まだ調べられるよ?」
「お前が疲れている」
「平気」
「俺も疲れた」
「嘘」
「……半分は本当だ」
「もう半分は?」
「ここで止めないと、俺がまた一人で答えを出そうとする」
リリアは少しだけ笑った。
「自覚あるんだ」
「あるから止める」
「成長したね」
「だから子供扱いするな」
立ち上がったカイルが、机の上の資料を片づける。
その横顔を見ながら、リリアはふと思った。
「カイル先輩」
「何だ」
「今日、キスしないの?」
手が止まった。
「……この流れで聞くのか」
「昨日一回しかしなかったから」
「一日一回制ではないと言っただろう」
「じゃあ今日まだゼロ」
「数えるな」
「したくない?」
カイルは深く息を吐いた。
「したい」
「じゃあすればいいのに」
「お前は本当に……」
呆れたように言いながら、カイルがこちらへ近づく。
けれど、すぐには触れなかった。
「していいか」
「うん」
頬に手が触れる。
昨日よりは少しだけ慣れた。
それでも顔が近づけば、やっぱり緊張する。
唇が一度だけ重なった。
昨日と同じように短い。
けれど離れたあと、カイルの額がリリアの額へ軽く触れた。
「……何?」
「少しだけ、このままでいさせろ」
「うん」
その声が思ったより疲れていて、リリアは何も言わなかった。
世界の異変を知っても、一人で抱え込まなかった。
怖いと言いながら、リリアの答えを聞いた。
自分とは違う意見を受け入れた。
たぶん今日のカイルは、ずっと怖かったのだ。
それでも約束を守った。
「カイル先輩」
「何だ」
「今日、最初に私に話してくれてありがとう」
「約束したからな」
「うん」
「……本当は、朝までに全部解決したかった」
「知ってる」
「お前の魔力を封じればいいと、何度も考えた」
「うん」
「今でも、その方が安全だと思っている」
「それも分かってる」
カイルが少しだけ額を離し、リリアを見る。
「それでも、お前が嫌だと言ったから別の方法を探す」
「一緒にね」
「ああ。一緒に」
リリアは笑った。
「それなら大丈夫」
「何が」
「カイル先輩となら、ちゃんと喧嘩できそう」
「……安心するところがそこなのか」
「大事でしょ」
「まあな」
研究室を出る前、カイルはもう一度記録帳を確認した。
赤い文字はまだ残っている。
『魂魄封印術式――再起動兆候』
その下に、新しい文字が浮かんでいた。
カイルの表情が変わる。
「待て」
「どうしたの?」
リリアも戻る。
赤い文字が、ゆっくりと形を作っていく。
『対象個体との接続率――上昇』
「接続率?」
リリアが読む。
「誰と誰の?」
カイルは答えなかった。
表示された数値を見つめている。
昨日より高い。
そして今日、最も大きく数値が上がった時間が記録されていた。
午前七時十八分。
リリアとカイルが手を繋いでいた時間。
次に上がったのは、放課後。
二人で魔力を重ねた時間。
そして、今。
数値がまた一つ上がった。
リリアが隣へ立っただけで。
「……カイル先輩?」
カイルはゆっくりと彼女を見る。
「もしかすると」
「うん」
「再起動の原因は、お前の魔力が強くなったことだけじゃない」
「じゃあ何?」
カイルは繋いだままの二人の手を見る。
「俺との接触だ」
リリアもその手を見る。
「……手を繋ぐのが駄目ってこと?」
「まだ分からない」
「キスも?」
「分からない」
「抱きしめるのも?」
「……おそらく調べる必要がある」
リリアはしばらく黙った。
「嫌だな」
「ああ」
カイルも、すぐにそう答えた。
少し前の彼なら、ここで手を離しただろう。
危険の可能性があるなら、迷わず距離を取った。
けれど今は、離さない。
「どうする?」
リリアが聞く。
カイルは答えを決めなかった。
「明日、調べよう」
「一緒に?」
「ああ」
そして、繋いだ手を見ながら静かに続けた。
「離れる必要があるのかどうかも、一緒に決める」
その言葉を聞いてから、リリアは彼の手を握り返した。
「うん」
今はまだ、離さなかった。