愛を失う数時間前【通常版】
10 失われた記憶の味
風香は普段通りに未知留を会社へと送り出し、盗聴器が付けられたままの夫婦の寝室へ戻った。
着替えて出かける準備をする。
今日は出勤前に、駅ビル内のイタリアンカフェで優斗と早めのランチをすることになっていた。
誘ったのは風香だ。
「……」
風香は壁のコンセントを一瞥した。
この忌々しい盗聴器を使ってできる『復讐』を思いついた。
その計画に優斗が必要だった。
コンビニへ行き、花音の昼食を買って家に戻り、部屋をノックした。
動かずにしばらく待った。
――カチャ、とドアノブを回す音がした。
風香はあえて近づいた。
「あっ」
花音は無防備な表情でドアを開け、目の前に風香がいることに驚いて小さく叫んだ。
「のんちゃん、おはよう」
「……」
黙ったままの花音の、この横っ面をおもいっきりひっぱたいたら壁に吹っ飛んで泣くだろうか。――そんなことを頭の中で実行し、続ける。
「出掛けなきゃいけないからお昼も一緒に持ってきたけど、これでもいいかな?」
言いながら、菓子パンふたつと野菜ジュースを顎で指す。
花音が反射的にトレイを見た。小さく頷く。
「……」
花音は黙ってトレイを両手で持った。そしてぎこちなく部屋の中へ入っていった。
その後ろ姿に軽蔑だけを浴びせ、風香は閉まったドアの音と共に踵を返した。
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街はクリスマスのディスプレイで賑やかだった。
駅ビルの中も、あちこちでクリスマスソングが流れている。
「フッカちゃん!」
エスカレーターを上がるとすぐ、待ち合わせの店の前で優斗に声を掛けられた。
「待たせちゃった?」
思わず時計を見たが約束の時間には少し早かった。
「待ってないよ」
優斗が慌てている。
風香は少し肩をすくめ、謝った。
「無理させちゃってごめんね」
「そんな風に思わないでよ。俺、嬉しいんだから」
「……」
風香はバツが悪くなる。
これから優斗に無茶苦茶な願い事を言うつもりだ。
なのに、こんな風にまっさらな笑顔を向けられると居た堪れなかった。
――優斗と再会した後で、思い出したことがある。
まだ学生だった頃に未知留としたある会話だ。
「未知留は子供の頃のことってわりと覚えてる?」
友人たちと『子供の頃に流行ったもの』の話になった日だった。
「今日ね、休み時間にそんな話になって。みんなで小さい頃の話で盛り上がったんだ」
「風香はどうなの?」
穏やかな笑みで未知留に聞き返された。
未知留は会話が面倒なときは逆質問をしてくる。
「私はほとんどなくて。だからしっかり覚えてるみんながすごいと思って」
実際に、子供の頃の記憶は風香の中から消えていた。
実母が絡んだ記憶などない方がいい――と思っていたから、あえて掘り下げなかった。
「私の一番古い記憶は、親が再婚して新しい母親と妹たちができた……ってあたりだから」
「――その前のことは思い出せないの?」
「あ、うん。そうだね。そういうことになるかな」
未知留が急に興味を示してきて、珍しいな、と嬉しかったことを覚えている。
「僕の友達にも、無駄に記憶力の良いヤツがいたよ」
「無駄に?」
「“初恋”とか覚えてて懐かしがっちゃうような」
――思えば、あの時未知留が口にした『友達』が、優斗のことだったのだろう。
その証拠に未知留は、まるで高みから見下ろすかのような視線を風香に向けた。わずか一瞬だ。
だけども風香は覚えている。
未知留の一挙手一投足を常に確認するほど、未知留が好きだったから。
未知留はこれまでも風香との会話に優斗を紛れ込ませてきたはずだ。そうやって、『覚えていない』風香と『覚え過ぎている』優斗に何を感じてきたのだろうか。――優斗の話を聞いた今は、容易に想像がつく。
「何食べる?」
案内された壁際の席で、優斗がメニュー表を風香に向けた。
「……オムライスにしようかな」
なんでもいい――と思い適当に決めて顔を上げると、優斗が目を潤ませていた。
「どうか、した?」
「……ごめん、懐かしくて」
優斗は目元を乱暴に拭った。
「子供の頃もフッカちゃんはオムライスが好きで、……変わってないんだなあって嬉しくて」
「……」
無意識に眉が寄った。
……私が、オムライスを好きだった、って?
風香には覚えがなかった。
「ゆっくんは、ほんとうに昔のことをよく覚えてるんだね」
そのつもりはなかったが、嫌味になった。
優斗は気にしていないのか、爽やかな笑みが返ってきた。
「あの頃の絵日記、時々読み返してたから」
「絵日記……」
それは風香の記憶を刺激する単語だった。
――テーブルに広げたノート……、目の前のジュース……、色鉛筆を握る小さな、手……?
思い出せそうで思い出せずもどかしかった。
「フッカちゃんも持ってない? 俺たちいつも一緒に描い――」
「ごめん」
反射的に謝って、ぐっと顔を上げた。
「持ってないよ。親が捨てたんじゃないかな」