魔法より、君に恋をする。
ルシアンルート 第42章 明日を知らない人
翌朝。
リリアは教室へ向かう途中で、ルシアンを見つけた。
「ルシアン先輩?」
珍しい。
彼が一年生の教室棟にいること自体はある。
生徒会長なのだから、用事があれば来るだろう。
でも今は、廊下の壁に寄りかかっている。
誰かを待つように。
リリアと目が合うと、ルシアンは少し笑った。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は迷わなかった?」
「朝から失礼」
「確認だよ」
「迷ってません」
「それはよかった」
リリアは彼の前まで行く。
「私待ってた?」
「ああ」
「何で?」
「会いたかったから」
朝から胸に刺さった。
「……それ、強い」
「何が?」
「何でもない」
「君が昨日言ったんだよ。今日も好きだった、と」
「言った」
「だから僕も、今日は自分から会いに来てみようと思った」
「嬉しい」
「そう」
「かなり」
ルシアンの笑みが少し深くなる。
「それなら来た甲斐があった」
リリアは周囲を見る。
登校中の生徒が何人かいる。
だから手は繋がない。
でも。
触れたい。
昨日までなら、あまり考えなかった。
恋人になってから妙に意識する。
「ルシアン先輩」
「何?」
「手」
「繋ぎたい?」
「……うん」
ルシアンも周囲を見る。
「少し歩こうか」
「どこ?」
「人の少ないところ」
「朝から?」
「手を繋ぐだけだよ」
「分かってる」
「その顔は何かな」
「何でもない」
二人で教室とは反対側へ少し歩く。
渡り廊下の角。
人影が途切れたところで、ルシアンが手を差し出した。
リリアはすぐ取った。
「……朝もいいね」
「何が?」
「手繋ぐの」
「時間帯で変わるものなのかな」
「何か違う」
「そう」
ルシアンの指が絡む。
いつもの温度。
それだけで少し嬉しい。
「先輩」
「うん」
「今日も好き?」
「好きだよ」
「よし」
「確認終了?」
「うん。先輩は?」
「何が?」
「確認しないの?」
ルシアンが少し笑う。
「今日も僕が好き?」
「好き」
「よし」
「真似した」
「してみたかった」
二人で笑う。
でも。
すぐにルシアンの表情が少し変わった。
リリアは気づいた。
「……何かある?」
「分かる?」
「うん」
「随分僕を見るようになったね」
「好きだから」
「そういう返しに、まだ慣れないな」
「今は誤魔化さないで」
「分かった」
ルシアンは繋いだ手を見た。
「昨日、君と別れたあと」
「うん」
「黒い月を見た」
リリアの指が止まった。
「……黒い月?」
「ああ」
知っている。
春季実戦祭の頃から、何度も断片として現れたもの。
過去の世界。
崩壊。
再構築。
偽りの神。
「また世界が壊れるの?」
「分からない」
即答だった。
リリアは少し驚いた。
「先輩でも?」
「ああ」
「珍しい」
「僕は何でも知っているわけではないよ」
「結構知ってるじゃん」
「過去についてはね」
ルシアンは学院の窓の外を見る。
「でも今の世界は、僕も初めてなんだ」
その言葉に、リリアは黙った。
「初めて?」
「ああ」
「十二回見てきたのに?」
「だからこそだよ」
ルシアンがこちらを見る。
「十二の世界には、共通した前提があった」
「昔のリリア?」
「正確には、世界が『リリア』という中心個体を必要としていた」
「私を?」
「君ではない」
すぐ訂正された。
「以前の彼女たちだ」
「……うん」
「世界は彼女を再現し、周囲の魂を結びつけ、選択をさせた。形は変わっても、その構造だけは残っていた」
「今回は違う」
「そう」
ルシアンの指が、リリアの指を少しだけ握る。
「君は作られた十三人目ではない。再構築されたリリアでもない。初めて、この仕組みの外側に生まれた」
「エリシア」
「ああ」
「じゃあ黒い月は何?」
「それを調べる必要がある」
「今日?」
「できれば」
「私も行く」
ルシアンが少し黙った。
「……そう言うと思った」
「嫌?」
「正直に言えば」
彼は少し困ったように笑った。
「危険から遠ざけたい」
「うん」
「僕一人で調べて、安全だと分かってから君に教えたい」
「うん」
「でも、それはしない」
リリアは彼を見る。
「何で?」
「約束したから」
ルシアンの声は穏やかだった。
「君に関わることを、君を抜きに決めない」
胸の奥が少し温かくなる。
「えらい」
「随分上からだね」
「昨日の話聞いたから」
「手厳しいな」
「でも好き」
「……本当に、その一言を便利に使うね」
「効くから」
「自覚があったのか」
授業の時間が近づいていた。
「放課後、生徒会室へ来て」
「うん」
「それまで僕も必要な記録だけ集めておく」
「一人で調べ切らない?」
「約束する」
「勝手に危ないことしない?」
「しない」
「私に黙って世界救わない?」
「それは随分難しい注文だね」
「ルシアン先輩」
「冗談だよ」
少し笑ってから、彼は真面目な顔に戻った。
「しない」
「よし」
「君もだよ」
「何が?」
