魔法より、君に恋をする。

ルシアンルート 第49章 十二回、あなたを知らない私

 最初に戻ってきたのは、痛みではなかった。

 匂いだった。

 雨の匂い。

 濡れた土と、古い石畳。どこかで花が咲いている。知らないはずなのに、リリアはその場所を知っていた。

「……ここ」

 声にした瞬間、自分の身体がないことに気づいた。

 手を上げようとしても、何も見えない。足元もない。ただ意識だけが、知らない景色の中に浮かんでいる。

 いや。

 知らない景色ではない。

 知っている。

 思い出せなかっただけだ。

『リリア』

 後ろから声がした。

 振り返るという感覚だけが起こる。

 そこにいた。

 ルシアン。

 けれど今の彼ではない。

 眼鏡をしていない。髪も少し長い。服装も学院のものとは全く違う。

 そして何より。

 笑っていた。

 今のルシアンも笑う。

 けれど、その笑顔とは違う。

 もっと無防備で、もっと幼くて。

 何も失う前の人の顔だった。

『遅い』

 自分の声が聞こえる。

 リリアのものではない。

 でも。

 自分の声だった。

『ごめん』

『三十分』

『そんなに?』

『二十八分』

『それなら三十分ではないね』

『ほぼ三十分』

『二分も減らしてくれたのに?』

『……じゃあ二十八分怒る』

『長いな』

 ルシアンが笑う。

 その隣へ、誰かが歩いていく。

 白い髪。

 顔は見えない。

 でも分かる。

 最初のリリア。

 いや。

 エリシア。

「……これが」

 第一循環。

 説明されなくても理解した。

 世界が教えているわけではない。

 自分の中にあった記憶だから。

 場面が変わる。

 小さな家。

 二人で食事をしている。

 ルシアンが料理を焦がしている。

『食べられる?』

『食べられるよ』

『黒いけど』

『少しだけ』

『炭だよ』

『……作り直そうか』

『うん』

 また変わる。

 喧嘩をしている。

『勝手に決めないで!』

『君を守るためだ!』

『だからって私に何も言わなくていい理由にならない!』

 リリアは思わず目を閉じたくなった。

 今と同じ。

 何千年経っても。

「先輩、変わってないじゃん……」

 少し笑った。

 でも次の瞬間。

 笑えなくなった。

 赤い空。

 崩れる街。

 血。

『ルシアン』

 エリシアが倒れている。

 ルシアンが抱いている。

『待って。今、戻すから』

『無理だよ』

『無理じゃない』

『分かるよ。自分の身体だもん』

『喋らないで』

『ルシアン』

『お願いだから』

 震えている。

 今のルシアンからは想像できないほど。

『死なないで』

 リリアの胸が痛んだ。

 知っている。

 この先を。

 見たことはない。

 でも知っている。

『……ごめんね』

 エリシアの手が、ルシアンの頬へ触れる。

『先に行くね』

『嫌だ』

『また会えたら』

『嫌だ』

『今度は』

『そんな話をしないで』

『もっと普通に恋しようね』

 手が落ちる。

 ルシアンの声が。

 世界が崩れる音より大きく聞こえた。

「……一回目」

 暗転。

 次に目を開ける。

 学院。

 今と似ている。

 でも少し違う。

『初めまして』

 少女が言う。

 髪は茶色。

 顔も違う。

『ミアです』

 ルシアンが固まっている。

 少女は不思議そうに首を傾げた。

『……どうしました?』

『いや』

 ルシアンが笑う。

『何でもない』

 第二循環。

 リリアには分かった。

「私じゃない」

 でも。

 私だ。

 魂の中心だけが同じ。

 少女はルシアンを知らない。

 当然だ。

 初対面なのだから。

 けれどルシアンだけは。

 全部覚えている。

 そこからの記憶は早かった。

 ミアは別の人を好きになった。

 ルシアンは何も言わなかった。

 友人として彼女を守った。

 世界が崩れる日。

 ミアは恋人の腕の中で死んだ。

 少し離れた場所に。

 ルシアンがいた。

 泣かなかった。

 ただ。

『……今度こそ』

 そう呟いた。

 第三循環。

 少女の名はフィオナ。

 ルシアンを嫌っていた。

『あなた苦手』

『そう』

『何考えてるか分からない』

『よく言われるよ』

『笑って誤魔化すところも嫌い』

『これは手厳しい』

 リリアは少し笑いそうになった。

