愛を失う数時間前【通常版】

「まさか」
「どうして、まさかって思うの? 私の親はどっちもそういう親だよ」
 優斗と向き合っていると、寂しさ、息が詰まる苦しさ、だけど愛を求めたい欲求――様々な感情の蓋が開いてしまう。なぜだろう。

「ゆっくんは子供の頃、幸せだったんだね。いっぱい愛情かけてもらったんだろうね」
「愛情かあ」
 優斗はやや考えるように天井の方に視線を向けた。
「うーん、もらってたんだろうけど、愛情って目に見えないから疑っちゃうよね」
「……」
 優斗の含みのない言葉になぜか心が乱された。


 店員がランチ時のサービスとしてサラダとスープを運んできた。
 ……。
 その『間』に、風香は呼吸に集中した。
 店員がテーブルを離れてから、優斗に念を押すように伝えた。
  
「誤解しないでほしいんだ。親のことは今の私にはどうでもいいことなの」
 感情的になった後で言い訳を始める自分を、やや離れたところからもうひとりの自分が慄きながら見ていた。

「あ――う、うん」
 優斗が少し目を伏せた。
 風香は強迫観念と共に言葉を重ねた。
「もう子供じゃないし。お互い好きに生きていけばいいと思ってるから」
 これは本音だ。
 ちゃんと伝わったはずだ。
 だからもう『親』の話は持ち出さないでほしい――そう願ったのに、優斗が絞り出すような声で言った。

「フッカちゃんを傷つけて……ごめん」
「!」
 ……なんでまた話を戻すの、
 風香は下唇を噛んだ。

「フッカちゃんのお母さんを俺が奪ったようになったこと、ずっと後悔してる」
「っ」
 ……私、同情された?
 心の奥でぐつぐつ、ぼこぼこ、と何かが噴き上がり始める。

 店員がオムライスをふたつ運んできた。
 テーブルに置かれるのをじっと待ちながら、風香は奥歯を鳴らした。
 記憶にない“好きだった”食べ物――、それを自分に合わせて注文した優斗の行為にも、怒りが込み上げてきた。

「私が傷ついたって、いつ言ったかな」
 後悔したそばから感情が暴走した。
 店員がぎょっとした顔をしていた。けれど抑えられなかった。
「私の親は産んだ子供には愛情を持たない親だった。ただそれだけのことでしょう」
「……」
 店員が慌てて離れて行った。
「私に同情して満足した?」
 ――今すぐこの唇を閉じたい。
 次から次へと零れ出ようとするみっともない言葉たちを元の場所へと戻したい。

「私はずっと不自由だったよ。不機嫌だって思われないように気をつけて、それでも表情を覗かれるから必死に笑って過ごしたよ」
 本音を隠すことぐらい簡単なのに、優斗の前ではなぜうまくいかないのだろう。
「でも君は感情のまま怒ったり笑ったり悲しんだり、素直に生きてきたんだよね」
 ただ、憎しみが止まらない。
 誰かを無性に傷つけたい。
 壊したい。
  
 そうして風香は気づく。
 目の前の、自分になんらかの想いを持っている優しい人に八つ当たりをしていることに。
 ……八つ当たり?
 ……私は、この人に甘えているの?

 風香はのろのろと自分の唇を片手で塞いだ。
 思考が混線して処理できない。

「フッカちゃん、何でも話して。俺、大丈夫だから……」
 優斗の声が震えている。
「……」
 風香は無意識に左右に首を振っていた。
 ……何でもって、なにを? どこから、どこまで?

「フッカちゃんのこと、俺、なんにもわかってなかった。今からでも間に合わないかな? フッカちゃんのこと知りたい」
 風香は肩を震わせ、抑揚のない声で言った。
「知って、どうするの」
「理解者になりたい。フッカちゃんは俺にとって特別な人だから、幸せでいてほしいんだ」

 し あ わ せ
 その言葉を唇の中で咀嚼していた。

 ……あれっ?
 “幸せ”って、どんなものだっけ?

 少し前まで、風香は自分のことを『幸せ』だと思っていた。
 未知留に選ばれたことがその証明だった。

 
「フッカちゃん、これ……」
 優斗がハンカチを差し出してきた。
「……」
 涙が視界を遮っている。
 受け取らずにいると頬にそれがそっと当たった。左、右、顎を拭われる。
 幼い子供のようにされるがままぼんやりとそれを受け――優斗の温もりになにもかも預けたくなって――風香は意志を持って優斗の手を払った。

「――私は、大丈夫」
 掠れた声が出た。
 だがその言葉に自分自身が励まされた。
「負けるわけにはいかないの」

 たったひとつの拠り所だった未知留に裏切られた今、復讐しか考えられない。
 自分に必要なのは目の前にある優しさでも救いでもない。

「だからお願い。私をそんな目で見ないで」
 ……私は、可哀想な人間なんかじゃない。

「……」
 優斗は何も言わなかった。


 テーブルのオムライスは冷めていた。掛かっているケチャップはクレヨンのように見えたし、チキンライスを包んでいる薄焼き卵は固そうだった。
 
「ゆっくん、食べよ」
 風香はスプーンを手に取った。
 どんなに悲しくても憎くても、惨めでも、負けないためには食べるのだ。
 ……弱ってなんかやらない。そんな暇、ない。
 
 未知留と積み上げた年月を、思い出ごと捨てるための復讐――
 絶対にやり遂げる……。
 
 風香は目の前のオムライスにスプーンを突き立てた。
 

 

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