「一人で何か試さない」
「はい」
「危険を感じたら逃げる」
「はい」
「知らない魔法陣に触らない」
「……はい」
「今の間は何かな」
「触りそうだと思った」
「僕も思った」
「気をつけます」
「お願いするよ」
そろそろ教室へ行かなければならない。
リリアは手を離そうとした。
でも。
ルシアンの指が一瞬だけ残った。
「……先輩?」
「あ」
彼自身も気づいたらしい。
すぐ離れる。
「ごめん」
「離したくなかった?」
ルシアンは少し黙った。
「……少しね」
「私も」
「そう」
「じゃあもう一回?」
「授業に遅れるよ」
「一秒」
リリアから小指だけを絡める。
最初の日と同じ。
ほんの一秒。
「はい」
離す。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「放課後ね」
「ああ」
数歩進んだところで。
「リリア」
呼ばれて振り返る。
「何?」
「何かあったら」
ルシアンは一瞬、言葉を止めた。
以前なら。
おそらく「僕が守る」と言ったのだろう。
でも今は。
「一緒に考えよう」
そう言った。
リリアは笑った。
「うん」
放課後。
生徒会室へ入ると、テーブルの上には何冊もの古い記録が並んでいた。
「多い」
「これでも絞ったよ」
「先輩、今日授業出た?」
「出たよ」
「いつ集めたの?」
「昼休み」
「ちゃんとご飯食べた?」
「……食べた」
「何秒悩んだ?」
「食べたよ」
「何を?」
「コーヒー」
「飲み物じゃん」
「焼き菓子も」
「一個?」
「二個」
「少ない」
「今そこを追及する?」
「大事」
リリアは鞄から包みを出した。
「これ食べて」
「何?」
「パン」
「どうして持っているの?」
「食堂で余分に買った」
「僕のため?」
「一応」
ルシアンが包みを見る。
「……嬉しいな」
「食べながらやろ」
「分かった」
テーブルの隣へ座る。
今日は最初から近い。
肩が触れるくらい。
「これ」
ルシアンが一冊の記録を開く。
古い文字。
でも途中から、見覚えのある術式記号が並んでいる。
「黒い月は、単純な災害ではない」
「神様?」
「それも正確ではない」
「偽りの神って言ってたじゃん」
「便宜上ね」
ルシアンはページを指でなぞる。
「世界の再構築機構が、自分自身を維持するために作った意思に近い」
「……機械みたいなもの?」
「それに近い」
「でも意思がある?」
「長い時間、何度も世界を作り直した結果、目的を持つようになった」
「目的?」
「世界を存続させること」
「いいやつじゃん」
「方法を選ばなければね」
「あ」
「人間一人の意思より、世界全体の存続を優先する。誰かが苦しんでも、死んでも、次を作ればいい」
「嫌なやつだった」
「判断が早いね」
「嫌じゃん」
「僕もそう思うよ」
ページをめくる。
「十二回目まで、黒い月は中心にいた」
「今回は?」
「本来なら消えているはずだった」
「なのに昨日見えた」
「ああ」
「何で?」
「仮説は二つある」
「聞く」
「一つ目。僕たちが間違っていて、この世界も再構築の途中にある」
リリアの表情が少し固くなる。
「……十三回目?」
「可能性は低い」
「何で?」
「君の魂が説明できない」
「独立してるから?」
「ああ。再構築なら、君には以前のリリアと同じ核が必要になる。でもない」
「じゃあ二つ目」
「古い仕組みだけが残っている」
ルシアンは紙へ簡単な図を書く。
円。
その中央に点。
「以前は、ここにリリアがいた」
「うん」
「周囲に僕たちがいて、世界がそれを繋いでいた」
いくつか点を足す。
「今は」
中央の点に線を引いて消す。
「いない」
「私がいるよ」
「君はここではない」
別の場所に、新しい点を描く。
円の外側。
「君はこっちだ」
「外?」
「ああ」
「仲間外れみたい」
「むしろ自由だよ」
ルシアンが少し笑う。
「世界の仕組みに組み込まれていない」
「じゃあ古い方は?」
「中心を失った」
「……それで壊れてる?」
「その可能性がある」
リリアは図を見る。
「私が自由になったから?」
「君のせいではない」
「でも原因ではある?」
「そこは分けよう」
ルシアンがペンを置く。
「君が独立したことは異常ではない。本来あるべき状態だ」
「うん」
「問題は、役目を終えた仕組みが消えずに残っていること」
「ゴミ?」
「世界規模のね」
「捨てよう」
ルシアンが吹き出した。
「随分簡単に言うね」
「いらないんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ捨てる」
「君らしいな」
笑ったあと。
ルシアンの表情がまた真面目になる。
「ただし、問題がある」
「何?」
「黒い月は自分の目的を失っている」
「世界を存続させるんじゃないの?」
「そのために必要だった中心個体がいない」
「昔のリリア」
「ああ」
「じゃあ」
嫌な予感がした。
「私をそこに入れようとしてる?」
ルシアンは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「……可能性は?」
