魔法より、君に恋をする。

ルシアンルート 第46章 同じ言葉でも、君は君

 離れていく小指を、リリアは目で追った。ほんの少し前まで触れていた温度が消えて、机の下に数センチの隙間ができる。たったそれだけなのに、急に遠くなった気がした。

 ルシアンは開かれた古い記録を見たまま動かない。そこに残っているのは、何千年も前の自分の筆跡だった。

『彼女は言った。あなたとの繋がりがなくなるくらいなら、自由なんていらない』

『私は、その言葉を嬉しいと思ってしまった』

 リリアはもう一度その文章を見て、それから隣を見る。

「先輩」

「……うん」

「何で離したの」

「何が?」

「手」

 ルシアンは少し遅れて、自分の左手を見た。

「無意識だった」

「嘘」

「……半分はね」

「じゃあ残り半分は?」

「少し、考えたくなった」

 リリアは黙って待った。今までなら、ルシアンはここで自分一人の中に潜ってしまったかもしれない。だから急かさない。ただ、隣からいなくならない。

 やがてルシアンが静かに息を吐いた。

「最初の彼女も、僕を好きだった」

「うん」

「僕も彼女を愛していた」

「うん」

「だから僕は、彼女を自由にしたかった。僕との繋がりが彼女を縛っていると思っていたから」

「それで権限を捨てようとした」

「ああ。でも彼女は拒んだ」

 ルシアンの指が古い文字をなぞる。

「あの時の僕は、その言葉を嬉しいと思った。彼女が自由より僕を選んだことを」

「それって駄目なの?」

「……今なら、駄目だったと思う」

「何で?」

「彼女の選択を尊重したかったんじゃない。僕は、選ばれたことに安心してしまったからだよ。彼女が僕から離れない理由が、愛情なのか、魂の構造なのか、管理関係なのかも分からないのに」

 リリアは少し考えた。

「先輩。それ、今の私にも思ってる?」

「……何を?」

「私が先輩を好きなのも、本当に私が好きなのか分からないって」

 ルシアンはすぐには答えなかった。その沈黙が答えだった。

「ちょっと思ってるんだ」

「……少し」

「何で?」

「同期率が上がっている。古い機構は僕たちを結びつけようとしている。そして最初の彼女も、僕との繋がりを失いたくないと言った」

「うん」

「もし君まで同じことを言ったら、僕はきっと――」

「嬉しい?」

 ルシアンは苦しそうに笑った。

「……ああ。だから怖いんだよ。僕はまた同じ間違いをするかもしれない」

 リリアはしばらく彼を見ていた。それから、机の下に置かれたルシアンの左手へ自分の小指を伸ばした。触れる直前で止める。

「繋いでいい?」

 ルシアンがこちらを見る。

「……今?」

「今」

「どうして?」

「離されたの嫌だったから」

「リリア」

「嫌ならやめる」

「嫌じゃない」

「じゃあいい?」

 少しの沈黙のあと、ルシアンの小指が動いた。向こうから触れてくる。リリアはそれを絡めた。

「先輩。私、自由がいいよ」

 ルシアンが瞬きをする。

「管理されるの嫌だし、命令されるのも嫌。先輩が勝手に私の人生決めるのも嫌だし、行く場所決められるのも嫌。魔法止められるのも、昨日みたいに私がお願いした時以外は嫌」

「……うん」

「だから管理権限は捨てたい」

「ああ」

「でも、先輩との繋がりはなくしたくない」

 小指が僅かに強張った。

「リリア」

「これ、同じ言葉?」

 ルシアンは答えない。

「最初のリリアと同じこと言ってる?」

「……似ている」

「じゃあちゃんと聞いて」

 リリアは彼の方へ身体を向けた。

「私がなくしたくないのは、管理権限じゃない。魂の接続でもない。同期率なんてゼロでいい。先輩が私に命令できなくなってもいい。私が先輩の特別な魂じゃなくてもいい。運命じゃなくてもいい」