「めっちゃ言われてる」

 でも。

 そのフィオナは最後までルシアンを好きにならなかった。

 ルシアンも恋愛感情を向けなかった。

 ただ彼女が死んだ時。

 墓の前に一人で立っていた。

『……ごめん』

 それだけだった。

 第四循環。

 第五循環。

 第六循環。

 名前が変わる。

 顔が変わる。

 性格が変わる。

 家族が変わる。

 ルシアンを好きになる人生もあった。

 嫌う人生もあった。

 ほとんど関わらない人生もあった。

 他の誰かと恋をする人生も。

 誰も好きにならない人生も。

 それでも。

 必ず最後には世界が壊れた。

 そして。

 必ず彼女は死んだ。

 ルシアンだけを残して。

「……待って」

 第七循環。

 リリアは違和感に気づいた。

 ルシアンが。

 ほとんど笑わなくなっている。

 少女が話しかけても、必要以上に近づかない。

 助ける。

 守る。

 でも距離を取る。

『どうしていつも助けてくれるんですか?』

『仕事だから』

『でもあなた、私の先生でも騎士でもないですよね』

『そうだね』

『じゃあ何で?』

 ルシアンは答えない。

 少女が笑う。

『変な人』

 その笑顔を見て。

 ほんの一瞬。

 ルシアンの顔が歪んだ。

 リリアは分かった。

「……怖くなったんだ」

 好きになるのが。

 近づくのが。

 また失うのが。

 第八循環。

 ルシアンは最初から少女を避けた。

 第九循環。

 名前だけ確認して、一度も話しかけなかった。

 第十循環。

 遠くから守った。

 それでも死んだ。

 第十一循環。

 ルシアンは世界そのものを変えようとした。

 失敗した。

 第十二循環。

 そして。

 景色が変わった瞬間。

 リリアは息を呑んだ。

「……南商?」

 今の学院とほとんど同じだった。

 校舎。

 中庭。

 制服。

 生徒会室。

 現在の世界に最も近い。

 少女が廊下を走っている。

『遅刻する!』

 長い髪。

 制服。

 顔が見える。

 リリアは固まった。

「……私?」

 似ていた。

 今までで一番。

 今のリリアに。

 でも違う。

 ほんの少し。

 目の色。

 髪の長さ。

 表情。

 少女が角を曲がる。

 誰かにぶつかった。

『わっ』

 書類が散らばる。

『ご、ごめんなさい!』

『大丈夫?』

 ルシアン。

 少女が顔を上げる。

 目が合う。

『……綺麗』

 少女が言った。

 ルシアンが止まる。

『え?』

『あっ』

 少女が口を押さえた。

『違います! いや違わないけど! 目が! 紫で! 綺麗だなって!』

 リリアは固まった。

「……私も言った」

 今の世界で。

 初めて彼の目を近くで見た時。

 同じようなことを。

 ルシアンは少女を見ている。

 怖いほど。

『……名前は?』

『え?』

『君の名前』

『リリアです』

 胸が止まりそうになった。

「……リリア?」

 第十二循環。

 彼女も。

 リリア。

 そこからの記憶は、今までより鮮明だった。

 ルシアンは距離を取ろうとした。

 でもリリアが近づいた。

『先輩』

『何?』

『お昼一緒に食べません?』

『どうして僕と?』

『一人で食べてるから』

『一人が好きなんだよ』

『じゃあ隣で勝手に食べます』

『話を聞いていた?』

『はい』

 リリアは思わず笑った。

「……似てる」

 嫌になるくらい。

 でも。

 同じではない。

 第十二循環のリリアは、もっと強引だった。

 ルシアンが逃げるほど追いかけた。

 何度拒まれても。

 何度距離を置かれても。

 隣へ行った。

 そして。

『好きです』

 屋上。

 夕方。

 少女が言う。

『先輩が好き』

 ルシアンは長い間黙っていた。

『……僕は』

『はい』

『君を好きになりたくない』

 少女の顔が固まる。

『……それ、振ってます?』

『そうだね』

『そっか』

 泣きそうな顔。

 でも笑った。

『分かりました』

 背を向ける。

 そこで。

『でも』

 ルシアンが呼び止める。

 少女が振り返る。

『もう遅いんだ』

 初めて。

 ルシアンから近づいた。

『好きになりたくなかった』

 少女の頬へ手を添える。

『でも、好きだ』

 リリアの胸が痛んだ。