「ある」
「高い?」
「まだ分からない」
リリアは自分の胸元を見る。
魂。
エリシア。
独立した存在。
「入れられたらどうなる?」
「分からない」
「またそれ」
「ごめん」
「怒ってない」
リリアは少し笑った。
「先輩が分からないって言うの、ちょっと好きかも」
「なぜ?」
「私と同じだから」
「僕が無知なのが嬉しい?」
「違う」
リリアは図の外側にある点を指す。
「これから一緒に知れる」
ルシアンが止まった。
「先輩はずっと、全部知ってたんでしょ?」
「……過去はね」
「次に何が起こるかも?」
「大体は」
「誰がどうなるかも?」
「ある程度」
「嫌だった?」
「かなり」
「じゃあ今は?」
ルシアンは紙を見る。
何も書かれていない先。
「……怖いよ」
「うん」
「君が明日も無事なのか、僕には分からない」
「うん」
「この世界が一年後もあるのかも」
「うん」
「君が卒業する日を、本当に迎えられるのかも」
「うん」
リリアはテーブルの下で彼の手を探した。
指先が触れる。
ルシアンがこちらを見る。
「でも」
リリアから手を握る。
「先輩、昨日言ったじゃん」
「何を?」
「明日も会いたいって」
「ああ」
「今日会えた」
「……そうだね」
「じゃあ次は明日」
ルシアンの指がゆっくり絡む。
「その次は?」
「明日決める」
「またそれか」
「駄目?」
「いや」
ルシアンは小さく笑った。
「好きだよ、その考え方」
「私も好き」
「僕が?」
「今は考え方の話」
「残念」
「ルシアン先輩も好き」
「……ありがとう」
少しだけ空気が柔らかくなった。
リリアはパンを指す。
「食べて」
「今?」
「今」
「はい」
ルシアンが素直に包みを開ける。
一口食べる。
「どう?」
「美味しい」
「よし」
「君は僕の母親かな」
「恋人です」
「そうだった」
「忘れた?」
「忘れるわけがないだろう」
その言い方が少し強くて。
リリアは笑った。
「何?」
「嬉しい」
「そう」
「もう一回言って」
「忘れるわけがない」
「そこじゃない」
ルシアンが気づく。
「……恋人?」
「うん」
「僕の恋人」
「満足」
「安上がりだね」
「じゃあキスも」
ルシアンがパンを持ったまま止まった。
「急だね」
「高い方」
「価格の話だったの?」
「違うけど」
ルシアンはパンを置く。
「今?」
「嫌?」
「嫌ではない」
「じゃあ」
「ただ」
眼鏡越しの目が少し細くなる。
「さっきまで世界の終わりについて話していたんだけどね」
「だから」
「だから?」
「ちょっとしたい」
ルシアンはしばらくリリアを見る。
「……怖かった?」
「少し」
正直に答えた。
「私がまた何かにされるかもしれないって聞いたから」
「そう」
「でも先輩いるし」
「うん」
「私もいる」
「……うん」
「だから大丈夫って思いたい」
ルシアンは眼鏡を外した。
テーブルへ置く。
「リリア」
「何?」
「抱きしめてもいい?」
キスだと思っていた。
少し驚く。
でもすぐ頷いた。
「うん」
ルシアンの腕がゆっくり背中へ回る。
強くない。
逃げようと思えばいつでも離れられるくらい。
リリアも腕を回した。
「……あったかい」
「君もね」
「先輩、心臓速い?」
「確認する?」
「今は分かる」
近いから。
胸が触れている。
どちらの鼓動か分からないくらい。
「怖い?」
今度はリリアから聞く。
「ああ」
「私がいなくなるの?」
「それも」
「他は?」
「僕がまた間違えること」
ルシアンの声が耳元で聞こえる。
「君を守るという理由で、君から選ぶ権利を奪うこと」
「したら怒る」
「知っている」
「殴るかも」
「それは少し困るな」
「セシルに頼む」
「もっと困る」
リリアは少し笑った。
ルシアンも笑った。
「だから」
リリアは背中へ回した腕に少し力を入れる。
「先輩も一人で決めないで」
「ああ」
「私も勝手に死なない」
「……それは」
「何?」
「もう一度言って」
「勝手に死なない」
抱く腕が少しだけ強くなった。
「約束?」
「約束」
「僕もだ」
「先輩も?」
「ああ」
「勝手に死なない?」
「死なない」
「よし」
しばらく、そのままでいた。
やがてルシアンが少し離れる。
でも腕はまだ腰にある。
「……近い」
「今さら?」
「顔が」
「キスしたかったんじゃないの?」
「したい」
「僕も」
「じゃあ」
リリアが少し顔を上げる。
ルシアンはすぐには近づかなかった。
「してもいい?」
「うん」
一度だけ。
短いキス。
離れたあと、リリアは少し笑った。
「何?」
「落ち着いた」
「それはよかった」
「先輩は?」
「逆かな」
「何で?」
「もう少ししたくなった」
リリアが目を瞬く。
「する?」
ルシアンは少し迷って。
「今日はやめておく」
「何で?」
「僕たちは今、調査中だからね」
「真面目」
「それに」
親指が、リリアの頬を一度だけ撫でる。
「一度で落ち着いたと言った君に、二度目をねだるのも格好がつかない」
「別にいいのに」
