愛を失う数時間前【通常版】
08 もう夢は見ない
空がしらじらと夜を連れていった。
風香は結局、一晩中眠らずに過ごした。
惨めさと悔しさ、憎悪、あらゆる感情は夜の中に置き去りにされた。
隣でぐっすり眠っている未知留に心で言う。
……私からあなたに触れることは、もう二度とないよ。
風香は目覚ましが鳴る前に、ベッドから出た。
冷えた家の中を暖かくし、淡々と朝食の準備をする。
いつもの時間に起きてきた未知留が、「今日は早起きだね」と驚き、思い当たった顔つきになった。
「あ、わかった。昨日のですっきりしたんじゃない?」
共犯者のような、含んだ目を向けられた。
「そうかもね」
風香は返す。
……そうかもね、おかげで迷いがなくなってすっきりしたよ。
「今日はのんが好きなスクランブルエッグだね」
「……」
皿の上の卵料理に未知留が言った。
その声にはなんの罪悪感も滲んでいない。
「未知留の好きなナッツも、砕いてサラダにかけてあるけど?」
風香は笑顔で言った。
「ほんとだ。ありがとう」
未知留が幸せそうに目を細める。
「顔洗ってくる」
洗面所へと背を向けた未知留を見送って、風香は笑みを止めた。
――風香には理解できないことがあった。
未知留が妹を愛しているなら、なぜ自分と離婚しないのだろう。
こちらから言い出すのを待っている?
それならば離婚したい態度を取ればいい……。『愛が醒めた』と気づかせればいい。
だが未知留の言葉も態度も、出会った頃と変わらない。
そもそも離婚を望んでいたら子作りなんてするだろうか。毎月排卵日の前後だけを狙っているのだから、本気で子供が欲しいはずだ。
――「いってらっしゃい。気をつけてね」
風香はいつものように、玄関先で未知留を見送った。
「いってきます」
未知留は人気のファッションブランドのスーツを着こなして、閉じた唇できれいに笑った。
ドアが閉まり、風香は表情を戻した。
踵を返し、いつものルーティンである家事を始める。
食器を洗い、掃除をし、ブザーが鳴った洗濯機の蓋を開ける。
洗濯物をひとつずつ、パンッ、パンッ、と派手な音を立ててシワを伸ばし黙々と干していく。ふいに手が止まった。花音の下着だった。
「……」
今までは深く考えずに洗い、干し、畳んで部屋の前に置いた。
なにもしない花音の世話は誰かがやらなければならない。風香が嫁いで来る前はすべて未知留がやっていたと聞いていたし、結婚したなら自分がそれを引き継ぐのは当然だと思っていた。
「は……」
自分はなんておめでたいのだろう。
……。
花音と未知留の洗濯物も無心で干した。
けれど花音の“二枚目”の下着を手に取った瞬間、殺意に似た憎しみが頭を痺れさせた。
花音の下着をおもいっきり床に叩きつけた。スリッパの足で踏みつけ、擦りつけ――、上がった息と共に興奮を沈めた。
ふう――、と口で大袈裟に息を吐き、上がっていた肩から力を抜いた。
再び作業を続けた。勢いよくシワを伸ばし、手際よく干していく。
思えば、花音と未知留の関係には初めから違和感があった。
花音を紹介されたのは、未知留と付き合って一年ほど経った頃だった。
部屋のドアを開けると花音はベッドの中にいて、布団から目だけを出して風香を見た。
だが、風香が引っ越してきた日の対面は違った。
花音は体のラインがはっきり出るロングのワンピースを着て、自らドアを開けた。
腰までの長い髪、透けるような白い肌、場違いなまでの真紅の唇。――未知留によく似た美しい容姿だった。
「のんちゃん、今日から『雨宮風香』になりました。この家でお世話になります。よろしくね」
風香は親しみを込めて笑いかけた。
「これからは私のことも本当のお姉ちゃんだと思って、甘えてくれたら嬉しいです」
花音の真紅い唇は一瞬も開かなかった。
「妹のことは、風香は気にしなくていいよ」
部屋から離れると、未知留が言った。
「え?」
予想もしない言葉だった。
風香は小さく主張した。「家族になったんだから仲良くしたい」とか「将来三人でカフェをやるのに……」とか。
だが未知留から返ってきた言葉は素っ気なかった。
「でも、のんが望んでないから」
「……」
妹と妻の橋渡しをしようとしない未知留に、あの時じれったい気持ちを味わった。――けれど二人の関係を知った今なら、『仲良く』なれなくて当然だった。
……そういえばなぜ花音は昨夜、私と未知留がしたことを知ったのだろう。
疑問が浮かんだ。
未知留がメールでもした?
わざわざ……?
だけどスマホは浴室に持っていかなかった。
だったら、なぜ……
「……」
過敏な神経が、いつか見たテレビのドキュメンタリー番組の映像を引き寄せた。業者が探査機器を手に周波数が変化した家に突然訪問する、あれ。
!
風香は洗濯物から手を放し急いで寝室へと向かった。