愛を失う数時間前【通常版】
*
「未知留、私と友達になってくれてありがとうね」
ある日の昼休み、いつものように屋上で食事をしながら未知留に言った。
音楽室の出会いから、互いの家庭の事情を打ち明け合い、自然と下の名前で呼び合うようになるまで一ヶ月もかかっていなかった。
「突然どうした……」
脈略なく言い出したせいか未知留が戸惑っている。
「お昼も毎日一緒に食べてくれてありがとう」
「それは僕のセリフだけど。でも、さっきのは訂正してほしい」
「ん? さっきの?」
風香は首を捻った。
飲み終えたお茶の紙パックが風に飛ばされて未知留の足元へ転がった。フェンスを背にふたりとも足を投げ出して座っている。未知留はゴミ袋にそれを入れながら言った。
「僕らの関係を“友達”って言ったこと」
え?
随分仲良くなったと思っていたのに自分たちは友達じゃなかったのか――
焦っていると、未知留はハア、と大袈裟に息を吐いた。
「だから! 友達じゃなくて、“カレシ”」
未知留の両手に両肩を掴まれ、向き合う格好になった。
「僕は風香のカレシじゃない?」
ぽかん、とした。……カレシ? 未知留が? 私の?
「じゃなきゃおかしいよね、毎日一緒にいるのに」
「ちょっと待って、未知留は私が好き、なの?」
そんなわけないよね、と思いながら風香は疑いの目を向ける。
……だって、未知留だよ。未知留に告白されたら落ちない子なんていないんじゃない? なのに私?
「ははっ」
未知留が笑い出した。
「風香に拒否られたと思ったけどその慌てぶり……。僕は自惚れてもいいってことだよね?」
「う」
風香は縋るような目を向けた。
「未知留、どうして私なの……、未知留の周りには可愛い子がいっぱいいるじゃん」
告白されて嬉しいと舞い上がる気持ちより、分不相応すぎて怖いと思った。
「僕は、風香との出会いは運命だと思ってるよ」
「運命?」
「今までいろんな子に告白されたけど、みんな、小さなことで傷ついただの、苦しいだの、ばかみたいだよ」
「……」
……まあ、正直、羨ましいけどね。
風香は心の中だけで言った。
本音を言えば、両親の愛情を一身に受けて我儘を言い、好き勝手に振る舞ってみたかった。そういう形で成長していたら自分はどんな人間になっていただろうと、時々考えることがあった。
「僕のこと、風香は理解してくれてるよね」
「うん。理解してる――と、思ってるよ」
「僕も風香を理解してる。僕たちは同じ価値観を持ってるからね」
「そ、そっか」
正直に言えば……、未知留との価値観が同じかどうか自信は持てなかった。
だが未知留が伝えてくれた『運命』という言葉の特別感に、心が震えた。
未知留と付き合い始め、煩わしいことも多々起きた。
女子に囲まれて『これが雨宮くんの彼女って冗談でしょう?』と値踏みされたり、通りすがりにわざと押されたり、足を踏まれたり。――だが、なんてことはなかった。
「風香はたくましいな。そういうところが付いていきたくなるよ」
「それは褒められてるのかな?」
未知留とは相変わらず“友達”のようなノリだった。
甘い言葉を囁き合うことも、肉体的な関係を求め合うこともなく、ただふたりで時を共有した。
キスは一度だけした。
継母に子供が生まれ『家族団らん』の光景を遠目に見た時、自分だけがその家族の中に“いてもいなくてもいい存在”だと自覚した。風香は泣いた。涙なんていつぶりだろうか――と過去をなぞっていた時、未知留の唇が頬に落ちた。涙を拭うようなそれに、私は目を閉じて自分から唇を合わせた。
高校生活も半分を過ぎると、未知留は大学受験に向けて忙しくなった。放課後の特別授業、一度帰宅して妹の世話、塾。
その様子を見ながら、風香も進路について考えた。
けれど親には子供が生まれたばかりで、義妹たちも大学進学を希望している。父親は進路について風香に何も聞いてこない。……無言の圧力を感じ、風香は進学をあきらめた。いや、親に頼むぐらいなら進学しなくてもいいと、本気で思った。
ただ一人暮らしの資金はない。高校同様、社員寮がある会社へ行くしかなかった。
「私にも将来の夢や目標みたいなものがあったらよかったな」
難しい大学を目指す未知留の横で、つい本音が出た。未知留が不思議そうな顔をした。
「風香にはないの?」
「自立が優先かな」
「……」
黙ってしまった未知留に慌てて笑いかけると、未知留が思ってもみなかったことを口にした。
「じゃあ、一緒にカフェやる?」
「え? カフェ? 未知留が?」
驚いて聞き返した。
「あの家は広すぎるから、改装して小さなカフェを開きたいと思って。そうすれば花音が働けるかもしれないし」
「あ、のんちゃんのため……」
風香は未知留の決意に納得した。
妹の虐待を防げなかったことに未だ苦しんでいる未知留を、傍で見てきたからだった。
「僕が就職したら、風香は飲食店でバイトするのはどう?」
「!」
あまりにさらりと提案され、風香は黙った。それって、どういう……。
「……ええと、調理師の資格を取るってこと?」
風香は未知留との会話を繋ぐ。言葉の真意について尋ねたいが勇気がなかった。
「ところがさ、カフェを開くのに資格は必要ないんだって。びっくりだよね」
「そうなんだ、急にハードル低くなったね」
あえて無邪気に反応してみせた。
「大学受かったらカフェ巡りしよう。つきあってくれる?」
「もちろん」
もどかしいまま会話を続けた。だがもう限界だった。
「なんかそれって私と結婚するって意味に聞こえるけど」
たまらずにぶつけた。
未知留がぽかんという顔をした。
「ん? さっきからその流れで話してるでしょ」
風香は地団太を踏んだ。
「だって! 私、プロポーズされてないもの!」
「ははは」
未知留が声を立てて笑った。ごめんごめん、と頭を撫でられる。
「僕と風香が結婚しないとかありえないじゃない」
「!」
その言葉を聞いた瞬間、風香の世界に花が咲いた。
風香は言葉にならず、コクコクと頷く。
「じゃあ決まり」
『帰りに本屋に寄っていこう』と提案された時と同じトーンで、未知留は簡単に言った。
風香は焦って会話を戻す。
「本当に私でいいの? 一生を決める大事な問題だけど……」
あっさり決まってしまうと逆に不安になった。
「風香の性格は十分知ったし、僕たち似た者同士だよね」
「確かに」
「それにさ」
未知留はこの価値観こそが正義だと言わんばかりに言い切った。
「家族に恵まれなかった風香とだったら、うまくやっていけると思うんだ」
「……そっか」
その頃にはもう、未知留が自分を選ぶ『理由』に立ち止まらなくなっていた。それどころか、互いが側に居る『理由』に特別な絆を感じるようになっていた。
そうして約束のとおり、未知留は就職が決まると婚姻届をもらってきた。