愛を失う数時間前【通常版】
09 聞こえてはいけない声
中庭から家の中へ戻った。
荷物は邪魔になるだろうと、庭先の収納ボックスの脇に置いた。
風香は物音を立てないよう足音を忍ばせ、準備を済ませておいた小部屋へと向かった。
長い間使われていないだろう部屋の中は傷み、蜘蛛の巣や埃にまみれている。大掃除を理由にして、リビングに仕掛けた盗聴器の音が拾える――ギリギリの部屋を探し回った結果、この部屋しかなかったのだ。
風香は身を薄くして、あらかじめ少し開けておいた部屋の中へと滑るように入った。寒くても引き戸を閉めることはできない。建付けが悪く鈍い開閉音が立つからだ。
積みあがっている大量の桐箱が倒れてこないか背後を確認しながら、風香は床に腰を落とした。
底冷えが激しいため毛布を数枚重ねて敷いておいた。服の下に防寒着とカイロも貼ってきた。それでも歯が鳴るほどに寒かった。
手袋とマフラーをしたまま両耳にイヤホンを付けた。
録音できるボタン型の盗聴器は、ダイニングテーブルの上と果物を入れたバスケットの底に縫い付けた。万が一手に取ったとしても、よほどのことがない限り気づくことはないはずだ――と思っても、風香は安心できなかった。
もしも未知留に気づかれれば、未知留との関係は破綻する。ならばリアルタイムで聞いていた方がいい。
――――リビングはしん、としていた。
風香はじりじりしながら凍える寒さの中、身を縮めて待っていた。
元々、未知留はテレビを見ない。
ソファの前には大きなテレビが置かれているが、風香がいなければ消したままだ。スマホは眺めているがなにを見ているのか……。
――「未知留、なにかおもしろいものでもあった?」
いつだったか、スマホを見ている未知留の頬が上がっていた。なにが未知留の興味を引いたのか気になって聞いた。
けれど未知留は手元のスマホをさっと膝に落とした。下げた視線が冷えていた。
「……わ、私、覗いたり、しないよ? ただ、未知留が楽しそうにしてるから、なんだろうって、思っただけだよ?」
風香は焦りの中で釈明した。
未知留は機嫌を損ねると口を利かなくなる。その殺伐とした空気感は、風香には耐えられなかった。
……私って、常に未知留の機嫌を読んで暮らしてたんだ……、
普段の未知留が優しかったからだろうか。それとも、未知留との年月が風香から考える力を奪っていったのだろうか。自分のもののはずの人生――けれどその中心は、いつも未知留だった。
「……」
風香は息をつめて、耳に集中した。
音のないリビングで未知留が何をしているのか――分からないからこそ、不安だった。
……まさか、盗聴器に気づいたんじゃないよね?
緊張が極限に達する寸前、勢いのある足音が遠くから聞こえた。
『おにいちゃーん』
向かってくる声のボリュームが速い。花音は走ってきた――ようだ。
バタン、とリビング扉の開閉音がした。
風香は生唾を飲み込んだ。
『あの人がいなくてせいせいする!』
そして、マイクの性能に驚いた。
花音が未知留に抱きついているのか、ソファがしなる音まで聞こえてきた。
『そういうこと言わないの』
花音を窘める未知留の声に風香の胸の奥がほんの一瞬揺れた。
憎んではいても……未知留に庇われて、肩がぎゅっとなる。
『だって事実じゃない。私たちの家なのに大きな顔してさ』
……大きな顔なんかしてないけど。
風香は反発心の中で、花音に言った。
実際に風香は、この家を『自分の家』だなんて思えたことはなかった。便宜上、『家』と言っていただけで、本当は未だに馴染めていなかった。
……馴染めないまま、出ることになるとはね。
風香は自虐した。
……それにしても、
風香は花音の『声』を聴いていた。
……“普通”に喋れるじゃん。
浴室では少したどたどしく感じたそれは今、小鳥のさえずりのように賑やかで、早口だ。
『大掃除とかって、勝手にいろんなもの捨てたり、ひどいよ。お兄ちゃん、あの人のこと罰してよ!』
……“罰して”って、
風香は心の中で盛大に失笑した。世間知らずの人間がその言葉を使うと、こんなにも浮くのか。
『掃除してくれるんだからありがたいだろう。掃除の代行業者に頼んだら高いんだよ』
……。
未知留ののんびりした声は、兄のそれだ。
一瞬、なにもかもが悪い夢かもしれない――と思い込みたくなる。
そんなわけ、ないのに。
『うちにはたくさんお金あるでしょう』
花音は、生活費が泉のように沸いてくるとでも思っているのだろうか。
風香は心底呆れた。
『ねえ、いつ頃あの人追い出してくれるの? のん、もう限界だよ』
拗ねた声。
甘えた声。
……気持ち悪い。
風香は両手で腕を抱いた。こうでもしないと自分を守れなかった。
『もう少し待って』
!
未知留のその返しは、風香の荒む心を逆撫でした。
風香はぎりぎりと唇を噛んだ。
……“もう少し待って”? は?
……私を追い出すことは決定?
『やだ、やだ、やだ。あの人のせいで、のんは自由にこのお家で過ごせないんだよ』
『そうだよね』
『のん、もっともっとお兄ちゃんと一緒にいたい!』
『だから、のんのために彼女をファミレスでたくさん働かせてるだろ』
!
未知留の口から出た心無い言葉に、体温が一気に上がった。