魔法より、君に恋をする。

第二章 白銀の王子様

入学式から三日が経ち、リリア・アステルは王立高等魔法学院《アルカディア》について、すでにいくつかのことを学んでいた。

 まず、授業は面白い。教師陣の知識も豊富で、王国中から優秀な生徒が集まっているという評判にも偽りはなかった。図書館には一生かけても読み切れそうにないほどの魔導書が並び、魔法研究に使われる設備も、リリアがこれまで見たものとは比べものにならない。

 そして、もう一つ。

 この学院は、広すぎる。

「……ここ、どこ?」

「また?」

 隣を歩いていたセシルが足を止めた。

 リリアは手元の時間割と目の前に伸びる廊下を見比べる。第二魔法理論室へ向かっていたはずなのだが、壁に掛けられた案内板には、どういうわけか大きく《西棟》と書かれていた。

「第二魔法理論室に行きたい」

「うん」

「だから中央棟に来た」

「ここは西棟」

「…………」

「しかも中央棟とは反対側」

 リリアはしばらく案内板を見つめ、それから何事もなかったように時間割を畳んだ。

「帰ろう」

「授業を諦めるな」

「だって間に合わない」

「間に合わせる」

 セシルは呆れたように息を吐くと、リリアの手首を掴んだ。入学初日に出会ったばかりだというのに、彼女はもうリリアの扱い方を心得始めているらしい。

「走るぞ」

「え」

「ほら!」

「ちょっと、セシル!」

 二人は廊下を駆け出した。

 窓から差し込む朝の光を受けて、リリアの長い銀髪が背中で大きく揺れる。その隣を走るセシルは、短い藍色の髪にパンツスタイルの制服という出で立ちで、遠目からでも目を引いた。

 ただでさえ有名な二人である。並んで廊下を走れば、当然ながら目立つ。

「あれ、リリア・アステルじゃない?」

「隣、アルヴェイン様だよ」

「最近ずっと一緒じゃない?」

「二人とも綺麗……」

 すれ違った生徒たちの囁き声が耳に入り、セシルが露骨に顔をしかめた。

「また見られてる」

「セシルが王子様だからじゃない?」

「お前のせいでもある」

「私?」

「その自覚のなさ、本当に面倒だな」

「何が?」

「何でもない。ほら、右!」

 言われた通りに曲がろうとして、リリアは反対側へ身体を向けた。

「そっちは左!」

「……分かってる」

「絶対分かってなかっただろ」

「気のせい」

「三日一緒にいるだけで、お前の『気のせい』が信用できないことだけは分かったよ」

 そんなやり取りにも、少しずつ慣れてきた。

 同じ一年生で、同じクラス。選択している基礎科目もほとんど同じだったうえ、リリアが一人で移動すると高確率で目的地に辿り着けない。結果として、入学初日に出会ったばかりのセシルが、いつの間にか最も長い時間を一緒に過ごす相手になっていた。