「……君は本当に」
ルシアンが額を押さえた。
「何?」
「いや」
「耳赤い」
「眼鏡を返してくれるかな」
「嫌」
「リリア」
「もうちょっと見る」
「困った恋人だ」
「好き?」
「好きだよ」
結局、眼鏡は数分後に返した。
調査を再開する。
古い術式。
黒い月。
世界の中心。
エリシア。
二人で一つずつ確認していく。
そして日が沈み始めた頃。
「……待って」
ルシアンの指が、ある記述で止まった。
「何?」
「これ」
リリアが覗き込む。
古い文字。
「読めない」
「僕が読む」
ルシアンの声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「中心個体が消失した場合」
「うん」
「再構築機構は、新たな中心を探索する」
嫌な予感。
「新しい中心?」
「ああ」
「それって私?」
「最後まで聞いて」
ページをめくる。
「候補となるのは、世界構造へ直接干渉可能な独立魂」
二人とも黙った。
条件が一致する。
「……可能性創造」
「ああ」
リリアの魔法。
世界そのものへ可能性を作る力。
「私だ」
「可能性が高い」
ルシアンがさらに読み進める。
そして。
止まった。
「何?」
答えない。
「ルシアン先輩」
「……これは」
初めてだった。
ルシアンの顔から、完全に血の気が引いた。
「何が書いてあるの?」
「リリア」
「見せて」
「待って」
「一緒に見るって言った」
ルシアンの手が止まる。
数秒。
「……そうだったね」
本をこちらへ向ける。
ルシアンが翻訳しながら読む。
「新たな中心個体の発見後、旧管理権限を用いて接続を開始する」
「旧管理権限?」
「……僕だ」
リリアは彼を見る。
「先輩?」
「ああ」
ルシアンの顔は笑っていなかった。
「最初のリリアを作った術式の管理者は、僕だった」
嫌な意味が分かり始める。
「つまり」
ルシアンが低い声で続ける。
「黒い月が君を新しい中心にしようとしているなら」
ページの最後。
古い術式文字が、淡く光り始めた。
それまで死んでいたはずの記録が。
今。
二人の目の前で起動する。
文字が書き換わった。
《独立個体――ELICIA》
《新規中心候補――適合》
リリアは息を止めた。
さらに一行。
《旧管理者――LUCIAN NOX》
《管理権限――再接続開始》
「……再接続?」
リリアが呟く。
ルシアンは自分の右手を見る。
手の甲に。
紫黒色の細い線が浮かんでいた。
古い魔法陣。
何千年も前。
最初のリリアを管理するために与えられた権限。
「先輩」
「触らないで」
初めて。
ルシアンが反射的に言った。
リリアの手が止まる。
ルシアン自身も、その言葉に気づいた。
「……ごめん」
「危ない?」
「分からない」
「じゃあ触らない」
リリアは手を引いた。
でも離れなかった。
「これ、何ができるの?」
ルシアンは古い記録を見る。
そして。
さらに顔を強張らせた。
「最初のリリアに対して、僕が持っていた権限だ」
「だから何ができるの?」
短い沈黙。
「魔力の制限」
「うん」
「行動領域の制限」
「……うん」
「術式への強制接続」
ルシアンの声が低くなる。
「そして」
言いたくないのが分かった。
「命令権」
リリアは黙った。
「私への?」
「ああ」
今の自分たちは恋人だ。
好きだと選び合った。
何にも繋がれていないことを、二人で喜んだ。
なのに。
世界の方が。
その関係へ、勝手に鎖を戻そうとしている。
「……最悪」
リリアが言った。
「同感だよ」
ルシアンは右手を強く握る。
「こんなもの」
魔力が動く。
壊そうとしている。
「待って」
今度はリリアが止めた。
「でも」
「一人で決めない」
ルシアンがこちらを見る。
「これ壊したらどうなるか分かる?」
「……分からない」
「じゃあ調べる」
「リリア」
「一緒に」
手の甲に、古い管理者の印がある。
今はそこへ触れられない。
だからリリアは。
代わりに、ルシアンの左手を取った。
「こっちは大丈夫?」
「……ああ」
指を絡める。
「じゃあこれでいい」
「君は」
ルシアンが息を吐く。
「怖くないの?」
「怖いよ」
「僕が君へ命令できるかもしれないんだよ」
「今はしないでしょ?」
「しない」
「絶対?」
「絶対に」
「じゃあ今は信じる」
「……今は?」
「もし先輩が変になったら逃げる」
ルシアンが一瞬止まり。
それから、少し笑った。
「それでいい」
「止めても逃げる」
「ああ」
「私のためって言われても」
「逃げて」
「セシルも呼ぶ」
「それは本当に怖いな」
「先輩を殴ってもらう」
「できれば話し合いでお願いしたい」
少しだけ笑えた。
でも。
二人の間で繋がれた左手とは反対側。
ルシアンの右手に浮かんだ魔法陣は、消えなかった。
そして誰にも見えない世界の深部で。
古い機構が静かに計算を始めていた。
《独立個体ELICIA――接続開始》
《旧管理者LUCIAN NOX――権限復元》
《同期率――一パーセント》
何にも繋がれていなかった二人を。
世界が。
