愛を失う数時間前【通常版】
『のん、機嫌直して。かわいい顔が台無しだよ』
『お兄ちゃんはすぐそうやってごまかすんだから』
『ごまかしてなんかないだろ。のんがかわいいから、かわいいって言ってるんだよ』
『もう! お兄ちゃんなんか、知らない!』
……は、
まるで“恋人同士”のようにじゃれ合う兄妹の会話に、上がった体温が急激に下がっていく。
……もういい。
風香は虚空を睨みながら、暗い目をさらしたまま呟いた。
……“私だって、あんたなんかいらない”。
自分の心が吐き出した『呪い』に似た言葉がデジャヴを連れてきた。
――遠い昔、幼い風香が膝を抱えながら暗い壁に向かって放った言葉だった。
あの頃は母を、そして今は未知留を、心の底から憎いと思う。
『じゃあ、もっともっともっと、朝も昼も夜も働かせて』
『ははは、そんなことしたら死んじゃうよ』
『うふふふふ』
心に溜まった膿がドクドクと流れる赤黒い血液の中に混じっていく――
風香はあまりの惨めさに、顔を覆った。
兄妹の笑い声の中、浴室での兄妹の会話が風香を穢し、嘲笑っている。
――花音に“汚いもの”扱いされたこと、その言葉を未知留が窘めなかったこと。それらに抉り掘られるような深い傷を付けられたこと。
……なんで私が、あんなこと言われなきゃなんないの?
悔しくて、惨めで、視界が滲んでくる。
だが時間差で風香はぐんと顔を上げた。
コートの腕で、涙で滲んだ目元をごしごしと擦った。
……冗談じゃないわ、
……私を裏切った連中のために、なんで私が傷つかなきゃいけないのよ。
風香は胸の中に、憎しみの炎をめらめらと立ち昇らせた。
……もう大人しく離婚するつもりはないよ。
『んー、とにかく早く妊娠してもらわないとなあ』
!
風香の思考が一瞬、停止した。
兄妹の会話の中から理解できない言葉が聞こえてきた。
……妊娠させたいって、
……未知留だけじゃなく、ふたりの意思なの?
『最近疲れてるみたいだし、働かせすぎかな』
『そんなことないよ! お兄ちゃんのせいじゃない。あの人が無能なの!』
……は、
だが花音の言葉に反応する気力がない。
『お兄ちゃん、のんも調べたんだけど人工授精とかあるでしょう? それでいいんじゃない?』
『あー、それも選択肢のひとつだね。一年頑張ってできなければ考えないと』
『そんなに?! もう充分がんばったでしょう?』
『でもね、のん。病院で作るとなると僕も検査とか受けないといけないし、僕の時間が削られるのはちょっと、ね』
『……そっかあ、じゃあ、しょうがない、ね』
未知留の声のトーンが変わると、花音がすぐに引いた。
花音も、風香と同じに未知留の顔色を日々窺っている証拠だった。
『まあ、でも心配ないよ。風香は健康が取り柄だから、そのうちできるよ』
『う、うん……』
『のん、そんなに心配しないで。僕が愛してるのはのんだけだから』
『わかってる、けど……』
『のん、拗ねないの』
そこから数秒、無音になった。
がさがさ、と布が擦れる音が立つ。
未知留が花音を抱き寄せているのか――それとも花音が未知留にしがみついたのか――なんにしても、不快な間だった。
『いい子だね。分かってくれて嬉しいよ』
未知留が会話を戻した。
『僕たちの幸せな家族計画を実現させるためだからね』
!
風香はその言葉に違和感を持った。
未知留が続けた。
『彼女には子供を産んでから出て行ってもらわないと。じゃないと子供を僕とのんが仕方なく育てるっていうシナリオにならないから』
!
…………え?
風香の思考が一瞬フリーズする。
自分の耳や感覚がおかしくなってしまったのだろうか。
いったい、この人たちは何を言っているのだろうか。
頭がついていかない。
『本当はのんが、お兄ちゃんの赤ちゃん、作ってあげられたらよかったんだけど、のんには無理だから……』
『その代わり、産んでくれる女をみつけてきただろ。大丈夫、全部うまくいくから』
風香は両手で唇を覆った。
真実を聞いてしまったことを悔いるほどの衝撃に襲われた。
『のんのために、ありがとう』
『当然だろ』
互いの唇を貪り合うような息づかいが、這うように風香の耳に絡まった。
『のん、ベッド、いこ……、それともここでする?』
『う――――』
花音の声を最後まで聞かず、風香は耳からイヤホンを毟り取った。
音を拾うのを止めた途端、気味の悪い静寂が襲ってきた。
…………。
膝に顔を埋める。
そうしてほんの一時だけ、風香は現実から逃げた。