     *

 二人が教室へ滑り込むのと、始業を告げる鐘が鳴るのはほぼ同時だった。

「間に合った」

 リリアは何事もなかったように自分の席へ座ったが、その隣ではセシルが机に手をついて息を整えている。

「お前……なんであれだけ走ったのに平然としてるんだよ」

「体力あるから」

「魔法使いだろ」

「魔法使いも走るよ」

「そういう話じゃない気がする」

「二人とも朝から楽しそうだね」

 前の席から淡い銀髪の頭がひょこりと現れた。

 ノア・フェルディナンド。リリアやセシルと同じ一年生で、入学式の日に隣の席になって以来、何かと話しかけてくるようになった少年だ。

「おはよう、リリア。セシル。また迷った?」

「迷ってない」

「迷った」

 リリアとセシルの声が重なった。

「セシル」

「事実だろ」

 ノアが堪えきれずに笑い出す。

「入学試験歴代最高記録の天才が、三日連続で教室に辿り着けないの面白すぎるよ」

「今日は辿り着いた」

「セシルのおかげでね」

「結果がすべて」

「強いなあ」

 ノアがまだ笑っていると、少し離れたところから遠慮がちな声がした。

「あ、あの……アルヴェインさん」

 三人が振り向く。

 同じクラスの女子生徒が二人、緊張した様子で立っていた。そのうち一人は、小さく包装された包みを両手で大切そうに持っている。

「私?」

「これ、昨日助けてもらったお礼で……!」

 差し出された包みを見て、セシルは一瞬だけ目を丸くした。けれど、すぐに「ああ」と思い出したように笑う。

「階段で荷物を落とした子か」

「覚えててくれたの!?」

「昨日のことだからな」

「よ、よかったら食べてください!」

「ありがとう」

 セシルが自然に笑って受け取った途端、女子生徒の頬が真っ赤になった。

 隣にいた友人が小声で「良かったね」と囁くと、二人は何度も頭を下げながら自分たちの席へ戻っていく。

 その後ろ姿を見送り、リリアは隣のセシルをまじまじと眺めた。

「モテるね」

「……うるさい」

「王子様」

「やめろ」

「白銀の王子」

「誰から聞いた、それ」

「昨日、廊下で女の子たちが言ってた」

「忘れろ」

 セシルが眉間に皺を寄せる。その反応が面白くて、リリアはほんの少し口元を緩めた。

 ノアまで楽しそうに会話へ加わる。

「でも、似合ってるよね。《白銀の王子》」

「ノア」

「何?」

「黙れ」

「怖いなあ」

 リリアの視線は、セシルが受け取った包みに戻った。

「それ、何が入ってるの?」

「知らない。たぶん菓子じゃないか?」

「いいな」

「……食べたい?」

「ちょっと」

「じゃあ半分やるよ」

「いいの?」

「一人じゃ食べきれないからな」

 差し出された包みをリリアが嬉しそうに受け取る。その様子を眺めていたノアが、少し不満そうに頬杖をついた。

「僕には?」

「ない」

「即答?」

「お前、昨日も女子から菓子もらってただろ」

「それとこれは別だよ。というか、二人だけ仲良くない?」

 リリアは包みを開ける手を止めて、ノアを見る。

「ノアも友達でしょ」

「……」

 それまで軽口ばかり叩いていたノアが、不意に黙った。

「違うの?」

「ううん」

 やがて彼は、いつものように目を細めて笑った。

「友達かあ、と思って」

「だから、違うの?」

「違わないよ。今は、それでいい」

 まただ。

 時々、ノアはこういう不思議な言い方をする。

 どういう意味、と聞こうとしたところで教師が入ってきたため、三人はそれぞれ前を向いた。

     *

「では、この術式に存在する欠陥を説明できる者」

 教師が黒板へ描いたのは、基礎授業にしてはかなり複雑な魔法陣だった。

 教室中が静まり返る。

 リリアは頬杖をついたまま魔法陣を眺め、数秒後、小さく呟いた。

「……三つ」

 隣のセシルが聞き逃さなかった。

「何が?」

「欠陥」

「分かるのか?」

「うん」

 リリアは手を上げた。

「アステル。前へ」

 教師に呼ばれ、黒板の前へ出る。

 入学してからというもの、こうして注目を浴びる機会がやけに多い。もっとも、本人は周囲から向けられる視線の半分ほどが成績以外の理由によるものだとは、まだ気づいていなかった。

「まず、ここです」

 教師から受け取ったチョークで術式の一部を囲む。

「この組み方だと魔力変換の効率が悪いです。たぶん二十二パーセントくらい無駄になります。それから、こことここが干渉しているので、このまま発動すると三回に一回くらい暴発すると思います」