初めて、無理やり繋ごうとしていた。
リリアは教室へ向かう途中で、ルシアンを見つけた。
「ルシアン先輩?」
珍しい。
彼が一年生の教室棟にいること自体はある。
生徒会長なのだから、用事があれば来るだろう。
でも今は、廊下の壁に寄りかかっている。
誰かを待つように。
リリアと目が合うと、ルシアンは少し笑った。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は迷わなかった?」
「朝から失礼」
「確認だよ」
「迷ってません」
「それはよかった」
リリアは彼の前まで行く。
「私待ってた?」
「ああ」
「何で?」
「会いたかったから」
朝から胸に刺さった。
「……それ、強い」
「何が?」
「何でもない」
「君が昨日言ったんだよ。今日も好きだった、と」
「言った」
「だから僕も、今日は自分から会いに来てみようと思った」
「嬉しい」
「そう」
「かなり」
ルシアンの笑みが少し深くなる。
「それなら来た甲斐があった」
リリアは周囲を見る。
登校中の生徒が何人かいる。
だから手は繋がない。
でも。
触れたい。
昨日までなら、あまり考えなかった。
恋人になってから妙に意識する。
「ルシアン先輩」
「何?」
「手」
「繋ぎたい?」
「……うん」
ルシアンも周囲を見る。
「少し歩こうか」
「どこ?」
「人の少ないところ」
「朝から?」
「手を繋ぐだけだよ」
「分かってる」
「その顔は何かな」
「何でもない」
二人で教室とは反対側へ少し歩く。
渡り廊下の角。
人影が途切れたところで、ルシアンが手を差し出した。
リリアはすぐ取った。
「……朝もいいね」
「何が?」
「手繋ぐの」
「時間帯で変わるものなのかな」
「何か違う」
「そう」
ルシアンの指が絡む。
いつもの温度。
それだけで少し嬉しい。
「先輩」
「うん」
「今日も好き?」
「好きだよ」
「よし」
「確認終了?」
「うん。先輩は?」
「何が?」
「確認しないの?」
ルシアンが少し笑う。
「今日も僕が好き?」
「好き」
「よし」
「真似した」
「してみたかった」
二人で笑う。
でも。
すぐにルシアンの表情が少し変わった。
リリアは気づいた。
「……何かある?」
「分かる?」
「うん」
「随分僕を見るようになったね」
「好きだから」
「そういう返しに、まだ慣れないな」
「今は誤魔化さないで」
「分かった」
ルシアンは繋いだ手を見た。
「昨日、君と別れたあと」
「うん」
「黒い月を見た」
リリアの指が止まった。
「……黒い月?」
「ああ」
知っている。
春季実戦祭の頃から、何度も断片として現れたもの。
過去の世界。
崩壊。
再構築。
偽りの神。
「また世界が壊れるの?」
「分からない」
即答だった。
リリアは少し驚いた。
「先輩でも?」
「ああ」
「珍しい」
「僕は何でも知っているわけではないよ」
「結構知ってるじゃん」
「過去についてはね」
ルシアンは学院の窓の外を見る。
「でも今の世界は、僕も初めてなんだ」
その言葉に、リリアは黙った。
「初めて?」
「ああ」
「十二回見てきたのに?」
「だからこそだよ」
ルシアンがこちらを見る。
「十二の世界には、共通した前提があった」
「昔のリリア?」
「正確には、世界が『リリア』という中心個体を必要としていた」
「私を?」
「君ではない」
すぐ訂正された。
「以前の彼女たちだ」
「……うん」
「世界は彼女を再現し、周囲の魂を結びつけ、選択をさせた。形は変わっても、その構造だけは残っていた」
「今回は違う」
「そう」
ルシアンの指が、リリアの指を少しだけ握る。
「君は作られた十三人目ではない。再構築されたリリアでもない。初めて、この仕組みの外側に生まれた」
「エリシア」
「ああ」
「じゃあ黒い月は何?」
「それを調べる必要がある」
「今日?」
「できれば」
「私も行く」
ルシアンが少し黙った。
「……そう言うと思った」
「嫌?」
「正直に言えば」
彼は少し困ったように笑った。
「危険から遠ざけたい」
「うん」
「僕一人で調べて、安全だと分かってから君に教えたい」
「うん」
「でも、それはしない」
リリアは彼を見る。
「何で?」
「約束したから」
ルシアンの声は穏やかだった。
「君に関わることを、君を抜きに決めない」
胸の奥が少し温かくなる。
「えらい」
「随分上からだね」
「昨日の話聞いたから」
「手厳しいな」
「でも好き」
「……本当に、その一言を便利に使うね」
「効くから」
「自覚があったのか」
授業の時間が近づいていた。
「放課後、生徒会室へ来て」
「うん」
「それまで僕も必要な記録だけ集めておく」
「一人で調べ切らない?」
「約束する」
「勝手に危ないことしない?」
「しない」
「私に黙って世界救わない?」
「それは随分難しい注文だね」
「ルシアン先輩」
「冗談だよ」
少し笑ってから、彼は真面目な顔に戻った。
「しない」
「よし」
「君もだよ」
「何が?」
「一人で何か試さない」
「はい」
「危険を感じたら逃げる」