「リリア」

「でも明日も会いたい」

 ルシアンの目が揺れた。

「明後日も、その次も。卒業しても会いたい。手も繋ぎたいし、頭も撫でてほしいし、キスもしたい。喧嘩したら仲直りしたいし、先輩がご飯食べなかったら怒りたい」

「……最後は少し余計じゃないかな」

「大事」

「そう」

「だから、自由になったら先輩から離れるんじゃないよ。自由になって、それでも先輩のところに行きたいの」

 ルシアンは何も言わなかった。

 リリアは少し不安になる。

「先輩?」

「……少し待って」

「何で?」

「今、かなり困っている」

「何に?」

「嬉しすぎて」

 その答えに胸が跳ねた。

「……そんなに?」

「ああ」

「どれくらい?」

「君を抱きしめたいくらい」

「じゃあして」

「即答だね」

「したいんでしょ?」

「したい」

「私も」

「……では」

 ルシアンが一度、監視術式を見る。

《同期率――四十八・七パーセント》

 変化なし。

「いい?」

「うん」

 椅子を少し引いて、ルシアンが腕を広げる。リリアは迷わずそこへ入った。背中へ腕が回る。昨日より穏やかで、朝より少し強い。

「……先輩」

「何?」

「今の私、最初のリリアに似てる?」

 腕の力がほんの少し緩んだ。

「顔は違う」

「魂も違う」

「ああ」

「性格は?」

「似ているところもある」

「どこ?」

「頑固」

「失礼」

「無茶をする」

「先輩も」

「僕の痛いところを簡単に見つける」

「それは知らない」

「それから、僕を好きだと言う」

「……そこも同じなんだ」

「ああ」

 リリアはルシアンの胸元に額をつけた。

「嫌?」

「まさか」

「思い出す?」

「時々」

「じゃあ今も?」

「少し」

 胸がちくりとした。自分から聞いたくせに。

「そっか」

 声に出たものは思ったより小さかった。ルシアンがすぐ気づく。

「リリア。顔を見せて」

「今は嫌」

「どうして?」

「何でもない」

「……嫉妬した?」

「してない」

「しているね」

「してない」

「抱きしめたまま言われても説得力がないな」

「じゃあ離れる」

「それは嫌だ」

「どっちなの」

 ルシアンが笑う。リリアは少しむっとした。

「笑わないで」

「ごめん。でも嬉しい」

「先輩、私が嫉妬するといつも嬉しそう」

「好きな人に特別でいたいと思われるのは嬉しいよ」

「……最初のリリアより?」

 言った瞬間、自分でも子どもっぽいと思った。

 ルシアンも少し驚いた顔をする。

「今のなし」

「待って」

「なし」

「リリア」

「忘れて」

「それは無理だね」

「管理権限で」

「記憶は消せないし、仮にできても使わないよ」

「じゃあ聞かなかったことにして」

「できない」

「何で」

「答えたいから」

 リリアは顔を上げた。眼鏡越しに紫の瞳と目が合う。

「比べないよ」

「……答えになってない」

「なるよ。彼女は彼女で、君は君だ」

「でも先輩は最初のリリアのこと愛してたんでしょ」

「愛していた」

「今も?」

「大切な記憶だよ」

「じゃあ――」

「でも今、恋をしている相手は君だ」

 リリアの言葉が止まった。

「……もう一回」

「今、僕が恋をしているのはリリア・アスター。君だよ」

「エリシアでも?」

「もちろん」

「昔のリリアじゃなくて?」

「ああ」

「似てるところがあっても?」

「ああ」

「同じこと言っても?」

「それでも君だ」

 ルシアンの指が頬へ触れる。

「君が彼女と同じ言葉を言ったから好きなんじゃない。君が僕に何度も怒って、僕の勝手な自己犠牲を止めて、分からないことを一緒に考えようと言って、毎日のように今日も好きかと確認してくるから好きなんだよ」