 教室が小さくざわついた。

 教師は腕を組む。

「最後の一つは?」

「これです」

 リリアは魔法陣の中央を丸ごと囲んだ。

「そもそも、この術式いりません」

「……何?」

「なくても発動します」

 今度は教師まで黙った。

 リリアは気にせず、黒板の魔法陣を書き換えていく。余分な術式を消し、二つの回路を直接接続し、最後に魔力の流れを示す線を一本加える。

「こうすれば、同じ魔法を半分くらいの魔力で使えます」

 教室が完全に静まり返った。

 リリアはようやく不安になり、教師を見る。

「……違いました?」

「いや。合っている」

 次の瞬間、教室中から声が上がった。

「本当に?」

「三日目だぞ……?」

「首席ってあんな感じなの?」

 席へ戻ると、セシルが妙なものを見るような顔をしていた。

「何?」

「いや……お前、本当に天才なんだなと思って」

「今さら?」

「普段が普段だから忘れてた」

「失礼」

「褒めてる」

 前の席からノアも振り返る。

「僕も時々忘れそうになるよ。昨日、中庭から教室に戻るだけで二十分かかってたし」

「それと魔法は別」

「うん。どうやら本当に別らしいね」

 笑われて、リリアは少しだけ頬を膨らませた。

 その表情を見ていたクラスメイトたちの間にも、いつの間にか小さな笑いが広がっていた。

 入学前まで、リリア・アステルという名前だけが一人歩きしていた。

 歴代最高得点を叩き出した天才。規格外の魔力量を持つ首席。銀髪と紫眼の、近寄りがたいほど美しい少女。

 けれど実際に話してみれば、意外と表情は豊かで、普通に冗談も言う。方向感覚は壊滅的で、セシルに引っ張られて毎朝教室へやってくる。

 入学してたった三日で、クラスメイトたちがリリアを見る目は少しずつ変わり始めていた。

     *

 昼休み。

 教室を出たところで、リリアは見知らぬ女子生徒に呼び止められた。

「あの、リリアさん」

「私?」

「これ……読んでください」

 差し出されたのは、淡い藤色の封筒だった。

 リリアが受け取ると、女子生徒は顔を真っ赤にして「それじゃあ!」と走り去ってしまう。

 残されたリリアは封筒を眺めた。

「……何だったんだろ」

「たぶん恋文だな」

 隣からセシルが覗き込む。

「恋文?」

「ラブレター」

「私に?」

「他に誰が受け取ったんだよ」

「でも、女の子だったけど」

 リリアが純粋に疑問を口にすると、セシルは一度だけ瞬きをした。

「女がお前を好きになったらおかしいのか?」

「……」

 考えたことがなかった。

 リリアはもう一度、手の中にある藤色の封筒を見る。

 男の人からであれば恋文で、女の子からなら違う。そんな決まりがあるわけでもない。

「別に、おかしくない」

「だろ?」

「ちゃんと読む」

「そうしろ」

 セシルが笑った。

 いつもの、少し男前な笑い方。

 けれどリリアには、その表情がいつもよりほんの少し柔らかく見えた。

「でも困ったな」

「何が?」

「告白されたことないから、どう返事したらいいか分からない」

 今度こそセシルの足が止まった。

「……は?」

「何?」

「お前、今まで告白されたことないの?」

「ないけど」

「嘘だろ」

「なんでそんな嘘つくの」

「いや、だって……」

 セシルの灰青色の瞳が、リリアの顔をじっと見る。

 陽射しを受ける銀色の髪。紫水晶のような瞳。白い肌と、まだ幼さを残しているのにひどく整った顔立ち。

 本人は何を見られているのか分からないらしく、不思議そうに首を傾げている。

「……周りの男、何してたんだ?」

「知らない」

「近寄りがたかったんじゃない?」

 いつの間にか後ろにいたノアが口を挟んだ。

「リリア、黙ってるとすごい高嶺の花っぽいから」

「黙ってると?」

「喋ると迷子になるからね」

「ノア」

「ごめんごめん」

 まったく反省していない笑顔だった。

     *

 三人で食堂へ向かっている途中、廊下の向こうから金色の髪が近づいてきた。

 胸元にあるのは、二年生を示す蒼の徽章。

「あ、レオンハルト先輩」

 リリアが呼ぶと、青年もすぐにこちらへ気づいた。

「リリア」

 柔らかな声とともに、レオンハルトが微笑む。

 たったそれだけのことなのに、周囲にいた女子生徒たちがざわついた。

 王国第二王子であり、学院でも絶大な人気を誇るレオンハルトが、一年生の少女を迷いなく名前で呼んだのだ。しかも相手は、入学早々話題の中心になっているリリア・アステル。