「はい」
「知らない魔法陣に触らない」
「……はい」
「今の間は何かな」
「触りそうだと思った」
「僕も思った」
「気をつけます」
「お願いするよ」
そろそろ教室へ行かなければならない。
リリアは手を離そうとした。
でも。
ルシアンの指が一瞬だけ残った。
「……先輩?」
「あ」
彼自身も気づいたらしい。
すぐ離れる。
「ごめん」
「離したくなかった?」
ルシアンは少し黙った。
「……少しね」
「私も」
「そう」
「じゃあもう一回?」
「授業に遅れるよ」
「一秒」
リリアから小指だけを絡める。
最初の日と同じ。
ほんの一秒。
「はい」
離す。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「放課後ね」
「ああ」
数歩進んだところで。
「リリア」
呼ばれて振り返る。
「何?」
「何かあったら」
ルシアンは一瞬、言葉を止めた。
以前なら。
おそらく「僕が守る」と言ったのだろう。
でも今は。
「一緒に考えよう」
そう言った。
リリアは笑った。
「うん」
放課後。
生徒会室へ入ると、テーブルの上には何冊もの古い記録が並んでいた。
「多い」
「これでも絞ったよ」
「先輩、今日授業出た?」
「出たよ」
「いつ集めたの?」
「昼休み」
「ちゃんとご飯食べた?」
「……食べた」
「何秒悩んだ?」
「食べたよ」
「何を?」
「コーヒー」
「飲み物じゃん」
「焼き菓子も」
「一個?」
「二個」
「少ない」
「今そこを追及する?」
「大事」
リリアは鞄から包みを出した。
「これ食べて」
「何?」
「パン」
「どうして持っているの?」
「食堂で余分に買った」
「僕のため?」
「一応」
ルシアンが包みを見る。
「……嬉しいな」
「食べながらやろ」
「分かった」
テーブルの隣へ座る。
今日は最初から近い。
肩が触れるくらい。
「これ」
ルシアンが一冊の記録を開く。
古い文字。
でも途中から、見覚えのある術式記号が並んでいる。
「黒い月は、単純な災害ではない」
「神様?」
「それも正確ではない」
「偽りの神って言ってたじゃん」
「便宜上ね」
ルシアンはページを指でなぞる。
「世界の再構築機構が、自分自身を維持するために作った意思に近い」
「……機械みたいなもの?」
「それに近い」
「でも意思がある?」
「長い時間、何度も世界を作り直した結果、目的を持つようになった」
「目的?」
「世界を存続させること」
「いいやつじゃん」
「方法を選ばなければね」
「あ」
「人間一人の意思より、世界全体の存続を優先する。誰かが苦しんでも、死んでも、次を作ればいい」
「嫌なやつだった」
「判断が早いね」
「嫌じゃん」
「僕もそう思うよ」
ページをめくる。
「十二回目まで、黒い月は中心にいた」
「今回は?」
「本来なら消えているはずだった」
「なのに昨日見えた」
「ああ」
「何で?」
「仮説は二つある」
「聞く」
「一つ目。僕たちが間違っていて、この世界も再構築の途中にある」
リリアの表情が少し固くなる。
「……十三回目?」
「可能性は低い」
「何で?」
「君の魂が説明できない」
「独立してるから?」
「ああ。再構築なら、君には以前のリリアと同じ核が必要になる。でもない」
「じゃあ二つ目」
「古い仕組みだけが残っている」
ルシアンは紙へ簡単な図を書く。
円。
その中央に点。
「以前は、ここにリリアがいた」
「うん」
「周囲に僕たちがいて、世界がそれを繋いでいた」
いくつか点を足す。
「今は」
中央の点に線を引いて消す。
「いない」
「私がいるよ」
「君はここではない」
別の場所に、新しい点を描く。
円の外側。
「君はこっちだ」
「外?」
「ああ」
「仲間外れみたい」
「むしろ自由だよ」
ルシアンが少し笑う。
「世界の仕組みに組み込まれていない」
「じゃあ古い方は?」
「中心を失った」
「……それで壊れてる?」
「その可能性がある」
リリアは図を見る。
「私が自由になったから?」
「君のせいではない」
「でも原因ではある?」
「そこは分けよう」
ルシアンがペンを置く。
「君が独立したことは異常ではない。本来あるべき状態だ」
「うん」
「問題は、役目を終えた仕組みが消えずに残っていること」
「ゴミ?」
「世界規模のね」
「捨てよう」
ルシアンが吹き出した。
「随分簡単に言うね」
「いらないんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ捨てる」
「君らしいな」
笑ったあと。
ルシアンの表情がまた真面目になる。
「ただし、問題がある」
「何?」
「黒い月は自分の目的を失っている」
「世界を存続させるんじゃないの?」
「そのために必要だった中心個体がいない」
「昔のリリア」
「ああ」
「じゃあ」
嫌な予感がした。
「私をそこに入れようとしてる?」
ルシアンは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「……可能性は?」