 見たくない。

 そう思った。

 過去なのに。

 自分の前世のような存在なのに。

 それでも。

 今好きな人が、自分ではない誰かを好きだと言う姿を見るのは苦しい。

「……これ、嫌だな」

 小さく呟く。

 記憶は止まってくれない。

 二人は恋人になった。

 手を繋いだ。

 デートをした。

 喧嘩をした。

 仲直りした。

 キスをした。

 そして。

 世界が壊れた。

「……やだ」

 分かっている。

 結末を。

 見たくない。

 赤い空。

 黒い月。

 今と同じ。

 リリアが倒れている。

 ルシアンが抱いている。

『先輩』

『喋らないで』

『またそれ』

『お願いだから』

『……泣いてる?』

『泣いてない』

『嘘』

『リリア』

『はい』

『お願い』

 ルシアンの声が震えている。

『死なないで』

 第十二循環のリリアは。

 笑った。

『次は』

『言うな』

『次も会えたら』

『やめて』

『今度こそ』

 血のついた手で、ルシアンの頬へ触れる。

『普通に幸せになろうね』

 リリアの胸が強く痛んだ。

 第一循環と。

 同じ。

 少しだけ言葉が違う。

 でも願いは同じ。

 普通に。

 ただ普通に。

 恋をして。

 生きたかった。

『先輩』

『何』

『次の私が』

 少女の声が弱くなる。

『先輩を好きにならなくても』

 ルシアンの顔が歪む。

『幸せにしてあげて』

『……嫌だ』

『何で』

『君じゃなきゃ嫌だ』

『わがまま』

『そうだよ』

『でも』

 少女が笑う。

『好きになるかもよ』

『……』

『先輩、顔いいし』

『こんな時に何を』

『目も綺麗だし』

『リリア』

『優しいし』

『やめて』

『ちょっと面倒くさいけど』

『……』

『次の私も』

 指が頬から滑り落ちる。

『好きになるかも』

 そこで。

 記憶が切れた。

「……っ」

 リリアは泣いていた。

 身体はないはずなのに。

 涙の感覚だけがある。

「何なの……」

 胸が痛い。

「何で毎回」

 死ぬ。

 好きになっても。

 ならなくても。

 逃げても。

 戦っても。

 結末は同じ。

「先輩……」

 会いたい。

 今のルシアンに。

 十二回の中にいるルシアンではなく。

 昨日一緒にデートした人に。

 ブレスレットをくれた人に。

「ルシアン先輩」

 呼んだ。

 返事はない。

 代わりに。

 世界が白くなる。

 声が聞こえた。

《十二循環分記憶復元――完了》

「……終わった?」

《否》

 リリアが息を止める。

《未復元記録――一件》

「何?」

《第零循環》

「……ゼロ?」

 聞いていない。

 十二回。

 そして今が十三回目。

 それで全部のはずだった。

「ゼロって何」

《原初記録を復元します》

「待って」

 嫌な予感がする。

「待って!」

 景色が変わる。

 学院ではない。

 街でもない。

 何もない。

 真っ白な世界。

 そこに。

 一人の少女が立っている。

 白い髪。

 見覚えのある背中。

 最初のエリシア。

 その前に。

 青年がいる。

 ルシアン。

 第一循環よりも若い。

 そして。

 二人の間に。

 巨大な魔法陣が浮かんでいる。

『本当にやるの?』

 ルシアンが聞いた。

『うん』

 エリシアが答える。

『後悔しない?』

『するかも』

『なら』

『でもやる』

 エリシアが笑った。

『だって、この世界を作ったのは私だから』

 リリアの思考が止まった。

「……え?」

 魔法陣が輝く。

『だから私が、最後まで責任を持つ』

 ルシアンが彼女の手を握る。

『なら僕も』

『ルシアンは関係ないよ』

『君がいるなら関係ある』

『またそういうこと言う』

『嫌?』

『……逆』

 リリアは動けなかった。

 今まで。

 ずっと。

 世界がエリシアを選んだと思っていた。

 中心個体。

 世界を維持するために必要な魂。

 だから十三回も繰り返された。

 でも。

 違う。

 エリシアが。

 世界に選ばれたのではない。

「エリシアが……世界を作った?」

 その瞬間。

 全ての記憶が。

 最後の扉へ向かって動き始めた。
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