「最後いらなくない?」

「かなり好きなところだけど」

「本当に?」

「ああ」

「じゃあ今日も好き?」

「好きだよ」

「……よし」

「ほら」

「何?」

「それも好き」

「変なの」

「君に言われたくないな」

 リリアは笑った。さっきまで胸にあった小さな棘が、少しずつ溶けていく。

「先輩。私も最初のリリアに嫉妬していい?」

「止める権利はないよ」

「嫌じゃない?」

「少し複雑だけどね。彼女も僕にとって大切な人だったから。でも、君が僕を独占したいと思ってくれること自体は嬉しい」

「独占したいのかな」

「違う?」

「……今の先輩は私のがいい」

「それを独占欲と言うんじゃないかな」

「じゃあそうかも」

「可愛いね」

「急に言わないで」

「本当だから仕方ない」

「じゃあ先輩は?」

「何が?」

「私のこと独占したい?」

 ルシアンが黙った。

「……その沈黙何」

「答えを選んでいる」

「正直に」

「かなり」

「え」

「かなりあるよ」

「そうなの?」

「意外?」

「余裕あるから」

「君がノアと手を繋ぐ実験を提案した時、僕が何と言ったか忘れた?」

「嫌って言ってた」

「かなり嫌だった」

「セシルは?」

「相手による」

「レオンは?」

「嫌だね」

「アレンは?」

「嫌だ」

「カイルは?」

「嫌」

「誰ならいいの」

「握手なら誰でも」

「手繋ぐのは?」

 ルシアンがほんの少し視線を逸らした。

「……僕がいい」

 リリアは思わず笑った。

「ちゃんと独占欲ある」

「聞いたのは君だろう」

「嬉しい」

「そう言うと思った」

「でも私が誰と何するか、先輩が決めるのは嫌だよ」

「ああ。僕もそのつもりはない。嫌なら嫌と言う。でも決めるのは君だ」

「うん。それ好き」

「僕も、そういう恋人でいたい」

 その言葉が妙に嬉しかった。

 管理者でも、対象でもない。

 互いに嫌だと言えて、それでも隣にいる。

 それでいい。

 それがいい。

「先輩」

「何?」

「さっきの嫉妬、まだちょっと残ってる」

「どうしたら消える?」

 聞き方が優しくて、リリアは少し考えるふりをした。

「……キス」

「即答だね」

「聞いたの先輩じゃん」

「そうだけど」

「嫌?」

「まさか」

 ルシアンの目が少し細くなる。

「それで本当に消える?」

「多分」

「では確認しようか」

「実験?」

「半分」

「残りは?」

「したい」

 昨日から似たようなやり取りばかりしている気がするのに、毎回ちゃんと胸が跳ねる。

「眼鏡」

「外す?」

「うん」

「今日は君から?」

「え」

「昨日、自分からできただろう?」

「……できたけど」

「嫌なら僕からする」

「嫌じゃない」

「では待っている」

 ルシアンが眼鏡を外して机へ置く。紫の瞳が直接こちらを見た。

 待たれると、余計に恥ずかしい。

「目閉じて」

「昨日も言われたね」

「いいから」

「はい」

 ルシアンが目を閉じる。

 リリアは少し近づいて、一度止まった。

「……先輩」

「何?」

「喋らないで」

「まだ何も」

「集中できない」

「分かった」

 もう少し近づく。

 唇が触れる。

 一瞬。

 すぐに離れた。

 ルシアンが目を開ける。

「……どう?」

「嫉妬は?」

「まだちょっとある」

「ではもう一度?」

「うん」

「今度は僕からでもいい?」

「うん」

 頬へ手が触れる。

 二度目は少し長かった。

 ゆっくり触れて、離れる。

 そのまま額が触れそうな距離にいる。

「どう?」

「……まだあるかも」

「本当かな」

「ある」

「どれくらい?」

「結構」

「さっきはちょっとと言っていた気がするけど」

「増えた」

「キスで嫉妬が増えるの?」

「特殊な体質」

「初めて聞いたよ」

 笑われる。

「じゃあもう一回」

「リリア」

「何?」

「キスしたいだけだろう」

「……ばれた」

「最初からね」

「先輩はしたくない?」

「したいよ」

「じゃあ問題ない」

「君のその理屈、最近どんどん強くなるね」

「先輩が甘やかすから」

「僕のせい?」

「半分」

「残りは?」

「好きだから」

 ルシアンが小さく息を吐いた。

「……本当に強いな」

 今度は彼から近づいた。

 三度目。

 唇が重なる。

 リリアは目を閉じて、自然にルシアンの袖を掴んだ。

 昨日はそれだけで彼が離れた。

 でも今日は違った。

 一度唇が離れても、ルシアンはすぐには遠ざからない。嫌ではないと、もう知っているから。

 もう一度、触れる。

 さっきよりゆっくり。

 頬を包む手は優しいままで、どこにも逃げ道を塞ぐような強さはない。

 それが、リリアには嬉しかった。

 唇が離れる。

「……リリア」

「うん」

「大丈夫?」

「うん」

「嫌じゃなかった?」

「全然」

「よかった」

 目を開ける。

 ルシアンの顔がまだ近い。

「先輩」

「何?」

「キス上手くなった?」

「僕が?」

「うん」

「比較対象が僕しかいないのに分かるの?」

「前の先輩と比較」

「なるほど」

「上手くなったと思う」

「それは光栄だね」

「私も?」

「……答えていいのかな」

「いいよ」

「上手になったと思う」

「やった」

「そんなに喜ぶこと?」

「先輩に褒められた」

「キスを?」

「うん」

 ルシアンが堪えきれないように笑った。

「君は本当に可愛いね」

「それの方が恥ずかしい」

「なぜ?」