「ある」
「高い?」
「まだ分からない」
リリアは自分の胸元を見る。
魂。
エリシア。
独立した存在。
「入れられたらどうなる?」
「分からない」
「またそれ」
「ごめん」
「怒ってない」
リリアは少し笑った。
「先輩が分からないって言うの、ちょっと好きかも」
「なぜ?」
「私と同じだから」
「僕が無知なのが嬉しい?」
「違う」
リリアは図の外側にある点を指す。
「これから一緒に知れる」
ルシアンが止まった。
「先輩はずっと、全部知ってたんでしょ?」
「……過去はね」
「次に何が起こるかも?」
「大体は」
「誰がどうなるかも?」
「ある程度」
「嫌だった?」
「かなり」
「じゃあ今は?」
ルシアンは紙を見る。
何も書かれていない先。
「……怖いよ」
「うん」
「君が明日も無事なのか、僕には分からない」
「うん」
「この世界が一年後もあるのかも」
「うん」
「君が卒業する日を、本当に迎えられるのかも」
「うん」
リリアはテーブルの下で彼の手を探した。
指先が触れる。
ルシアンがこちらを見る。
「でも」
リリアから手を握る。
「先輩、昨日言ったじゃん」
「何を?」
「明日も会いたいって」
「ああ」
「今日会えた」
「……そうだね」
「じゃあ次は明日」
ルシアンの指がゆっくり絡む。
「その次は?」
「明日決める」
「またそれか」
「駄目?」
「いや」
ルシアンは小さく笑った。
「好きだよ、その考え方」
「私も好き」
「僕が?」
「今は考え方の話」
「残念」
「ルシアン先輩も好き」
「……ありがとう」
少しだけ空気が柔らかくなった。
リリアはパンを指す。
「食べて」
「今?」
「今」
「はい」
ルシアンが素直に包みを開ける。
一口食べる。
「どう?」
「美味しい」
「よし」
「君は僕の母親かな」
「恋人です」
「そうだった」
「忘れた?」
「忘れるわけがないだろう」
その言い方が少し強くて。
リリアは笑った。
「何?」
「嬉しい」
「そう」
「もう一回言って」
「忘れるわけがない」
「そこじゃない」
ルシアンが気づく。
「……恋人?」
「うん」
「僕の恋人」
「満足」
「安上がりだね」
「じゃあキスも」
ルシアンがパンを持ったまま止まった。
「急だね」
「高い方」
「価格の話だったの?」
「違うけど」
ルシアンはパンを置く。
「今?」
「嫌?」
「嫌ではない」
「じゃあ」
「ただ」
眼鏡越しの目が少し細くなる。
「さっきまで世界の終わりについて話していたんだけどね」
「だから」
「だから?」
「ちょっとしたい」
ルシアンはしばらくリリアを見る。
「……怖かった?」
「少し」
正直に答えた。
「私がまた何かにされるかもしれないって聞いたから」
「そう」
「でも先輩いるし」
「うん」
「私もいる」
「……うん」
「だから大丈夫って思いたい」
ルシアンは眼鏡を外した。
テーブルへ置く。
「リリア」
「何?」
「抱きしめてもいい?」
キスだと思っていた。
少し驚く。
でもすぐ頷いた。
「うん」
ルシアンの腕がゆっくり背中へ回る。
強くない。
逃げようと思えばいつでも離れられるくらい。
リリアも腕を回した。
「……あったかい」
「君もね」
「先輩、心臓速い?」
「確認する?」
「今は分かる」
近いから。
胸が触れている。
どちらの鼓動か分からないくらい。
「怖い?」
今度はリリアから聞く。
「ああ」
「私がいなくなるの?」
「それも」
「他は?」
「僕がまた間違えること」
ルシアンの声が耳元で聞こえる。
「君を守るという理由で、君から選ぶ権利を奪うこと」
「したら怒る」
「知っている」
「殴るかも」
「それは少し困るな」
「セシルに頼む」
「もっと困る」
リリアは少し笑った。
ルシアンも笑った。
「だから」
リリアは背中へ回した腕に少し力を入れる。
「先輩も一人で決めないで」
「ああ」
「私も勝手に死なない」
「……それは」
「何?」
「もう一度言って」
「勝手に死なない」
抱く腕が少しだけ強くなった。
「約束?」
「約束」
「僕もだ」
「先輩も?」
「ああ」
「勝手に死なない?」
「死なない」
「よし」
しばらく、そのままでいた。
やがてルシアンが少し離れる。
でも腕はまだ腰にある。
「……近い」
「今さら?」
「顔が」
「キスしたかったんじゃないの?」
「したい」
「僕も」
「じゃあ」
リリアが少し顔を上げる。
ルシアンはすぐには近づかなかった。
「してもいい?」
「うん」
一度だけ。
短いキス。
離れたあと、リリアは少し笑った。
「何?」
「落ち着いた」
「それはよかった」
「先輩は?」
「逆かな」
「何で?」
「もう少ししたくなった」
リリアが目を瞬く。
「する?」
ルシアンは少し迷って。
「今日はやめておく」
「何で?」
「僕たちは今、調査中だからね」
「真面目」
「それに」
親指が、リリアの頬を一度だけ撫でる。
「一度で落ち着いたと言った君に、二度目をねだるのも格好がつかない」
「別にいいのに」
「……君は本当に」