 注目されないはずがなかった。

「こんにちは、先輩」

「こんにちは。学院にはもう慣れた?」

「少しは」

「今日も迷いましたけどね」

 セシルがさらりと付け加える。

「セシル」

「事実だろ」

 レオンハルトが楽しそうに笑った。

「やっぱり?」

「やっぱりって何ですか」

「初日にも見たからね」

「……忘れてください」

「それは難しいかな」

 レオンハルトの青い瞳が優しく細められる。

「あの時の君、可愛かったから」

「…………」

 リリアが瞬いた。

 隣のセシルも黙る。

 ノアまで笑顔のまま動かなくなった。

 数秒遅れて、自分が口にした言葉の意味に気づいたらしい。レオンハルトの微笑みがわずかに崩れた。

「……失礼。変な意味ではなくて」

 言いながら、ほんの少しだけ視線を逸らす。

 リリアはその横顔を見上げた。

「レオンハルト先輩」

「何かな」

「耳、赤いですよ」

「……」

 今度はセシルが耐えきれず顔を背けた。

「セシル、笑ってる?」

「笑ってない」

「肩震えてるけど」

「気のせいだ」

「私の真似しないで」

 ノアまで口元を押さえている。

 どうして急にこんな空気になったのか、リリアにはよく分からなかった。

     *

 その光景を、二階の渡り廊下からカイルが見ていた。

 昼休みの中庭には多くの生徒が行き交っている。それでも、銀色の髪は遠くからでもすぐに見つけられた。

 リリアが笑っている。

 セシルと話し、ノアに何かを言い返し、レオンハルトを困らせている。

 楽しそうだった。

 その事実に安堵している自分がいる一方で、胸の奥には説明しがたい痛みが残った。

「クロフォード先輩?」

 背後から後輩に呼ばれ、カイルはようやく視線を外した。

「何だ」

「こんなところで何見てるんですか?」

「何も」

「……そうですか?」

「授業に行け」

「はいはい」

 後輩が去っていく。

 もう一度だけ中庭へ目を向けた時、偶然リリアもこちらを見上げた。

 二人の視線が重なる。

 リリアは少し驚いた顔をしたあと、先輩に対するごく普通の挨拶として、小さく頭を下げた。

 カイルも頷き返す。

 それだけでリリアは再び友人たちとの会話へ戻っていった。

 ただの先輩。

 今の彼女にとって、自分はそれだけの存在なのだ。

 カイルはしばらくその場から動けなかった。

     *

 放課後になると、セシルが机いっぱいに部活動案内を広げた。

「明日から体験入部期間だってさ」

「セシルは剣術部?」

「たぶんな。騎士科の訓練にも参加するつもりだけど」

「似合う」

「お前は?」

「帰宅部」

「即答するな」

「自分で研究したい」

「魔法研究会もあるぞ」

「決められた時間に集まるの面倒」

「お前、天才なのに向上心の方向がおかしくないか?」

「好きなことだけやりたい」

「それを天才が言うと腹立つな……」

 近くの机に腰掛けていたノアが口を挟む。

「じゃあ僕は、リリアが入るところにしようかな」

「自分で決めなよ」

「冷たい」

「じゃあセシルと同じ剣術部」

「僕、剣苦手なんだけど」

「じゃあ無理」

「会話が終わった」

 その時、教室の扉から女子生徒が顔を出した。

「アルヴェインさん! 剣術部の先輩が呼んでるよ!」

「分かった」

 セシルが立ち上がり、机の上の紙をまとめる。

「リリア、ここにいろよ」

「なんで?」

「戻ってきた時、お前を探すのが面倒だから」

「子供扱いしてない?」

「迷子扱い」

「同じじゃない?」

「全然違う」

 セシルはそう言って笑うと、「すぐ戻る」と片手を上げて教室を出ていった。

 リリアはその背中が見えなくなるまで眺めていた。

「……セシルって格好いいね」

 何気なく口にすると、ノアから返事がない。

 不思議に思って横を見ると、彼は何とも言えない顔でこちらを見ていた。

「何?」

「いや。強敵だなと思って」

「剣術の話?」

「……そういうことにしておこうかな」

 リリアは首を傾げた。

 ノアは時々、本当によく分からない。

 窓の向こうでは、傾き始めた夕陽が白亜の校舎を淡い橙色に染めていた。

 入学して、まだ三日。

 友達ができて、授業が始まった。いつの間にか学院中で名前を知られ、今日に至っては人生で初めて恋文まで受け取った。

 変な先輩たちとも知り合った。

 その中には、時々、初めて会った人間を見るとは思えない目でリリアを見つめる者がいる。

 理由は分からない。

 けれど今は、それを深く考えるよりも。

 明日の教室へ、迷わず辿り着く方法を覚える方が重要だった。

 たぶん。
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