「分かんない」

 親指が頬を一度撫でる。

「嫉妬は?」

「忘れてた」

「なら成功だ」

「でも思い出した」

「それは僕のせいだね」

「もう一回?」

「駄目」

「えー」

「これ以上は調査が進まない」

「昨日も言ってた」

「毎日同じ理由で止めている気がする」

「じゃあ調査終わったら?」

「……何をするつもり?」

「キス」

「君はそれしかないの?」

「デートもしたい」

 その言葉で、ルシアンの表情が少し変わった。

「そういえば、約束したね」

「服見て、お菓子食べて、雑貨見る」

「ああ」

「世界救ったら行こうね」

「……世界を救ったら、か」

 ほんの少しだけ声が曇った。

「何?」

「いや」

「また一人で考えた」

「……ばれた?」

「すぐ分かる。何考えたの」

 ルシアンは少し迷ってから答えた。

「世界を救えたら、じゃなくて。六十四時間後も、君とこうしていられたらと思った」

「いるよ」

「保証はない」

「うん」

「だから怖い」

「私も」

「……そうだね」

 リリアは少し考えて、それから彼の手を取った。

「でもさ。デート、世界救ってからじゃなくてよくない?」

「え?」

「明日行こう」

「明日?」

「うん」

「リリア、今の状況を理解している?」

「してる。あと六十四時間」

「その間に解除方法を探さないといけない」

「探す。でも一日中ずっと本読んでたら頭おかしくなる」

「それは……そうだけど」

「午前中調べる。午後ちょっとだけ街行く。服見る。お菓子食べる。雑貨見る。そして帰ってまた調べる」

「全部行くんだね」

「行く」

 ルシアンはしばらくリリアを見ていた。

「嫌?」

「……嫌じゃない」

「行きたい?」

「君と?」

「うん」

「行きたいよ」

「じゃあ決まり」

「本当に?」

「本当に」

 ルシアンは少し呆れたように笑った。

「世界の終わりが近いかもしれないのにデートするのか」

「終わるって決まってない」

「そうだね」

「それに、先輩言ったじゃん。世界が危険だからって、私たちまで不幸でいる必要ないって」

「……言ったね」

「じゃあ明日は幸せになる日」

 ルシアンが目を細めた。

「随分大胆な予定だ」

「嫌?」

「嫌じゃないよ」

「じゃあ何?」

「楽しみになってしまった」

「いいじゃん」

「調査に集中できなくなりそうだ」

「それは頑張って」

「君が原因なのに?」

「恋人なので」

「便利だな、本当に」

 笑い合ってから、二人はようやく机へ向き直った。

 古い記録を読み進める。

 管理権限。

 対象個体。

 解除条件。

 失敗した過去。

 まだ分からないことばかりだった。

 それでも今度は、机の下で小指を繋いだままにした。

 しばらくして、リリアがページをめくりながら呟く。

「先輩」

「何?」

「明日のデート、手繋いでいい?」

「同期率が上がらなければ」

「上がらないよ。さっきあんなにキスしても四十八・七だったし」

「『あんなに』と言わないでくれるかな」

「結構したじゃん」

「……否定はしない」

「じゃあ手繋ぐ」

「ああ」

「途中で離さないでね」

 ルシアンは少しだけ黙った。

 それから、小指ではなく手そのものを重ねてきた。

 指が絡む。

「こういうこと?」

「……うん」

「なら、離さないようにする」

「絶対?」

「君が離したくなるまでは」

 リリアは繋いだ手を見る。

 命令でもない。

 管理でもない。

 どちらかが離したければ、いつでも離せる。

 だからこそ、離さないという言葉が嬉しい。

「先輩」

「何?」

「明日楽しみ」

「僕もだよ」

「デート中、世界の話禁止の時間作ろう」

「何分?」

「二時間」

「長い」

「一時間半」

「交渉制なの?」

「一時間」

「……分かった」

「やった」

「その代わり」

「何?」

「その一時間は」

 ルシアンが繋いだ手へ少し力を込める。

「僕も、君の恋人でいることだけ考えていい?」

 リリアは一瞬、何も言えなかった。

「……それ、ずるい」

「何が?」

「先輩たまに急に強い」

「駄目?」

「駄目じゃない」

「では決まりだね」

「うん」

 リリアも指へ力を返した。

「一時間だけじゃなくてもいいよ」

「それでは調査が終わらない」

「真面目」

「君とのデートをちゃんと楽しむためにも、今は真面目にやるよ」

「じゃあ頑張ろ」

「ああ」

 そして二人は再び記録へ目を落とした。

 けれど十分後。

「リリア」

「何?」

「ページがさっきから一枚も進んでいない」

「……先輩の手が気になる」

「僕もだよ」

「じゃあ一回離す?」

「それは嫌だな」

「私も」

「困ったね」

「うん」

 顔を見合わせる。

 少しして、同時に笑った。

 明日が来る保証なんて、本当はどこにもない。

 六十四時間後、二人が自由でいられる保証もない。

 それでも。

 明日の午後には待ち合わせをして。

 服を見て。

 甘いものを食べて。

 雑貨を見て。

 手を繋ぐ。

 そんな小さな予定があるだけで、未来は急に「来てほしいもの」になる。

 そしてリリアはまだ知らなかった。

 翌日のデートで、ルシアンが彼女に渡そうとしているものがあることを。

 管理者としてではなく。

 生徒会長としてでもなく。

 ただ一人の恋人として。

 彼が初めて、自分で選んだ贈り物を。
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