ルシアンが額を押さえた。
「何?」
「いや」
「耳赤い」
「眼鏡を返してくれるかな」
「嫌」
「リリア」
「もうちょっと見る」
「困った恋人だ」
「好き?」
「好きだよ」
結局、眼鏡は数分後に返した。
調査を再開する。
古い術式。
黒い月。
世界の中心。
エリシア。
二人で一つずつ確認していく。
そして日が沈み始めた頃。
「……待って」
ルシアンの指が、ある記述で止まった。
「何?」
「これ」
リリアが覗き込む。
古い文字。
「読めない」
「僕が読む」
ルシアンの声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「中心個体が消失した場合」
「うん」
「再構築機構は、新たな中心を探索する」
嫌な予感。
「新しい中心?」
「ああ」
「それって私?」
「最後まで聞いて」
ページをめくる。
「候補となるのは、世界構造へ直接干渉可能な独立魂」
二人とも黙った。
条件が一致する。
「……可能性創造」
「ああ」
リリアの魔法。
世界そのものへ可能性を作る力。
「私だ」
「可能性が高い」
ルシアンがさらに読み進める。
そして。
止まった。
「何?」
答えない。
「ルシアン先輩」
「……これは」
初めてだった。
ルシアンの顔から、完全に血の気が引いた。
「何が書いてあるの?」
「リリア」
「見せて」
「待って」
「一緒に見るって言った」
ルシアンの手が止まる。
数秒。
「……そうだったね」
本をこちらへ向ける。
ルシアンが翻訳しながら読む。
「新たな中心個体の発見後、旧管理権限を用いて接続を開始する」
「旧管理権限?」
「……僕だ」
リリアは彼を見る。
「先輩?」
「ああ」
ルシアンの顔は笑っていなかった。
「最初のリリアを作った術式の管理者は、僕だった」
嫌な意味が分かり始める。
「つまり」
ルシアンが低い声で続ける。
「黒い月が君を新しい中心にしようとしているなら」
ページの最後。
古い術式文字が、淡く光り始めた。
それまで死んでいたはずの記録が。
今。
二人の目の前で起動する。
文字が書き換わった。
《独立個体――ELICIA》
《新規中心候補――適合》
リリアは息を止めた。
さらに一行。
《旧管理者――LUCIAN NOX》
《管理権限――再接続開始》
「……再接続?」
リリアが呟く。
ルシアンは自分の右手を見る。
手の甲に。
紫黒色の細い線が浮かんでいた。
古い魔法陣。
何千年も前。
最初のリリアを管理するために与えられた権限。
「先輩」
「触らないで」
初めて。
ルシアンが反射的に言った。
リリアの手が止まる。
ルシアン自身も、その言葉に気づいた。
「……ごめん」
「危ない?」
「分からない」
「じゃあ触らない」
リリアは手を引いた。
でも離れなかった。
「これ、何ができるの?」
ルシアンは古い記録を見る。
そして。
さらに顔を強張らせた。
「最初のリリアに対して、僕が持っていた権限だ」
「だから何ができるの?」
短い沈黙。
「魔力の制限」
「うん」
「行動領域の制限」
「……うん」
「術式への強制接続」
ルシアンの声が低くなる。
「そして」
言いたくないのが分かった。
「命令権」
リリアは黙った。
「私への?」
「ああ」
今の自分たちは恋人だ。
好きだと選び合った。
何にも繋がれていないことを、二人で喜んだ。
なのに。
世界の方が。
その関係へ、勝手に鎖を戻そうとしている。
「……最悪」
リリアが言った。
「同感だよ」
ルシアンは右手を強く握る。
「こんなもの」
魔力が動く。
壊そうとしている。
「待って」
今度はリリアが止めた。
「でも」
「一人で決めない」
ルシアンがこちらを見る。
「これ壊したらどうなるか分かる?」
「……分からない」
「じゃあ調べる」
「リリア」
「一緒に」
手の甲に、古い管理者の印がある。
今はそこへ触れられない。
だからリリアは。
代わりに、ルシアンの左手を取った。
「こっちは大丈夫?」
「……ああ」
指を絡める。
「じゃあこれでいい」
「君は」
ルシアンが息を吐く。
「怖くないの?」
「怖いよ」
「僕が君へ命令できるかもしれないんだよ」
「今はしないでしょ?」
「しない」
「絶対?」
「絶対に」
「じゃあ今は信じる」
「……今は?」
「もし先輩が変になったら逃げる」
ルシアンが一瞬止まり。
それから、少し笑った。
「それでいい」
「止めても逃げる」
「ああ」
「私のためって言われても」
「逃げて」
「セシルも呼ぶ」
「それは本当に怖いな」
「先輩を殴ってもらう」
「できれば話し合いでお願いしたい」
少しだけ笑えた。
でも。
二人の間で繋がれた左手とは反対側。
ルシアンの右手に浮かんだ魔法陣は、消えなかった。
そして誰にも見えない世界の深部で。
古い機構が静かに計算を始めていた。
《独立個体ELICIA――接続開始》
《旧管理者LUCIAN NOX――権限復元》
《同期率――一パーセント》
何にも繋がれていなかった二人を。
世界が。
初めて、無理やり繋ごうとしていた。