愛を失う数時間前【通常版】
「今度はできてるといいな」
風香の腹の上に手を置く。
「そうだね」
風香も答えた。これまでと同じに。
すでに病院でアフターピルを処方してもらってある。離婚する男との子作りなど絶対に御免だ。
「明日も明後日も、がんばろう」
「了解」
断る理由を探しながら答えた。
未知留がシャワーを浴びに行き、風香はようやく自分の肌に爪を立てた。
未知留と触れ合った箇所が気持ち悪くてたまらなかった。
起き上がりすぐにピルを飲み込んだ。
先月まで未知留の残り香を体に纏って眠ることを幸せだと思っていたのに、今は一秒でも早くすべて洗い流し、“なかったこと”にしたかった。
風香は部屋から出た。
浴室は未知留が使っている。併設の洗面所は使えない。かといって食べ物を扱うキッチンで穢れを洗い流すことにはためらいがあった。
……仕方ない、
風香は引き出しからタオルを引き抜き、廊下の端にある手洗い場へ向かった。
ギィ、――ギシ、ギシ、
「!」
冷たい水で体を拭き部屋へ戻ろうと踵を返したとき、階段が軋む音が聞こえた。
風香は咄嗟に動きを止めた。
この家には三人しかない。未知留は浴室にいる。
足音は花音以外にあり得ない。
風香は身を隠した。
寒い廊下を、花音がキャミソールドレス姿で歩いてくる。
風香は口元を押さえた。
血液がドクドクと異様に騒いだ。
……まさか、浴室へ?
おぞましさに総毛立つ。
……いったい、なにを始めるつもりなの……?
確かめたくない――いやだ――、だが、確かめなければならない。
気配を殺し、滑るように足を進ませながら花音の後に続いた。
洗面所の前で花音が止まった。
風香も壁伝いで動きを止めた。
花音が洗面所のドアを開けた。
「お兄ちゃん」と未知留を呼んでいる。未知留が気づいたのか、シャワーの音が止んだ。
ドアの開閉音と共に、花音の声が聞こえた。
「のんが汚いもの洗い流してあげる」
風香は震えながら進み、洗面所のドアに両手で掴まった。
閉まった浴室のドアにふたりのシルエットが揺れた。
「……っう、だめだよ、花音、あとで……、あとでたっぷり、しよう、だから、あとで、――――っつ」
未知留の前に花音が跪いている。
卑猥な音と荒い息遣いを消すように、急にシャワーの音が加わった。
ひっ、
風香は止めていた息を短く吐いた。
これ以上は聞くに堪えなかった。シャワーの音に助けられたのは自分の方だった。
風香は後退りした。
……こんなに堂々と、私がいる部屋の近くで……
……狂っている、この兄妹は、狂っている
月明りだけの部屋に戻り、風香は怒りに震えながら目を閉じた。
未知留が戻ってきて同じベッドを使うことにたまらない嫌悪感と憎悪が沸いた。
もしも触れられたら、自分はその手を振り払ってしまうだろう。そうなったらふたりの関係を知っているということを隠し通せる自信がなかった。
風香は必死に気を逸らした。
他愛ないことを必死に考えようとした。なのにふたりのシルエットがあっけなく風香を飲み込んでいく。だらしなく喘いでいる未知留は、のん、のん、とみっともなく妹の名を呼び続けている。
“のん、愛してる――”
あの日に聞いた、あの声で。
背後でパタン、と小さくドアが閉まった。
そろりそろりと未知留がベッドに入ってきた。ボディソープの香りが漂ってくる。妹とヤッた痕跡はシャワーがきれいに洗い流しただろう。
「――風香、もう寝た?」
耳のすぐそばで未知留が小声で確認してきた。
「……」
背後から抱きしめられたらと思うだけで鳥肌が立ち、風香は体に力を入れた。
直後、ふぅ、と安堵交じりの吐息が聞こえ、未知留が仰向けになった。
「……」
ほどなく未知留は寝返りを打ち、風香に背を向けた。互いの体に掛けているひとつの布団が引っ張られた。背中に冷気が入ってくる。未知留の寝息が聞こえてきた。
「……」
風香は壁の一点を、瞬きも忘れてただ強くみつめた。
……“その手”で私に触れないだけマシだった。
いや、違う。触れないことが問題だった。
……未知留は私を愛していない。
未知留が愛しているのは、花音だった。
たった今、風香はその事実に気づいた。