愛を失う数時間前【通常版】
02 隠されていた手紙
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「――――風ちゃん、風ちゃん……、風ちゃん」
誰かが名前を呼んでいる。
体が揺れる。
「どうしたの? 家に帰らなかったの? ――風ちゃん」
「……ぅ……、――――!」
眠っていたわけではなかった。回想と現実の間に横たわる溝があまりに深くて、絶望していたのだ。
「大丈夫? 寝てた?」
由真に覗き込まれた瞬間、習慣化している仮面がすっと顔に張り付いた。
風香はわざと目を擦った。
「あ、由真ちゃん、休憩? もうそんな時間……」
壁の時計は午前二時だった。
眠そうにして、一緒に時刻を確認する。
「疲れがたまってたのかな、目を閉じたらいつのまにか寝ちゃったみたい」
掠れた声で嘘の言い訳をした。
「風ちゃん……なんて不憫なのよお」
由真は表情をくちゃくちゃにして、風香の丸まった背中を包んだ。
「……」
一瞬だけ、そのぬくもりに身を委ねた。
「日中家事して午後から働いて、週いち、夜勤してさあ」
週に一度の夜勤は正社員になる条件のひとつだ。
このファミレスのアルバイト先をみつけてきたのは未知留だった。
――大手飲食店のノウハウを学んでほしいし、将来のために資金はあればあるだけいいから。
そう言われ、正社員を目指すことにしたのだ。
「……そっかあ、私って働きすぎかあ」
風香は両手を上げて伸びをし、今ようやく目が冴えた、という演技をした。
「それに風ちゃんちって家がすごく広いんでしょ、掃除とかも大変じゃん」
話の流れで、由真にスマホで撮った家の写真を見せたことがある。「映画のセットみたい!」と言われて、確かに、と盛り上がった。
――そういえば花音がいる棟はすべて未知留が掃除していた、と記憶を辿った。
「結婚前からずっとやってたし、慣れてるから」
あの時、風香は何も知らず「わあ、ありがとう」と、家事に協力的な夫に感動してお礼を言った。
馬鹿みたいに、未知留の優しさを信じた。
「じゃ、私そろそろ仕事戻るね」
由真が時計を指しながら言った。
「ねえ、風ちゃん。真夜中だから危ないし、夜が明けるまでここにいたら?」
「……そうしよっかな」
「電気点けとく? 消す?」
「あ、じゃあ消して」
「了解」
パタン――、とドアが閉まり、と同時に風香の顔からも笑顔が消える。
「……」
上半身を折って顔を膝に埋める。
再び濁流のように、ふたりの声と映像が脳内に蘇った。
風香にはその“良さ”が分からないバロック音楽、開け放たれたドア、大胆不敵とも思えるそれらは、この家は自分たちふたりのものだと主張しているように感じられた。
……のんちゃんを家から出さなかったのって、“そういうこと”?
涙の奥で、記憶を辿った。
――「のんちゃんはどうするの?」
未知留との結婚の前に、花音のことを話さないわけにはいかなかった。
「あの子は家から出たことがないから一緒に暮らさないと」
「そうだよね」
そんな簡単なやりとりだけで花音との同居話は終わった。
未知留の家庭は複雑だった。
現在も海外赴任したきりの父には現地に事実婚の妻と子供がいる。それを知った母は心を病み、間接的な原因となった花音を虐待した。そうしてある日、子供たちを置いて家を出ていった。
「父の転勤が決まったとき、母は花音を妊娠していて祖父に海外行きを反対されて日本に残ったんだ――それが、花音を虐待した理由になった……」
「――!」
……妹とのふたり暮らしって、そういうことだったの……
当時、未知留が話してくれた壮絶な過去を、風香は必死に受け止めていた。
「僕は、何も知らずのんきに暮らしてた。花音は、父の裏切りのせいで傷ついて引きこもってると思ってて、母が話してくれたことを疑わなかった」
「……頼れる人は?」
根が深そうで、風香は踏み込むのを止めて聞き方を変えた。
「父に相談したけど、家事代行サービスを手配してくれただけだった」
「……」
やりきれなかった。
――そんな生い立ちを聞いていたからか、結婚と同時に花音と同居することは決定事項だった。
……ぅぐっ、げぼっ、
風香は流し台へ走った。
飲み物しか入れていない胃からは何も出てこないのに、吐き気が込み上げてきて何度もえずいた。
喉の奥が痛い。涙が滲んだ。
――どれほどの時間、沼の底で這いつくばるような気分を味わっていただろうか。
風香はすっくと立ち上がった。
窓の外は暗いままだが、夜が明けたことだけは分かる。
風香は荷物を持ってドアに手を掛けた。
――帰ろう。
未知留を信じる気持ちが一滴さえ残っていないことに、救われたような気持ちになった。
誰かに教えられたことだったなら……、噂話だったなら……、風香は信じない自信があった。そんな馬鹿な話はあるはずがないと一笑したはずだ。世界中の人間が未知留を悪者にしても自分だけは――、妻の自分だけは未知留の味方でいただろう、今までがそうだったように。
だがもう、そんな自分には戻れない。二度と。
当たり前だ。
この耳で確かに聞いたのだ。未知留の声を。ふたりが、重なっている音も。
気のせいだと思い込み、現実から目を逸らす余地はなかった。
――別れよう。
こんな裏切り、受け入れられるはずがない。
……だけど、裏切られた衝撃をなかったことになんて、できそうにない。
無条件で信じていた分、……未知留と積み重ねた信頼関係が長かった分、
憎悪は風香の手に負えないほど強くなった。