愛を失う数時間前【通常版】
06 『運命』
風香は来た道を戻りながら、マフラーを首に巻いた。
ひとりになった途端、冷たい風と現実が風香を打った。木枯らしが連れてきたイチョウの葉が、重い足先に絡まった。
――未知留との出会いは、選択授業の音楽室だった。
予鈴と共に入室した風香は座る場所がなく困っていた。その時、未知留が席を空けてくれたのだ。
ありがとう、とお礼を言うと「どういたしまして」と綺麗な言葉が返ってきた。
言葉遣いだけでなく、所作や表情にも育ちの良さが表れていて驚いた。……こんなにきれいな男の子がいるんだ、と。
友達が風香の反応を勘違いし、未知留の情報を集めてくれた。
「うんとね、雨宮くんって大きな白い洋館に住んでるらしいよ。お父さんはイタリア? フランス? そっちの方に仕事で行ってて、お母さんは病気かなにかでふたりとも家にはいないんだって」
「じゃあ、ひとりで暮らしてるの?」
「妹か弟がいるって。雨宮くんが面倒見てるんだって」
――思えば、何不自由なく幸福な人生が割り当てられている、そんなイメージだった未知留が『自分側』だったことに、確かにあの時、親近感がわいたのだ。
それからというもの、未知留はなぜか風香の視界に現れるようになった。
「ねえねえ、風ちゃん。雨宮くんに会うのって偶然じゃないよね」
友人たちも気付いて、無遠慮に風香を冷やかすようになった。
「絶対、風ちゃんに会いに来てるよね」
「ま、まさか」
風香は否定した。
そんなことあるはずがない、――と思う反面、それ以外に考えられないくらい、未知留と顔を合わせる頻度は多かった。
何度目かの偶然が重なった頃、
放課後の帰宅路で未知留は突然、深刻な空気を作った。
――「森尾さんに初めて会った時……」
静かに語りかけてきた。
「あ、音楽室?」
「そう」
春風がそわそわと、風香に纏わりついていた。
「“この子は僕と同じだ”って分かったんだ」
「え」
「うまく説明できないけど……でも分かったんだ。僕や妹と同じに、傷つけられてきた子だって。親に愛されて能天気に生きてる人たちとは全然違う空気感が、森尾さんにはあった」
「……」
「たぶん、森尾さんも、――そうなんだよね?」
「……」
未知留が家庭の事情を打ち明けてくれた時から、風香は自分のそれをどこまで話すべきか迷っていた。
親から愛されていないことは、風香にとって、自分は価値の低い人間だと公言するような、恥ずかしいことだった。
『親が離婚して、今はどっちも再婚してて、私は父と継母とその連れ子ふたりと暮らしてたの。ちょっとだけ馴染めなくて、それで寮がある高校に入ったの』
そんな風に、表面的な事情を話して終わらせた方が、自尊心は傷つかずに済む。
そう思っていた。だが――
「そうだよ」
風香はぐんと顔を上げ、向き直って言った。
「雨宮くんが察した通りだよ。私も親に愛されてない」
風香の想像を遥かに超える悲惨な家族の状況を、未知留は隠すことなく話してくれた。
正直で誠実な未知留に見栄を張って、誤魔化す必要なんてないと、思ったのだ。
そうして風香は、自分が置かれた状況のすべてを未知留に話した。