愛を失う数時間前【通常版】
まさか、と半信半疑ながら、ありえるかもしれない、という確信も捨てきれなかった。
風香は十帖の洋室を用心深く観察した。あやしいものは付けられていないか、見慣れないものが存在していないか。
――この部屋を夫婦の寝室にしようと決めたのは風香だ。
リビングやキッチンからも近く便利――、というのは表向きの理由だった。本当は元があまり使われていない来客用の部屋だったと聞いたからだ。
雨宮家にはたくさんの空き部屋がある。
未知留からは、好きに使ってくれて構わないよ、と言われていた。だが歴史を感じるせいか、どの部屋も薄暗く、広くても閉塞感があった。その点、自分たちの部屋にと選んだこの洋室には『念』――のようなものが薄い気がしたのだ。
落ち着いた色のカーテンを付けた。
レトロな木目柄の床を隠すようにカーペットを敷き詰めダブルベッドを置いた。
家具類は未知留の好きなシャビ―調で揃えた。
スタンドライトとテレビをコンセントに繋いだのは風香だ。――だから“これ”は風香が買ってきたものではない。
風香はテレビラックの後ろ側、壁の前に屈んだ。
2つ穴コンセントに見覚えのない、どこにも繋がっていない電源タップが付けられていた。
……やっぱり、あった……
風香は両手で顔を覆った。
覚悟はしていたが、力が抜けた。
――夫婦の寝室が盗聴されていた。
風香は無意識に両肩をきつく抱えた。
……付けたのは、どっちなの?
いや、どっちだって同じだ。
浴室にタイミング良く現れた花音に、未知留は驚かなかった。寝室の盗聴は共通認識のはずだ。
「はあ――――」
やりきれない息が口から漏れる。
だが、それと同時に“やり返したい”という悔しさも湧き上がる。
……未知留、私もふたりを見習うね
風香は暗い目で呟いた。
……盗聴される側も経験しないとね
今度こそ、本気で証拠をつかもうと、決意した。
未知留と花音の関係を知ってからというもの、風香は注意深く未知留の言動を探り続けた。
未知留が自分をどう思っているのか、なぜこんな風に裏切るのか、その断片を絶望の中で拾い集めていた。
けれど心の奥――、自分でも認識できないほど奥まった低層の意識下で、未知留にも事情があるのかもしれない、妹も妻の自分も、愛している――ということなのかもしれない――そんな風に、馬鹿みたいに希望を抱いていたようだ。
……はは、
あまりの虚しさに情けない笑い声が出た。
性懲りもなく自分は、『別れる』と決めたその裏側で『別れない事情』を見つけたかったのだ。
それが証拠に、昨夜“あんなこと”が起きるまで未知留の側に居続けた――。
「……」
だが今、夢も見れないほど、心は粉々に壊れた。
+
風香はやみくもに家の中を片付けた。
「急にどうしたの?」
あらゆる部屋の掃除を始めた風香に、未知留は不思議そうにしていた。
「未知留、来月は年末だよ」
「――あ、うん?」
「今年が終わるんだよ。大掃除しなきゃ年越せないでしょう!?」
あえて無邪気に、大袈裟に、言う。
「この家広いんだもん、今から少しずつやらなきゃ間に合わないって!」
風香は嘆いてみせた。
「今からやっても終わるかどうかだよ」
「……なんか悪いね」
未知留は恐縮していたが「まあそれも新妻の役目ってことで」と恩に着せ、口を挟めないよう先手を打った。
隅から隅――あらゆる物を手に取り確かめながら整理する中で、盗聴器が仕掛けられていた場所が判明した。
寝室とリビングだった。
念のため、それらの機器は夜間勤務の当日に捨てることにした。
そして風香も、用意した盗聴器を仕掛けた。
+
決行の夜がきた。
これまで同様、出掛ける前に未知留の淹れたコーヒーを飲んだ。
リビングのソファに座っている未知留は、風香が腰を上げるまで何度か時計を見た。きっとこれまでも、風香が仕事に行くのをじりじりと待っていたのだろう。
「……」
風香はわざとゆっくりとコーヒーを飲み、少しスマホをいじってダイニングに居座った。目の端で、未知留の苛立つ様子を感じながら素知らぬふりをした。
「あ」
しばらく経ってから、今気づいた――という態で時計を見て、風香は勢いよく腰を上げた。すると未知留も素早く立ち上がった。
「いってらっしゃい。気をつけて」
玄関先、笑顔で見送られた。
風香はくるりと振り返った。
未知留をまっすぐに見て「いってきます」ときれいに笑う。
ドアを開けると、身震いしそうな冷たい空気が待っていた。
足を踏み出す。
寒空の外へ。
――そしてすぐに柱の影に回った。
背後で、余韻も残さずチェーンを掛ける音が聞こえた。
何も知らずにいたら、未知留の見送りを“愛されている証拠”だなとと勘違いし続けていただろう。未知留はただ、チェーンを掛けるために玄関まで付いてきたに過ぎないというのに。
……未知留、私はもうあなたをあきらめたよ。
風香は身を返し、壁伝いに中庭へと進んだ。