愛を失う数時間前【通常版】
07 愛憎と執着が巣食う家
優斗と別れてから、すぐには家に帰る気になれず駅前をうろついた。
けれど街のそこかしこに未知留との日々が映り込み、不快感と悲しみを味わうことになった。
未知留とは七年以上の月日を共に過ごした。影響がないはずがない。
たまらない気持ちになり――風香はうつむいて帰宅した。
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――「そうだ、言い忘れてたけど」
ダイニングテーブルの椅子を引きながら未知留が言った。
「来週の火曜日、出張になったんだ」
「そうなんだ」
風香はテーブルに朝食をセットしながら相槌を打った。
未知留は大手時計メーカーに就職した。ゆくゆくは得意の語学力を生かして海外と取引をする部署へ行きたいと言っていた。
「どこまで行くの?」
「言っても、風香には分からないところだよ」
「……」
そういえば、未知留は自分の行動を探られることを嫌う。
質問を重ねると機嫌が悪くなるため、普段から未知留の表情を読んで引くようにしていた――と、改めて気づいた。
……突っ込んでみようか、
風香は生唾を飲み込んで、何気ない風を装って聞いた。
「都道府県で言ったらどこ?」
「……」
未知留の表情が動かなくなった。
風香はさらに続けてみた。
「私も最近、いろんなところに行ってみたくて」
望まれていない空気の中、会話を広げる。
「車もいいけど新幹線と電車を乗り継いで、とかも楽しそう!」
未知留がぴしゃりと言った。
「風香、しつこいの嫌なんだけど」
「あ、ごめん。そうだね、気をつけるね」
風香は小さく笑って、引いた。
……本当に、出張?
未知留のなにもかもが疑わしく思えた。
……でも、今まで一度も未知留を疑ったことがなかった?
自分に問いかけ――風香は首を左右に振った。
つき合っている時も結婚してからも、別行動の未知留がなにをしているか一切知らない。
『信じているから』『未知留に限って……』と言い聞かせていただけだ。
「その日は花音のこと、よろしくね」
「うん、わかった」
未知留は結局、風香の質問には答えなかった。
――数日後の夜、
風香の排卵日に合わせて未知留が求めてきた。
いつものように風香のルームウェアの上を胸まで捲し上げ何度か揉んで、レギンスと一緒に下着を下ろした。未知留はすでにパジャマの下だけ脱いでいる。すぐに挿れてきた。
……気持ち悪い
それしか感じなかった。
未知留の動きに揺れながら風香はぎゅうっと目を閉じ、行為以外の『なにか』に集中した。たとえば明日食べたいごはんのこと、天気のこと、粗大ごみの申し込みのこと、ファミレスの客のこと。
「風香、あんまり濡れないね。今日は排卵日じゃないのかなあ」
「……どうだろ」
目を閉じたまま答えた。
「最近疲れが抜けないから」
お互い、性に関しては淡泊だった。――違う。未知留が言い出したのだ。性欲に流されるような生き方はしたくない。“ふしだらな親”を持った弊害に違いないと。
思えば予防線だったのだろう。セックスの目的は子作りだと風香に割り切らせるための。
――子供はふたり欲しいな
恋人同士だった頃、未知留は時々将来について語った。
――若い夫婦が子どもをふたり連れて歩いてるとさ……それだけで、“幸せ”って感じがしない?
結婚後も未知留の理想は揺るがなかった。
「結婚して一年以内にまずひとりめが欲しい。ふたりめも間を空けないでなるべく早く」
自分たちが味わったことのない家族の形が未知留の、そして風香の憧れだったことは否めない。
「男の子ふたりか女の子ふたりにしよう」
未知留は「希望は」とは言わなかった。
「同性同士の方が話も合うし、助け合えるし」
付け加えられた理由に、風香は義理の姉妹を脳裏に浮かべ納得した。
彼女たちも、ふたりだけの絆を持っているように見えた。
「子供が出来たら、花音に育児を手伝ってもらおう。それをきっかけにして母性愛に目覚めて外にも出られるようになるかもしれないし。ほら、“公園デビュー”とか?」
「それじゃあ、のんちゃんがママになっちゃうじゃない」
「だって風香は外でバリバリ働くだろ? 家にいる妹にも役割を与えてあげないと」
「……」
思えば、未知留の行動のすべては、花音が理由だった。
口には出さなかったが、風香はそのことが不満だった。
妻となる自分は花音と対等に家族のはず。それなのに未知留は、結婚後も相変わらず花音を優先していた。違和感を覚えるほどに。
……なんだ、私ちゃんとキャッチしてたじゃん……。
そのことに感心を通り越して呆れ、未知留との行為の最中だというのに風香は笑い出した。
「風香……?」
無機質な眼差しで風香を見下ろしていた未知留が、未知の生物に会ったかのように風香を見た。
確かに、普通ではありえない。腰を振っている夫の下で笑い出すのだから。
「ごめん、気持ちよくてつい」
「そうだったの……? まだまだ僕が知らない風香がいるんだね」
未知留は再び腰を動かした。
風香はまた笑いださないよう、または未知留に軽蔑の眼差しを向けないよう、腕を曲げて自分の顔を隠して仰け反った。
そういえば未知留はあまりキスをしない。
初めてのキスの後、ドキドキしながら二度目のそれを待っていたからよく覚えている。
結局だいぶ経ってから、小鳥のようなキスを受けた。結婚した今も同じだ。数少ないキスのすべてはしっかりと結んだ唇同士で重ねてきた。
……こんなもの、よね?
未知留の行為が、ドラマや漫画や友人たちが語る体験談のそれと比べ、少し物足りないと感じたことがないと言えば嘘になる。――トラウマがあるのだから仕方がない、そう思い込むようにしてきた。
けれど今は違う。
未知留が行為の時にどんな声を出すのかどんな言葉を使うのか、知っている。
果てた未知留が風香の横に体を投げ出した。